名前について考える。

*名前というものはたびたび、ふしぎだなぁと思う。ぼくは「名前」というものについて考えることが多いのだけれど、それはたぶん、ぼく自身が珍しい名前をしているから、というのはおおきい。「烈(れつ)」なんて名前、会ったことないしね。2文字で言いやすいし、珍しいもんだから憶えてもらいやすい。ぼく自身、名前で得してるなと思うこともあるし、恥ずかしがらずに言ってみると、じぶんの名前を、じぶんでけっこう気に入っている。

勝手に尊敬している友人の映像作家さんに子どもが生まれて、なんとその名前が共通の友人のミュージシャンの名前と一緒だったのには驚いた。もちろん、意識してつけたわけじゃないだろうけど、それにしても考えはよぎるだろうし、その人のことを、人として好きなんだなぁ、いいなぁと思ったのだ。さいきん名前について考えたきっかけはこのことだった。名前をつけるときって、意外にも自分の人生で出会ってきた人に多少なりとも影響されているもんだよね。

例えばね、じぶんに子どもができたとき、じぶんが人生で出会ってきた人のなかで「きらいな人」の名前をつけないと思うんです。ぼくのことがきらいだったり、気にくわないと思っている人は、きっと子どもに「れつ」なんて名前をつけることはないでしょう。名前を呼ぶたびに、同名の人を思い出してしまうものね。もう少しひくいところで言ってみると、前にお付き合いしていた人の名前とかも、意識的につけないんじゃないかなぁ。いえ、だからといってなんだという話にはなるんだけども。

犬や猫に名前をつけるのも、よくよく考えてみるとおもしろいもんだ。べつに名前をつけなくても、名前を呼ばなくても会話はできるのに、名前で呼びたくなる。この感情というか、アクションというか、当たり前のようなことっていったいどういうことだろう?あとね、ぼくは名前を呼ぶ・呼ばれる回数と親密度というのは、ある程度比例しているんじゃないかなぁとも思ったりもしていてね。「名前を呼ぶ」ってのは、なんとも不思議なことで、アニミズムに近いものを覚えたりもするのです。祈り、というものにも近いのかもねー。


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