スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』イントロダクション 当日ver.
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スペースノットブランク『フィジカル・カタルシス』イントロダクション 当日ver.

批評 東京はるかに

 本日はご来場いただきありがとうございます。東京はるかにという団体を主宰しております、植村朔也と申します。保存記録として製作のプロセスを見届けてきたわたくしから、簡単にイントロダクションを提供させていただきます。
 フィジカル・カタルシスは、通常ダンスとして見ることの出来るような作品ですが、まずお先に演劇の話をいたします。それは、このフィジカル・カタルシスが、ダンスや演劇といったいずれのカテゴリでも包括できないようなものだからです。

・作者の死?

 「作者の死」が唱えられるようになって久しいですが、作家を崇拝する傾向はいまなお続いているように感じられます。
 演劇の長い歴史を振り返ってみますと、そのほとんどの期間では書かれたテクスト、言葉が重視され、上演行為は二次的なものとして捉えられてきたようです。あくまで物語の展開やメッセージの方に演劇の本質があるとされ、俳優の魅力など上演行為に特有の要素についてはうわっつらなものとして軽んじられる傾向があったのです。「カタルシス」という言葉を用いて古典悲劇を論じたアリストテレスの『詩学』でも、上演は文字の読めない人びとに物語を届けるために行われるのだとして、ストーリー以外の要素は軽視されています。
 ところが、このようなテクスト重視の傾向からは、自然とその書き手である劇作家が神格化されます。やがて19世紀ごろになると、単なるテクストの再現を離れて独自のイメージやアイデアを盛り込む演劇が現れ始めます。ここでは演出家の個性が強く打ち出されているわけですが、これもこの、演出家という新しい作家に注意を移したにすぎません。作家性のラディカルな解体はほとんど見過ごされてきたのです。
 そして、このある天才的個人としての作家によって創造された「作品」という概念から離れるその徹底性に、スペースノットブランクの一つの特徴があると言ってよいでしょう。

・スペースノットブランクの変遷

 フィジカル・カタルシスでは言葉は殆ど用いられませんが、近年のいくつかのスペースノットブランクの舞台ではテクストが使用されています。けれどもそれはどの言葉も稽古場での俳優の発言から取られたもので、特定の作家によって書かれたものではありません。また、あくまでスペースノットブランクはこのテキストを舞台の他の要素とフラットな関係にある、一つの素材として捉えています。テキストがメインで舞台がサブ、というこれまでの関係が反転され、テキストは舞台の一部だという捉え方をしているわけです。
 尤も、このようなドキュメンタリー的な手法の演劇は今に始まったことではありません。スペースノットブランクのテキストは、ところどころフィクションを交えながら、言葉が意味が通らないほどにコラージュされています。ダンスの振り付けのように抽象化した言葉が舞台に載せられるのです。物語性は希薄になり、そこにイメージを立ち上げる作業は、観客に託されることになります。つまり、観客もまた、作者の一人として、舞台に加わることになるのです。
 もちろん、俳優の発した言葉を編集し、またそのテクストを素材に舞台を構成する「作者」としての演出家の姿は、ここにも認めることができます。しかし、ここでは作者は複数化され、もはや特定の個人の考えに作品を還元することはできません。
 スペースノットブランクは同じタイトルの作品でも、常にその内容を一新し続けてその形を固定せず、一つの完成に向かうのを拒む舞台をつくりだしています。コミュニケーションによって立ち上がる舞台は、一つの地点にとどまらず、歩みを進め続けるのです。フィジカル・カタルシスも2019年に四回、それぞれ異なる形で上演が既に行われています。これもまた、完結した自律的な「作品」概念から離れるための試みの一つと言ってよいでしょう。
 このようにして、「作家」の「作品」であることから離れた舞台をスペースノットブランクは追求しているわけです。そしてこの舞台は、時間的にも空間的にも、いま・ここの劇場という時空を実際に超越していきます。

・うつしあう創造

 「振り付け」といえば、振り付けをする人がいて、その動きと同じ動きをするダンサーがいる。というのが容易に想像できるかと思います。しかしスペースノットブランクによる振り付けはそのような手法は一切用いません。フィジカル・カタルシスでは、出演者の方々が自分で振り付けを作り出します。演出の小野さんと中澤さんは、彼らが動きを作るための方向性を設定し、そこから生まれてきた動きをパッケージすることに努めているのです。このこともまた、作家主義へのカウンターの一要素に数えることができるでしょう。
 昨年12月の豊橋で行われたフィジカル・カタルシスでは、作られた動きを一度記号に変換した上で、その記号を他の人に手渡し、そこからまた別の動きを生成するという実験が試されました。ここで開拓された方法も加わって、ますます舞台は豊かなモーションに満ち溢れています。
 出演者は必ずしもダンサーとは限らないですから、その挙動はダンスというよりもそれ以前の動きに近いもの、といってもいいかもしれません。出演者の方々は、おたがいに影響し合いながらも、自らの選択によって動きを作り出していきました。そして、稽古場でときに即興的に生成された身振りが、身体言語として共有され、拡散されました。動きがやりとりされ、やりとりが動いていくのです。そして、生の豊かさへと向かうこの生き生きとした創造の運動性は、皆様の方へもうつされてゆきます。
 さて、人と人が出会うところに舞台をつくりだすスペースノットブランクのあり方は、ここ数か月での人々の距離感、遠近感覚、時間間隔の変化をも、きわめて鮮明に描き出すでしょう。形而下の具体的でフィジカルな肉体と、形而上の抽象的で知的なカタルシスとを行き来してうつろう舞台のあり方は、この複雑な移動や距離の感覚を、私たちに示してくれます。
 フィジカル・カタルシスは、たとえ終演しようと終わりを迎えることはありません。アルトーは演劇の感染力をペストに喩えましたが、感染していく動きが声を上げ続ける限り、舞台もまた続き続けるのです。ポストカード型のチケットに記載されたQRコードからスペースノットブランクのウェブサイトにアクセスできます。わたくしのWEB版イントロダクションや、出演者の方々のインタビューなども、観劇後に舞台を皆様が創り続ける参考になれば幸いです。
 それでは、最後までごゆっくりお楽しみください。ご清聴ありがとうございました。

※最終意味段落の題は、公演期間中に金沢21世紀美術館にて実施されていた内藤礼『うつしあう創造』展から拝借しました。

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