たっぷりと復讐すればいいじゃない

*ぼくの友人で、小さい頃から親しい人に受けたさまざまなものを、復讐してやろうと考えている友人がいる。ぼくは、たいていのことは遮らずに話を聴くので、そのときも「フンフン」なんて言いながら、なかば他人事に聴いていた。聞いたのちにぼくから出た言葉は、「周りはいろいろ言うかもしれないけれど、たっぷり気の済むまで復讐してヤンなさいな」だった。特に驚くこともなく、ただ思ったことを伝えただけだった。

その復讐にも、もちろん法的手段を使うことになるし、物的証拠や立件をしないといけないわけだから、どうやって相手を追い詰めるか、いろんなことを調べたりお願いしたりしなくてはいけない。ぼくならその時点でくじけてしまいそうだけれど、その友人は自分の勉強の合間にそれについての調べ物をしたり、具体的にどうするかを相談したりしているそうだった。もしかするとどこか、モチベーションになっている節もあるのかもしれない。

「復讐なんてヤメた方がいいよ」と世間は言うだろうけど、ぼくはたっぷりとすればいいと思った。友人のすばらしいところは、そんな過去を持ちながらもけっして加害者にはなっていないところでね、加害者になろうとしているのなら、ぼくは止めたかもしれないけれど、でも、やりかえすぶんにはとことんやっちまえ!と思ったのだ。わるいことかもしれないし、時間の無駄かもしれない。復讐の先に何が残るの?なんてりっぱなことを言う人もいるだろうけど、人は勝手に、立派さや潔癖さを求めるいきものなんだから、そんなもの知ったこっちゃねえ!と、ぼくは友人なんだから応援したくなったのだ。

実際に、その友人は勉強もしながらその手続きを進めたり、まちがいなく「つよく」なっていると、ぼくは感じた。そのときにさ、何かを始めたりやったりするときに「モテたい」みたいな不純な動機ではじめるのと、なんら変わりないと思ったのよね。どこか「りっぱさ」を求めているけれど、実際にモテたいで音楽を始める人のほうが多いじゃない。それに、ほんとうのような気がするじゃない。もちろん、そのうちに忘れていくものだけどさ。でも、そういう「ものごとのはじめかた」も、あたしはあっていいんだと思えたもんでさー。


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