やっぱり、行動しなきゃやさしくなれないんだよな。

*まったく違うことを書こうとしていたのだけど、今日はなんだか「やさしさ」について考えていたい気分だったので、そっちはほうっておいて「やさしさ」について考えていたいと思う。ちなみに、考えていた「そっち」は、「殺し文句」というテーマでした。

やさしい人って、なんだろう。どういう人だろう。やさしさってなんだろう。そんなことをぐるぐるえーえんと考え続けているのだけど、考えているうちに、ふと思ったのだ。やさしさについて考え続けている今この瞬間の鏡に映ったおれは、やさしいのだろうか?

答えはもちろん、やさしくもなんともないのである。なぜならば、やさしいことをしていないからだ。やさしいと判断できる要素がない、とも言えるね。だって喫茶店でタバコを吸いながら、うんうん考えているだけなんだから。

高校球児の頃、縦社会の中で気遣いをこれでもかというほど叩き込まれた。最初のうちは、何をどうするのかが気遣いかをおぼえていくので精一杯だったけど、そのうち自分の頭で考え出すようになる。例えば、先輩とご飯を食べているとき、先輩のコップの水が残り少ない。あ、なくなる前に水を注がなきゃと思う自分に、待ったをかける。ご飯はもう食べ終わっているし、特に水が要らない気分だったらば、ぼくが水を入れることで逆に気を使わせてしまうと思ったのだ。そうこう考えているうちに、別の後輩がグラスに水を注いでいた。

これはぼくの悪いクセで、やさしさについてうんうんと考え込んでしまう。電車で席をゆずるのが、ほんとうにやさしいのか。もしかすると立っていたいかもしれない。高齢者に見られて気分を悪くされる方もいるかもしれない。そんなことを、いろんな方向に考える。そうしているうちに、隣の人が席をゆずる。うんうん考えているだけのぼくは、なーんにもやさしくないのだ。うんうん考えていなくても、ただ席をゆずった隣の人は、ぼくよりもはるかにやさしいんだ。やさしさは、行動を伴ってはじめて形を持つ。

うまく言えないけれど、やさしさについて考えることは大事なことだと思ってる。でも、考えすぎるとね、やさしさが入り込む余地がなくなるというかさ、やさしさの入れるすきまが、消去法のようになくなっていくんだ。そうして、なにがやさしいのか分からなくなってなんにもできないよりは、例えまちがっていたとしても、行動する方がよっぽどいい。自分のなすことすべて「やさしくあろう」とするぼくの考えが、そもそもまちがっているんだ。やさしさは動いてはじめて形を持つのだから、もちろんまちがっているときだってある。でも、動かなきゃ答え合わせすらできやしない。

伊坂幸太郎さんの『チルドレン』に出てくる陣内というキャラクターは、まさにそうなんだよなぁ。とっても愚かなんだよ。愚かで、すぐ行動する。でもその行動が、もやがかっている霧を跳ね除けるくらいやさしいときがある。だからおれは、陣内がすきなんだよなぁ。たとえまちがっていも、行動しなきゃやさしさは実らないんだよなぁ。


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