肉が落ちて骨が見える

*現代短歌にハマって約2ヶ月、気付けば、詠んだ短歌が100首を超えていました。平均すると、1日に2首ほどつくっていることになるのかな。ま、つくるときはだいたい時間の空いた時にぽぽぽん!とつくるもんなので、まいにちまいにちやっとるわけじゃありゃしませんが。

100首ほどつくってみて、気付いたことがある。改めて最初の100首を見直すと、なんというかこう、「好み」が出てるんだよなぁ。「こういうものを、こんなふうに書きたい」という好みが出た短歌になっている。じぶんで、じぶんのつくった短歌を読み返して、このことをこんなふうに詠みたかったんだなというのが分かるもの。で、それが分かるってことはもちろん拙さのあらわれでもあってね。

で、100首を超えたあたりからどうなるかというと、好みがどんどん薄まってくるのよ。代わりに「こういうふうに書いちゃいました」とか「こんなふうにしか書けません!」みたいな、いわば「性癖」のような部分が出てくるのよねー。これがじぶんでじぶんを見て、面白い部分なのよ。肉が少しずつ削ぎ落とされて、骨が見えてきたというかね。

なにかを続けて練習するということは、技術を身に付けるイメージがあるけれど、そのじつ真逆のパターンもある。余分についた脂肪を削ぎ落としていくかのように、身に付けるどころか、身に付けているものをどんどんと脱いでいくのだ。脱いで脱いで裸になってようやく、シルエットが見えるみたいなね。もちろん人や時期によるだろうけど、ぼくにとっての短歌はそうだった。技術がついてきたというより、余分な見栄や好みが抜けてきて、クセが前に出てきた。スタイルが見えてきたと言ってもいい。

せっかくなので、ひとつ残しておきましょう。


「愛しい」を「かなしい」と読みたい夜は、僕をいつでも思い出していい


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