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敵対性のアンガージュマン:毛皮族2020Tokyo『あのコのDANCE』評

・概要

 毛皮族2020Tokyo『あのコのDANCE』は2020年の9/2~7にわたって、下北沢のザ・スズナリで上演されました。上演期間中は毎日生配信が行われ、また公演終了後も記録映像がディレクターズカット版と称して有料で公開されていました。
 毛皮族とは、江本純子さんが主宰をなさっていた劇団で、セクシャル&ヴァイオレンスな表現のポップさで好評を博していましたが、2014年の1月には「離散」してしまったのだそうです。江本さんは近年では劇団のスタイルを放棄し、座組内および舞台と客席との間の水平的な構造に向かっていらっしゃいました。
 そうして東京オリンピックのこの年に新たに結成されたのがこの毛皮族2020Tokyoだというのですが、公式サイトの役職名には演出や俳優という表記ではなく、「族仲間」として35名の名前がクレジットされています(2020/11/7時点)。垂直に連なる名前の物量は実際壮観です(ただし、クレジットは出演者から順になされたもので、厳密に価値中立的なものではありませんでした)。

・おふざ芸

 スズナリの普段は客席として使用されているひな壇に舞台は設定され、客席は舞台の平台に設けられました。ひな壇はビニールで覆われ、またさらに一段高く足場が設けられていました。乱雑に物が覆われていて生活感があり、ホームレスの方の住まいにも、あるいは工事現場のようにも見えました。
 音響ブースは観客の視野に入る下手側に置かれ、また上演中はカメラをもった人が舞台を自由に移動していました。劇場のロビーからホールに入る入り口は常時開放され、また鈴なり横丁に面した舞台脇のドアも開いているので、外の雨音や走行音、飲み屋の狂騒も耳に入ってきました。また上演中はカメラの捉える映像が舞台後方の壁面に投影され、多角的な視点を舞台に用意していました。
 やがて江本さんと高山のえみさんが入場し、ひな壇に座りますが、どうやら二人は観客として舞台の開演を待っているようです。それから1,20分ほど、二人の散漫な会話を聞かされる時間が続きます。観劇事情や下北沢についてのとりとめもない日常的な話題で、そこにメッセージや主題、目的などは見つかりません。台詞も早口で滑舌もよくなく、会話の即興性が強く意識される演技ですが、おそらくは戯曲に沿った意図的な発話です。
 やがて奇抜な衣装を身にまとった役者が入場しひな壇を登ってきますが、江本さんたちは彼らを「観客」として名指します。けれどもやがて「客席あっちじゃねー!?」と気が付く二人。客席最前列に設けられた席に場所を移し、振り向いて観客たちに「お喋りは辞めますからね、安心してください」と呼びかけながらも、やっぱり本番が「始まっていないなら」ということで発話を続けます。
 彼らは「生のお芝居を渇望してるのよ!」と訴えます。もっとも、目の前には役者が居て、見事に装飾された舞台の上で佇んでいます。舞台があり、客席があり、ここにはすでに「いま・ここ」の構造が生起する用意が整っています。けれどもそれが「生のお芝居」への「渇望」を既に満たしたようには思われません。「一人の人が、舞台を横切って歩く。それだけで演劇は成立する」と書いたのはピーター・ブルックですが、どうやら彼らはそうでない舞台の「始まり」を期待しているようなのです。
 金子清文さんから始まり、ひな壇上の各人がパフォーマンスを始めますが、声は小さく早口で、内容も散漫な一発芸です。そんなスベリギャグを披露するたびに、彼らは「どうぞ」といって誰かにバトンをタッチしては、恥ずかしそうにうずくまるのです。客席に背を向けたパフォーマンスであることもしばしばで、おまけにシールドマスクが台詞の聞こえづらさに拍車をかけています。何を言っているのかさえわからないために、観客としては素直に楽しんで笑ってあげることは困難です。
 舞台はこの、彼らが「おふざ芸」と呼ぶところのスベリギャグを中心に構成されています。毛皮族の再結成と聞いて、多くの観客がめくるめくアヴァンギャルドで刺激的な見世物を期待したことでしょう。しかし実際には、舞台美術やその構造、衣装などはたしかにファンキーであるものの、ポップで過激なイメージを享楽的に消費することは、この舞台では許されていませんでした。
 「おふざ芸」が一通り一巡すると、「お粗末様でした!」とみな向かい合って深々と礼をします。それから、今度は一発ギャグというよりは「おふざ芸」に向けた所信表明のようなものが叫ばれます。自分たちのパフォーマンスが報われなくても聞き入れられなくても、精一杯頑張る、という。けれどもそれも江本さん・高山さんのコメンタリーによって相対化されてしまうのです。

・出口なし?

 ステートメントには「民から生まれる民間芸術、略して民芸。」とあって、この「おふざ芸」が目指すところのものが伺えます。けれどもここでその「民芸」は常に視線という権力を保持する貴族的存在たる観客の表象によってコメントされ、茶化され、相対化されてしまうのです。その点で『あのコのDANCE』による大衆芸術の賞賛は一筋縄ではありません。観客の方をまなざすことなく、舞台内で完結する俳優たちの視線は、内輪に閉じこもる自己満足的な趣味のサークルをも思わせます。
 そのような閉鎖性の印象とは裏腹に、作品は過剰な接続に曝されてもいました。小早川俊輔さんがYoutuberを演ずる「配信の王子様」のコーナーがたびたびプロジェクションされますし(これもたいがいクソギャグでした)、作品は常に生配信されているわけです。客席のことなどどこ吹く風で、カメラの方を意識した演技も目立ちました。
 そしてなにより重要な特色として、上演時間中、小川紘司さんの引くリヤカーに載せられたディスプレイが、下北沢の街でこの上演の姿を常時生配信しているのです。ですから極端な話、このリヤカーにずっとついていけば、お金を一切払うことなく「観劇」が可能だったはずです。そして、小川さんが下北沢の街の人びとに行うリアルタイムのインタビューが、しばしば突発的に劇場のほうでもライブ配信されました。
 こうした過剰接続を通じて舞台のライブリネスは減じられてゆきます。わたしたちが快く消費できるような、「見るべきもの」はそのどこにもないのです。わたしはディレクターズカット版の映像を後から参照しましたが、そこではリヤカーの流す配信映像に誰も目をくれない状況が小川さんから実況され、途方に暮れる出演陣の姿が繰り返し描き出されていました。
 こうした「いま・ここ」性の圧殺はしかし、もちろん上演の失敗というよりはある種の批評的な実践と捉えるべきです。映像でしか舞台に触れることのできない状況について、「いま・ここ」性の不在、身体性や集合性、現前性の欠落ゆえの空虚さが2020年の春にはしきりに唱えられました。もちろん、足を運ばずに気楽に様々なカンパニーの姿に触れることができるというメリットも、オンライン配信にはあったでしょう。けれどもそうしたポストコロナ演劇の気楽なアクセシビリティは、作品自体の空疎化と同時に進行した出来事でもあったのです。
 『あのコのDANCE』は過剰接続を通じた同種の空虚を「いま・ここ」空間の内に生じさせてしまいました。そこでは第四の壁によって舞台での出来事から切り離されて悠然と客席に座る「貴族」と、必死に汗をかく舞台上の「民」との権力勾配への問題意識があるのです。ディスプレイという「第五の壁」越しにコンテンツを享楽する体験の空疎さは、このような受動的消費者としての「貴族」の姿を根源的に浮き彫りにするその一様態に過ぎないのではないでしょうか? 「生の演劇」にあったとされるライブリネスは、集合性は、その実どの程度これまでの劇場で実現されていたのでしょうか。
 停滞の観念を打ち破り行動に向かうものとして、いまでは使い古された『ゴドー』や『書を捨てよ、町へ出よう』の文句が、その古めかしさにもかかわらず、いやむしろおそらくはその古めかしさのゆえに、幾度も参照されます。「行動」の未遂は、そうした古びたクリシェからこの現代を貫通する問題でもあるのです。
 事実、客席数を制限した今回の公演で、35名の仕事が経済的に報われるとは到底思えません。ひたむきな「おふざ芸」は、演技の側面こそあれ、やはりパフォーマーたちの主体的な選択によるものという点で切実さがあります。
 実際、「おふざ芸」は各人のアイデンティティと不即不離なものとしても提示されていました。俳優たちの私的なエピソード、生活現実もが届かない声で叫ばれるのです。
 それを退屈なものとして棄却することも、あるいは自己満足的に無理やり楽しんで消費して見せてしまうことも、わたしたち観客には許されていないのでした。

・町へ出よう

 やがて客席からのクールな「批評」を辞め、高山さん、江本さんも舞台の方へ踊りだしてきます。音楽やカラフルな照明も施されて艶やかに祝祭的な雰囲気が醸成されますが、やはりそこに忘我的なカタルシスは不在です。むしろそうした演出のゆえに場の空気感はいっそうからっと空虚です。次第に、明らかにナマの沈黙、ネタを思いつきかねての沈黙が幾度も場を支配し始めて、演技は露骨な即興性へと突入してゆきます。観ている側も演じている側も何をしているのかわからないような状態に向かってゆくのです。
 生配信では、後半部は諸事情で無音で配信されたのだと言います。「諸事情」といっても、実際はおそらくは聴覚情報を遮断することで、舞台と視聴者との間の隔たりを強調することの方に眼目があったかと思われます。けれども、そのことでスズナリでの生の舞台に相対的に肯定的な価値が与えられるわけでもありません。見るに値するコンテンツはやはりそこにはないのです。
 注目すべきは、各自で好きな音楽を流すことが視聴者には促されていたことです。無音での視聴を強制するという主催者側からの挑発に応え、創発的なDJ行為で以て、家庭内での「舞台」の生起に参画することがここでは志向されていたのでしょうが、それにしてもどれだけの視聴者が実際にそれを試みたか、あるいは試みたとしてどれだけの満足がそこに在ったのかには疑問が残ります。
 気が付けば舞台には鐘の音が繰り返し鳴り響いています。なにかの始まりを告げているようでもありますし、あるいはまったくその反対かもしれません。
 クライマックスには、音楽のピッチは高まっていき、出演陣は踊り狂いながら「どうぞ」を連呼し始めます。「どうぞ」。「どうぞ」。「どうぞ」。「どうぞ」。
 音楽が止むと、一同は一斉に客席の方へ手を差し伸べて言います。「どうぞ」。けれどわたしたち観客には立ち上がることはできません。客席に座る身体に染み付いた習慣がわたしたちを立たせません。あるいは、未来派やシュルレアリスム、それにまさに寺山のような数々のアヴァンギャルドにおける観客たちの「行動」の結果を既に知ってしまっているからでもあるかもしれません。
 たとえここで立ち上がる観客がいたとして、それが『あのコのDANCE』の成功を立証するものだとは必ずしも言えません。
 現代美術の領野でも関係性の芸術と言って、観客との関係性それ自体を主題化する動向が見られます。そうした潮流において、美術批評家のクレア・ビショップは作家と観客とが同質的空間を形成し安易な自己満足に帰着することを批判して、主体相互の安定性を突き崩すような「敵対性」という芸術理念を唱えました。すぐれて「敵対的」なこの『あのコのDANCE』において、わたしたち小さな「貴族」がなすべき行動は、けっして目の前の「民」の必死で空虚な「ふざけ芸」に同化することではなかったでしょう。
 わたしたちにはもう「行動」の経路は残されていないのでしょうか?
 長い沈黙が流れます。それはわたしたちへの遅すぎた死亡通告です。動き出すことはできません。
 そのあともこの会合は散漫で緩慢な持続を続けます。やがて劇場に戻ってきた小川さんが、近くにいた男性を舞台へと呼び込みます。検温と消毒を経てこの来客は歓待されますが、そのことを経て、なにか劇的な「出来事」や「変革」が生ずるのでもありません。
 「舞台」はこうしてさまざまな経路で劇場の「外部」へと拡張されてゆきました。それは「用の美」を唱え、日常生活における美の浸潤を唱えた「民藝」の態度と相似的ではありますが、そこには一定の諦念が浮かんでいます。いえ、むしろ舞台と日常との垣根が取り払われただけに、その諦念は一層重みを増しているのだともいえるでしょう。
 終演は、それとはっきりと示されることはありませんでした。「ご観劇ありがとうございました」というスライドは投影されるのですが、役者は舞台を去らずお喋りを続けているのです。そのぼんやりとした緩慢な持続は、行動を欠いて散漫で終わりのないわたしたちの日常のそれに似ていました。わたしたちには、どれだけ早くその「席」を蹴り捨てて「町に出る」ことができるのかが問われていたのです。その「行動」を誘発する敵対性こそが、退屈で自堕落ともいえる「ふざけ芸」を通じた「アンガージュマン」にすぐれて実践的な価値を付与するところのものだったはずです。

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