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「弱いい派」は「かわいい派」か

・”弱い”って何だろうね

 2021年7月、芸劇eyes番外編 vol.3『もしもし、こちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』 が東京芸術劇場シアターイーストで開催されました。徳永京子さんが提唱した「弱いい派」の概念をめぐるショーケース公演です。
 ところで、「弱いい派」という言葉には、それを代表する存在として選ばれた作家自身からも疑問の声が上がっています。以下に引用するのは、いいへんじを主宰する中島梓織さんのインタビューです。

── “弱いい派”と言われることは、どう感じていますか?

中島 どう振る舞ったらいいかという迷いはあります。「“弱いい派”にいいへんじも加わった」と言われた時に、贅沢貧乏やゆうめいやウンゲツィーファの並びに入るんだ!と驚いたんですよ。みなさんの作品がすごく好きだったからうれしくて。ただ、「私たちって“弱いい派”なんだ。“弱い”って何だろうね」と思いながら、ここまできました。
たしかにスタートラインで足踏みしちゃうことや、「そんなこと気にしなくていいよ」と言われることにこだわることは、相対的に“弱い”とされることかもしれないです。そういう状態を肯定したいという意味では“弱いい派”かもしれません。
でも、社会的に弱い立場であることをいいとは思っていないです。たとえば自分は女性で、精神障害を持っていて、非正規雇用だけど、それを社会的に弱さとされることには緩やかに抵抗していきたい。弱くていいというよりは、そもそもそれは”弱さ”ではないんじゃないか?と思うんです。その人が抱えているものと、社会的な影響は、分けて考えないといけない。考えたいのは、そこにいる人間をフィルターを通して見ずに存在を認めるということです。メンタルヘルスについて扱うにしても、それはあくまでただの題材で、そこに人間はいますぜ、ということを大事にしたいです。

 ここで中島さんの発言――特に、「”弱い”ってなんだろうね」という戸惑い――が浮き彫りにしているのは、「弱いい派」概念の次のような問題でしょう。

①弱さが社会的な属性として固定化されること
②他者に「あなたは弱い。でもそれでいい!」と呼び掛けてしまうこと

 しかし、こうした問題を検討する前に、「弱いい派」がなぜ「いい」のかを確認する必要があります。二つの問題は、「弱いい派」概念のうちにあらかじめ解消されている可能性があるからです。たとえば①について言えば、中島さんの言う「そこにいる人間をフィルターを通して見ずに存在を認める」態度は、「弱いい派」について書かれた徳永さんのいくつかの論考ですでにその重要な特徴として示されたところでもあります。

・「弱いい派」はなぜ「いい」のか

 先述のショーケース公演のために描かれた「「強い」「速い」「大きい」「合理的」という価値感から遠く離れて、 要注目の才能達は、弱さの肯定から世界を見つめる」という文章では、「弱いい派」の特徴は次のようにまとめられているばかりです。

“弱さの肯定”とは、今の時代を環境的にも内面的にもストレスなく生きていけるグループに属さない人達が、従来の勝ち負けや速さや声の大きさといった価値観をすり抜け、とりあえず明日を生きていこうとするささやかにポジティブな姿勢。

しかしこれだけでは、「弱いい派」は社会的弱者の現状肯定にすぎないのではないか、との懸念がぬぐえません。ただし、公演のイントロとしてごく短く書かれたこの文章をもとに「弱いい派」を否定することも早急です。実際、安易な現状肯定を超えていく力を、徳永さんの他のテクストは既にとらえているからです。

 徳永さんが「弱いい派」について書いた文章で特に代表的なものは、「震災、やまゆり園、「弱いい派」。」(『現代詩手帖』2018年11月号所収。以下「震災~」)と、「”その後”に出現した「弱いい派」について」(『現代日本演劇のダイナミズム』所収。以下「”その後”~」)でしょう。なお、後者の内容は、徳永さんが演劇最強論-ing「徳永京子の2018年プレイバック」のページで展開している議論と内容が一部重複しています。
 まずは「震災~」の内容を確認します。重要なのは、単なる開き直りの言葉とも受け取れる「弱いですけど、なにか?」という言葉が置かれる、その文脈です。

この一、二年、第二次ポスト震災と呼ぶべき潮流が生まれている。主に二十代と三十代前半のつくり手たちが「被災者」を「被害者」、さらに「社会的に弱い立場の人」まで射程を広げ、その人たちを描いた物語ではなく、その人たちから見えた世界を物語にすることが目立ってきた。
(……)
「弱いい派」のつくり手たちは「弱い人を守ろう」「あの事件、事故を忘れないようにしよう」とは言わない。「弱くてもいいでしょ?」と聞く。(pp.26-27)

(強調引用者)

 ここで、弱者の当事者性それ自体にフォーカスを当てるのではなく、むしろ当事者性から透けて見える世界の在り方の方が焦点化されていることが、決定的に重要です。同趣旨の内容は「”その後”~」にも見られます。

寄り添う、想像する、すなわちそれは当事者性である。一方で「弱いい派」は、被災者、被害者、弱者そのものの立場を取る。(p.29)

 ですから「弱いい派」は、単に弱者を題材にした作品ではありません。そうではなくて、むしろ創作主体自身が「被災者、被害者、弱者そのものの立場を取る」のです。この

③「被災者、被害者、弱者その者の立場を取る」という条件

もまた、「弱いい」派をめぐる重要な問題となる筈ですが、こちらは後述します。
 徳永さんは、震災をめぐる時間を「以前/直後/その後」の三つに切り分けた上で、「その後」にあたる現在は「困難な状況にいる人を思いやる想像力が最初から欠落した、弱い立場にいることは自己責任だとされる世界」だとしています。この「その後」の時間にあっては、弱者を題材にした当事者性の作品は、その効力をいくらか失ってしまうというわけです。目指されているのは思いやりをはじめからあてにするのではなく、むしろ弱者の目を通して世界を見ることで、そうした「想像力」の創出に向かう舞台なのです。

 「弱いい派」は糾弾や復讐、戦いではなく、毅然と、あるいは柔らかく、「弱いですけど、それが何か?」と問いかけて相手との関係をフラットにし、見下そう、切り捨てようとする先方を脱臼させる。立場は弱いと思われるのに、泣きも吠えもしない不戦勝の態度が「なぜそうしていられるんだろう?」と疑問を呼び、それが今の社会からすっかり失われてしまった想像力を押し広げるきっかけになればいい。”直後”よりも続く”その後”を生きていかなければならない私たちは、本当に戦わなければならないのはその後の時間であり、想像力はその長旅に耐える必須アイテムだからだ。(pp.30-31)

さらに注目しなければならないのは、「弱いい派」は単に弱者の現実に直面させ、同情心を喚起するようなポリティクスを採用していないことです。むしろそこで目指されているのは、「相手との関係をフラットにし、見下そう、切り捨てようとする先方を脱臼させる」ことで、強/弱の二項対立的なヒエラルキーを自然と解体する、「弱いい」のもつ力です。ですから「弱いい」は、ポジティヴに解釈された弱さというよりも、強さにも弱さにも帰属しない脱構築的な第三項と見なされるべきでしょう。
 こうしてみていくと、そもそも「弱いい派」は社会的な属性として弱者やマイノリティを固定するものではありえないことがわかります。目指されているのはそれを超えた「フラット」さであり、また作品はあくまで属性としての「弱さ」よりも個人の「弱いい」生にフォーカスするものであることが、定義上明らかだからです。

・弱いい派はかわいい派か

 さて、このように見てきて、他者を「弱いい派」と名指すことの暴力性はいくらか緩和されるように思います。「弱いい」を単なる弱さとは異なる第三項として捉えた上で、そこに弱者としての自らの位置自体を疑う動的な力をも認める概念こそが「弱いい派」だからです。しかし、そうしたポジティヴさのゆえに、「弱いい派」という言葉が持つ響きがまったく肯定的になるわけでもないと思われます。
 ところで、「弱いい」と同種のニュアンスを抱える言葉が日本語には既にあります。そう、「かわいい」です。というのも「かわいい」とは、自律性を欠いた未成熟な(あるいは、時に老衰した)存在をそれでも肯定的に評価する言葉だからです。だからこそ、一見誉め言葉である「かわいい」には、その裏で時に相手を見下すようなニュアンスを、発話主体の意図にかかわらず、必然的に帯びてしまうことになるのです。四方田犬彦『「かわいい」論』は、「かはゆし」という言葉の最初の用例(『今昔物語集』)が意味するところは「痛ましくて見るに忍びない。気の毒だ。不憫だ」というものであったことを指摘しています。英語圏ではcuteという言葉は、まさに強者による弱者の支配を体現する強い政治性を帯びた、取り扱いの難しい語彙として受け止められています。
 しかし、「弱いい」と「かわいい」の間には、さらなる対応を認めることができます。うつろいやすく「いま・ここ」という現在性を強く喚起する概念であることもそうですが、前節で示したような力動的で攪乱的な、脱構築的な力は、かわいさのうちにも認めることができるのです。
 サイモン・メイ『「かわいい」の世界:ザ・パワー・オブ・キュート』(吉嶺英美訳)は、キュートが

無力さや無垢を象徴するだけでなく、力についての一般的な価値観――そして力を持つ者と持たざる者についての大前提――を弄び、嘲笑い、皮肉っているとしたらどうだろうか?
〔…〕
キュートの陽気でふざけた空気は、明快と曖昧、健全と異常、無邪気と老練の境界線を曖昧にし、いかにも人間くさい不確定性を生み出すが、もしそれがこのキュートの大人気のいちばんの理由だとしたらどうだろう?(pp.12-13)

と問いかけます。さらにメイは次のようにも述べています。

キュートなものがキュートに見えるのは、それがか弱いから、または不運だからではなく、か弱くて不運なのに、それでも生き抜いているからだ。もし、衰弱して、しなびた末に死んでしまうのであれば、最初からキュートになど見えはしない。
〔…〕
元気あふれるサバイバーであるキュートなものたちは、他者を庇護する存在と見なされることも多い。だからキュートは”無力さの美化”であり、キュートなものは”ぼんやりしていて無力、または無能なときがいちばんキュート”などという見方は大間違いなのだ。むしろ実態は正反対で、私たちのほうが自分を弱者と考え、キュートなものが自分を助けに来てくれたと感じるのだ。(pp.166-167)

(強調筆者)

 「弱いい派」という言葉が作り手にとってもポジティヴなものとして素直に受け入れられるためには、この生き抜く力、苦境をサヴァイヴする力にこそ焦点があてられるべきでしょう。それに、これからの社会では、上演の達成そのものが、「弱いい」存在である作家がサヴァイヴする力のひとつの発露になるはずです(それはもちろん、ある意味で残念なことなのですが)。
 日本に「かわいい」という心性が今日見られることの意味を、従来の「かわいい」に代わる「カワイイ」という言葉でメイは次のように整理していますが、ここにも「弱いい派」との対応が認められます。

感性としてのカワイイは、たよりなさや脆弱さの暗示として戦後の日本の少女文化にあふれていた”かわいらしさ”を超越し――たとえば、この後に紹介する村上や奈良、宮崎といった日本人アーティストの作品からもわかるように――より表情豊かな曖昧さを持つようになっていった。つまり自分をカワイイ存在として見せるということは、自らを脆弱で他者の庇護が必要な存在に見せつつ、誇り高く、自立した存在にも見せるということなのだ。(p. 73)
カワイイを、受け身であること、あるいは無害であることを強調するフェティシズム的無抵抗の美意識――日本が自国の弱体化を喧伝し、そのイメージを定着させるのにぴったりの美意識――にすぎないと考えるのは誤りだ。〔…〕暴力を重苦しくもなければ、脅迫的でもないかたちで表現するのだ。つまりキュートは、攻撃性を排除するが、同時に攻撃性を昇華することもできるのである。(p. 82)

さらにメイの次の言葉は、「弱いい派」の作品が劇場という公的な場で上演されることの意義をも明確にしています。
 すなわち、「道徳的関心領域の拡大を促す完璧な刺激でもある」キュートが

最も重要かつクリエイティブな存在でいられるのは当然、公の場でなければならない。なぜなら、公の場こそが、過去に悲劇的な過ちが起きた場所であり、カワイイが持ち前の浅はかさ、無害さ、曖昧さで、軍国主義時代の日本の精神と深く関わる真面目さ、残忍性、従順さを否定する場所だからだ。(p. 102)


ここで、「かわいい」と「弱いい」が支配の力関係を覆すその仕方について、もう少し具体的に考察を深めておきたいと思います。
 たとえば四方田は、「かわいい」と呼ばれ困惑や嫌悪感を露わにする男性の存在を指摘したのち、

「かわいい」は男としての自己認識を攪拌させ混乱させる言葉であり、思考の枠の外側に置かれている観念である 

と述べています。「かわいい」には男/女というジェンダーの二項対立を揺るがす動的な力があり、その動因は、普通女性の特徴とされる「かわいい」を男性にあてがうことだというわけです。
 仮に「弱いい」が素朴に弱さに帰属しない第三項であるならば、より過激な表現の一形態として、社会的に強者と見なされている存在の「弱いい」要素を上演のうちに切り出す方法が模索されても良いでしょう。

・ウンゲツィーファ『Uber Boyz』

 冒頭で示したショーケース公演「もしもし、こちら弱いい派」で上演された作品のひとつ、ウンゲツィーファ『Uber Boyz』は、一見して、社会的弱者を扱った舞台には見えませんでした。
 その上演内容は山崎健太さんのレビューに詳しいですが、荒唐無稽なSF的世界観で、ほとんど脈絡がなく、ドラマ性に欠け、どう楽しんでよいかもちょっとわからないような物語がだらだらと展開されます。台詞の大部分はサブカルチャー作品からの、ギャグとしてさえほとんど成立していないような無数の引用から成っています。
 これは「弱いい派」と名指されることへの批評的なカウンターとして了解することもできるでしょう。しかし、ここでは別の解釈を採りたいと思います。
 特に多く感じられたのが『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』からのパスティーシュです。中学生のパイロットたちに作家庵野秀明の未成熟な内面を投射し、私小説的な読解を誘いながら急速に膨張したコンテンツが、キャラクターの成長とともに25年越しのピリオドが打たれた作品です。しかし、『Uber Boyz』全体の構造自体は、むしろ25年前の悪名高いTV版エヴァンゲリオンの構成をなぞっています。最後、予告編のような映像が勢いよく壁面に投影され、これまで見てきた『Uber Boyz』は未完成品であり、完成版が観られるのはまた遠い先の未来だと告げられるからです。これはある意味では、『シン・エヴァ』で示された成熟に対する決定的な拒絶ともとれます(実際、『シン・エヴァ』で成長を遂げたキャラクターたちは、そもそもがごく選りすぐりのエリートたちです)。
 そうすると、サブカルチャーの引用と編集に戯れる、ザ・動物化するポストモダン的な『Uber Boyz』の上演はまさに弱さの極致のようです。
 しかしここで重要なのは、それがあくまで自覚的な表現として、「弱いい派」のショーケース公演の俎上に載せられていることです。パスティーシュがほとんどの観客にとってギャグとして成立していない(ように思われる)ために、どう観てよいかさえ不明瞭な舞台の形式は、「弱いい派」にある種のしんみりした感動を求めていたかもしれない観客を戸惑わせ、子供のようにステージで遊ぶ、コスプレのようなキュートなコスチュームを身にまとった男性たちの姿をありのままに直視させます。さらに彼らはステージから挑発するように客席に呼びかけ、見る/見られる、生産者/消費者といった関係をまさしくフラットにしてしまうのです。

・当事者性の問題についての問題提起

 最後に、③「弱いい派」が弱者それ自体、当事者それ自体の視点に立つことを謳う点について。なんらかの「他者」を引き受け演技することがふつうである演劇にとって、このことは様々な問題を含んでいます。
 まず、作家が「被災者、被害者、弱者そのものの立場を取る」ことは、作為的には成し得ません。では、それは果たしていかにして可能になるのでしょうか。

東日本大震災と福島第一原発の事故に影響を受けなかった演劇作家は日本にいない。その影響の度合いにはグラデーションが、アウトプットの形にはバリエーションがあるが、それを決定するのは当然、以前/直後/その後に何歳でどこにいたかが重要なファクターになる。(「”その後”~」p. 26)

つまり、いわゆる被災地にいない人間であっても、現代の日本を生きる作家はほとんどすべてが何らかの意味で「当事者」である、というわけです。
 しかしそれでは「弱いい派」は、作家の実体験からなるエピソードを扱う作家(ゆうめい、いいへんじなど)に限定して論じられるべき、ということにはならないでしょうか? たとえば贅沢貧乏や範宙遊泳といった作家たちは、ほんとうに「弱いい派」と呼ばれるにふさわしい団体なのでしょうか?
 またそうでないとすれば、「「被災者」を「被害者」、さらに「社会的に弱い立場の人」まで射程を広げ、その人たちを描いた物語ではなく、その人たちから見えた世界を物語にする」とは、結局のところ、どのような作劇や演技行為を指しているのでしょうか。
 この曖昧さが拭えないうちは、「弱いい派」に選ばれる作家については、その基準が恣意的であるというそしりを免れることはできないように思われます。

 また、「弱いい派」の作家選定基準について注目されるのは、「震災~」で「弱いい派」の作家の性格について述べたと思われる徳永さんの次の言葉です。

成功してもそれほど経済的に恵まれず、アナログで手間がかかり、初期衝動は反映しやすいものの一度に届けられる人数も限られる演劇を選び、続けている時点で、合理性や経済性を軸に動く今の日本社会と反りが合わないのは自明で、そこには、社会性からはみ出す不器用さが体質としてあり、それが彼や彼女の創造性と分かちがたく結びついている

 この言葉を素直に受け取ると、鶏が先か卵が先かはおいておくにせよ、演劇従事者の弱さは、演劇に従事することそれ自体と必然的に結びついて見えます。実際、演劇活動へのコミットは、社会的・経済的に不利な境遇を受け入れることなくして普通成立しえないでしょう。だからある意味では、演劇に従事することの弱さそれ自体への自己言及こそが、作家の当事者性に直接寄り添った、「弱いい派」の正当な表現となり得るでしょう。
 そしてその場合、たとえばFUKAIPRODUCE羽衣や、小田尚稔の演劇は、まさに「弱いい派」を代表する作家として数えられる必要が出てくるでしょう。事実、わたしは「弱いい派」の最良のモデルケースを、小田さんの『是でいいのだ』のうちに見ています(その理由については拙評をご確認ください)。


 ここまで、徳永さんの「弱いい派」という概念について、「かわいい」概念とのアナロジーを経つつ、それが弱者の社会的属性を固定するものでなければ、安易な現状肯定に終わるものでもないこと、それどころか観客の想像力を羽ばたかせ、既存の社会の力関係やヒエラルキーを脱構築的に攪乱しうるものであるポジティヴなものであることを確認してきました。また、最後に、弱者の当事者性にかかわる、作品選定の恣意性についても指摘しました。

 「弱いい派」についての理解が広く共有され、前向きな議論や優れた作品が続く一助となることを期待します。

植村朔也


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