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シニカルな没入③ ヌトミック『それからの街』『アワー・ユア・タワーズ』

 ここでは「シニカルな没入」という語をテーマに、ヌトミックの直近の2公演、『アワー・ユア・タワーズ』と『それからの街』を貫いていたものを浮き彫りにしてみます。

ブランコのグルーヴ

 ヌトミックを主宰する額田さんは東京塩麹というグループでミニマル・ミュージックを作っていらっしゃいました。
 『それからの街』の戯曲はその経験を活かし、いくつかの線で区切られて台詞が同時進行し重なり合う、楽譜のような形で書かれています。
 また、その台詞も同じ内容を幾度も繰り返すような、現実的に考えれば不自然な、リフレインの効いたリズミカルなものです。といってもその大胆さは一度見てみないと伝わらないはずですので、ここでその一部だけアップしてしまおうと思います。

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 とはいえ音楽的な発話ということであれば、ままごとなど他にも似た作風の劇団が思い出されます。それらの劇団からヌトミックを区別するのは、音楽と演劇の境界を見つめ、ひいては「上演」行為そのものの輪郭を定義しなおすような、その実践のあり様です。普通発話を音楽的にするという時には、上演に際してバックにビートを打ち鳴らすなどして、まず演劇をベースにそれを音楽化するところに出発する筈です。ところがヌトミックの場合、発話はそう簡単にメロディアスにもならないし、グルーヴもしきりに切断されてしまうのです。そこには演劇と音楽という二項を、どちらか一方を前提してしまうことなく寧ろ併置した上で、その垣根の融解を目指す姿勢が見て取れます。
 そのことを示すかのように、『それからの街』の戯曲には次のような上演指示があります。

台詞の反復に対して、音楽における明確な”テンポ”が存在するわけではないが、ブランコが揺れ続けるように、どことなくゆるやかなリズム感をもって進行する。

 このように明確なテンポを刻まず、揺らぎやぐらつきを孕んだ緩慢で散文的なブランコのグルーヴが本作をかたどっていたのです。
 そしてそのグルーヴは、ブランコを漕げば身体に降りてくる、僕らの日常的な経験に根差したものとしてあります。ビートもないのに会話にリズムがあって気持ちがいい、そんなことってよくあります。「上演」行為の垣根を探る実践は、舞台の外の「日常」と「舞台」の間に引かれた線をもゆるやかにぐらつかせていきます。
 そうして断片化され繰り返される言葉は、物語の文脈から切断され、他のさまざまな意味へと開けていきます。たとえば先に引用したやりとりでは、

デモ?、えっ、まさか
違う違う、結婚式

 というやり取りが繰り返されるわけですが、そのうちに「デモ」は「でも」という逆説に似た響きを与えられますし、「えっ、まさか」という言葉も相手の発言を「まさか(そんなことはありえない)」とやんわり否定して返した元のニュアンスを離れて、なんだか不穏な印象を帯びてきます。
 また、複数の発話が同時に行われていることは、平田オリザさんの同時多発会話を連想させますが、あちらが実コミュニケーションの生の手触りを与えるのに対し、こちらは同時に会話が多発していても、発話者はもう一方の会話を意識していません。別の時空が強制的に同じ空間に同居させられてしまっているわけです。その分、言葉は非現実的なものとして一層意識させられ、コミュニケーションの手段としての機能を離れたミニマルな個物として一層屹立しています。
 ミニマルなものに還元されることで逆に様々な風景を立ち現す言葉のありようは、この作品全体の構造とも対応していました。物語は、近隣のデモの影響やらで人が離れていく、斜陽に突入した団地を舞台に、そこに暮らす女性三人と隣町の男性一人をめぐって展開します。いや、物語が展開していると言ってよいのかは分かりません。団地を巡る悪い状況は推移していきますが、そこに劇的なドラマは生じていないのです。それは無数の住民を抱えながら、住宅の姿に彼らの顔を見出すことのできないような、団地という場所の殺風景さと関係があるかもしれません。
 けれどもそんななんでもない普通の人達の普通の会話、普通の生活が、ミニマルな単位に切断され、舞台に遊離することで、受け手の想像力によって色味を帯び、ゆたかな風景を立ち上げます。団地という無機質で集合的な場所が、その無機質さ、集合性の故に、逆説的にそれぞれの人にかけがえのない景色を立ち上げる足場となるのです。
 感動的なのは終盤、俳優の方たちが町のお店の名前をそれぞれに発話するシーンです。

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 クリーニング屋、博多ラーメン屋、お弁当屋といった名詞がぽんぽんと羅列されていきます。ここで注意したいのは、あくまで俳優は作中人物への同化を崩さずにこれらの言葉を口にしていることです。俳優が役から離れて、ただ言葉を投げる抽象的な身体になるような戯曲も多数あるのです。ですけれども、この戯曲では、あくまでこれまで描かれてきた作中人物が発話主体に同様に選ばれています。だからこそ観客は、見も知らぬその街で暮らす誰かが、クリーニング屋やお弁当屋といったそれぞれの場所にそれぞれの仕方で向き合い、淡白な名詞に時間の重みを持たせていく様に、思いをはせることが出来るのです。
 作中に何度も登場する「富士見橋」という橋は、富士山の見える所にならいくらでも架かる筈で、事実日本各所に見つけることが出来ます。具体的な場所を指示しながらしかし抽象的なこの地名は、団地のある狭い街の風景を一度キャンセルし、そこに生きる人々やそれに出会う人々(観客)の交差が織りなす複雑で豊かな景色へとこれを昇華させる作品のあり方を象徴しているかのようです。ある部屋の内観にも見えながら、緑や水のある街全体の縮図でもあるかのような多視点的な舞台美術もまた、この想像力の飛翔を支えていました。
 ところで作中、ブランコは団地の公園がデモの根城になってしまったために撤去される遊具、すなわち行政によって排除される存在の象徴として描かれてもいます。作中ではデモに参加した男性がその経験について「楽しかったです、とっても」、「コール&レスポンスとかあって、決まり文句の、なんかライブみたいで」と語るシーンがあるのですが、だとすればライブのようにはノリきらないブランコのグルーヴは、デモのように声高で画一的なプロパガンダ的表現とは対照的に、自らを排除せんとする大きな抽象的な力への、弱弱しくも雄弁な抵抗の身振りであるかもしれません。

シニカルな没入――ブレヒトとの対応

 ブレヒトというドイツの劇作家はかつて、舞台のシナリオに受動的に感情移入してばかりの観客に対し、より知的に、能動的に、批評的に距離をとって作品に向き合うよう促しました。そのために、チャプターのタイトルを文字で観客に見せつけたり、観客やシナリオを茶化すような詞の歌を用意したりと、観客を物語から引き離し、距離をもって舞台に向き合わせる工夫を様々に凝らしました。見知った現実の文脈から離れた場所で、世界はまったく違った姿を取りうるのだという可能性を示唆するようなこれらの働きを「異化効果」と言います(ブレヒトの場合、資本主義社会を解体し、共産主義革命を実現する主体を劇場で養成することに狙いがありました)。
 用意された劇世界への素直な感情移入を許さず、舞台に浮かび上がる言葉を受け取るたびに各自の仕方で情景を立ち上げることを観客に要請する『それからの街』こそは、まさにブレヒトの異化効果の現代的な実践だったと言えるかもしれません。ですが、観客はここでシニカルな距離取りをして現実を「異化」するばかりではありません。つぎはぎされ「異化」された街に、観客は飛び立ち、足を踏み入れてゆくのですから。
 『それからの街』は国際舞台芸術ミーティング、通称TPAMに登録していました。そこで、日本語に通じていない海外の方へのために、上演中台詞の英訳が常に投影されていたのです。ですが、これはこの作品にあっては、単なる鑑賞の助けとしては理解できません。例えば、どの箇所だったかは忘れてしまったのですが、”hell”という言葉を用いた慣用句(What the hell、だったでしょうか)に英訳することによって、言葉の素直な意味内容は変わらないにしても、発話された言葉のゆらぎにさらなるニュアンスが付加される場合があったからです。英語字幕は時として言葉のニュアンスを特定のベクトルに規定し、或いは観客の期待したニュアンスを裏切るなどして、言葉の持つベクトルを乱反射させます。聴覚情報の重要性が大きい作品ですから、舞台上の俳優からは目を離し、英語字幕と台詞の対応を追ってみた方も多くいらっしゃったのではないでしょうか。その場合、舞台の地平の上方にある、いわば作品世界の外部の情報と、団地のある街の、片隅でのやりとりとを往復する視線の動性のうちに、一層シニカルな没入が果たされていたということが出来るでしょう。

輻輳する想像力

 ところで詩織という女性は、デモに参加した母が国政に不安を感じた結果、逃げるようにスウェーデンへの移住を決め込んでしまって、この団地を離れます。ですが、団地を離れかの地へ飛ぶ不安を吐露した彼女のモノローグは、終盤で彼女だけでなくすべての役によって語られます。

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 それだけ役同士がブランコの身振りを通じ、相互に溶け合う仕方で同一化しているのだ、ということも言えるはずですが、団地に住むような生活水準の家庭が国外への移住を簡単に決断し、しかもその目的地にスウェーデンというこれまた暮らしぶりのよい街を選ぶことには、なんだか非現実味を感じます。このモノローグ自体が、切断と循環により多義化し並行してゆく世界がもたらす、一つの虚妄のように思えてならないのです。『それからの街』でブランコのグルーヴが生むのが、現実感のないままに北欧へフライトしてしまうような地に足のつかない夢、劇場という特殊な場所での想像力の飛翔が許す美しくも刹那的な幻なのだとしたら、僕らはこの街にどう根を下ろしてゆけばよいでしょう。

定住


 『アワー・ユア・タワーズ』はホテルをリノベーションした複合施設CLASKAの8階のギャラリーで上演されました。舞台と客席の区別のない、とてもフラットな空間を目いっぱいに用いてパフォーマンスは行われ、俳優の方々は観客の間を縫うようにして演技なさっていました。観客は上演中自由に移動することが出来、俳優のごく近くに接近することもできれば、話を追うことから離れて会場の端に設けられたブースへ駄菓子やお酒を購入しに向かうこともできました。シナリオから好きに離脱することが出来るこの自由の感覚が、作品へのシニカルな没入を支えていました。
 本作もまた明快な一本のシナリオに貫かれてはいませんでした。東京の人々のリサーチから構成されたという本作は40の断片的なシーンから成ります。そしてこのシーン、連続性が希薄なだけではなくて、その一つ一つ取り上げても、率直に言って面白味の薄い、どう受け取ってよいかわからないものばかりです(意図的なつくりと捉え、率直に申し上げました)。つまり、かみ砕きやすいように既に咀嚼されてしまった、Youtubeの動画のような、極めて消費的なシーンの重なりがシークエンスを形成していたのです。
 俳優は会場を動き回るのでうまく追いついて欲しい、基本的には注目すべき俳優に照明を当てるけれどもそうでないシーンもある、といった旨のアナウンスが事前に示されます。実際、シーンに参加する俳優が演技する傍らで、別の俳優は次のシーンのために所定の場所へ移動していたりしたのです。そこで僕は、どのシーンもなるべく見逃さないようにしようと思い、照明が当たらず後景に引いた俳優の方々から、けして目を逸らさないようにしました。その結果として、目の前で起きている情景に焦点は合わせながらも、次に何がどこで起きるかに常に意識を向けた、心ここにあらずといったような、これ以上ないほどシニカルな状態で、しかしその作品体験に楽しくのめり込んでいきました。
 このように観客にシニカルで俯瞰的な没入を促しながら、意外なことに、たとえ受動的でも誘導に従ってさえいればすべてのシーンを漏らさず鑑賞することが出来るような、親切な設計が採用されていました。だからこの作品では、僕らは主体的に歩き回り、一つ高い視座から会場を行き来するのだけれど、どう動こうと与えられるものは大差ない消費的なものにすぎなかったのです。
 先にも触れたように、作品は40程度のシーンから成っていたので、複数の筋が並行して走っていました。その中には、たとえばタワマンの一室に居を構えることを夢見て、ローンでついに購入した男性の失望が、あるいは、気に入らないのだけど世田谷区に住み続ける女性の諦念が描かれていました。この狭い都市にはあまりに多くの人が住んでいるのだから、おそらくは誰もが自分で満足に住まいを決めれるわけではないはずです。その住みかには、その場所を押し付けられてしまったような感覚と共に、自分の本当の居場所はここじゃないとでもいうような不満を感じてしまうものでしょう。
 与えられた風景をどれだけ豊かに主体的に楽しめるかという経験が『アワー・ユア・タワーズ』なのだと思いました。
 CLASKAの8階はやがて窓を板で塞がれ、閉じられて、ホテルの一室を超えた抽象的な場所に転じます。そのような暗い空間に閉じ込められた僕らは、自由に動けはするものの、矢張り受動的に消費的に与えられるコンテンツに塞がれてしまいます。だけれど、だからこそ、そういう奇妙な時間を経て、窓を塞いでいた板が取り払われたときに、窓の外に見えたいつもの東京の街は、憎々しくも愛おしく見えたのです。
 そしてその自由な場所では、気だるげな不穏さに塗り固められた窓の、その外の景色を愛せないままでいる自由さえも、許されているように見えました。

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もうひとつの景色


 最後に、東京はるかにに新しく入るメンバーが、この『アワー・ユア・タワーズ』に寄せてくれた文章で、この稿を閉じたく思います。その人は小劇場に足を運んだのはこの作品が初めてだったのだと言います。これも、タワーマンションの一室の愛憎半ばするメタファーとしての、CLASKAのギャラリーから見えた、また異なる一つの景色です。

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70分のお芝居の中で、40シーンをやる。長くても1つのシーンは5分程度で、短いと1分にも満たないシーンもある。シーンはテンポよく変わっていくのですが、前のシーンの続きになっているシーンもあれば、全く関係のないシーンもあります。先述した通り、シーンの長さもバラバラです。シーンが変わるごとに、そのシーンのタイトルがスクリーンに映し出されます。分かりやすいタイトルでそのままを演じているシーンもあれば、何をやっているのか、タイトルが何を意味しているのか分からないシーンもあります。ただ、スクリーンに言葉が映し出され、急に俳優さんにスポットライトが当たってお芝居が始まり、何が起こっているのか自分の頭の中で意味を考える、その視線の動き、思考の変化の躍動感というかハイテンポな感じがとても心地よかったです。そう、視線の動きが特に面白かったです。観客は立って歩いてお芝居を見て、劇場の(そんなに広くはないのですが)いたるところで俳優さんがお芝居をする。観客の視線をてがかりに俳優さんを見つけるのがかくれんぼみたいでした。どこかで見たことのあるような、だけど少し変な、俳優さん達のやり取り。それを歩き回ったり地べたに座ったりして観る。ちょっとだけ変な東京の街角に迷い込んだみたいな気分になりました。
話の内容にも少し触れようと思います。東京にある、電車、タワマン、巣鴨、ごみが登場します。そして、東京で無限にすれ違う、気にも留めない何てことない人たちにスポットライトが当たります。自分もその1人だし、みんなもその1人なんだなと思いました。だから、この作品を見た後に東京を歩くと、まるでこの作品の続編のようで楽しいです。

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