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「笑う」言い訳

「笑うバロック展」は、主にバロック音楽について、どんな曲がどんな風に演奏されてきたか、を興味のままにメモしました。
思い返せば、この50年間で最も目まぐるしく「動いた」分野だと思います。様々な発見があり、演奏者が「選択する部分」が増えました。20世紀前半まで当たり前のように使用していた楽器が、実は素材や形態、使い方、音色がずい分と違うことがわかりました。同じように、普段使っていた楽譜の直前までの使用者の書き込み変更や、複数の人の手の変更集積を一旦クリアにしなければならない場合がでてきました。演奏の人数、編成の基準が実は違うかもしれないこともわかりました。様々な変更には、集まる聴衆の人数や録音再生技術の発達によって音楽が商品として扱われ、経済が影響を与えることが取り沙汰されるようになりました。それは、誰が何を使ってどのように「指揮」をするかまで。
LPからCDへの販売媒体の移行は、複製技術の発達に伴って少量多品種の商品を生み、そのパッケージ飾りは盤の小型化によって中身を表す外装を多彩にしました。
同時に、直前商品よりも僅かでも「相違点」のある商品の製作が求められました。
音楽史の流れの中で、それぞれの時代において淘汰された、失われた楽器、楽曲、作曲家、果ては演奏家、聴衆の感性の変化まで再現再構築の試みがされるようになりました。以前なら、それらすべてが、ある一部の識者の見聞した記録や記憶から辿られていました。高名な批評家が記憶の中で素晴らしいと賛辞しても実際には体験はできません。インターネットの技術的発達と普及によって、誰もが検索しつつ比較して楽しめるようになりました。どんな視点(聴点とでも)で、何を検索して見聴きするかによって、ある一部の識者を魅了してきたものが、実際に体験できる可能性が高まりました。それは高名な批評家が実は自分と趣味が同じだ、とか、全く違うとかいったことについて判断が簡単につくようになりました。例えば、検索してみたらペルゴレージをアバドは3種録音を残していることがわかりました。なぜなのか?疑問に思うだけでワクワクします。バッハの器楽曲を10年毎に再録音する、といったこととはかなり違いがあります。楽曲そのものに思い入れがあり、商品化の要請があり、それ以前との「相違点」が意味あるものである、技術的なものか芸術的なものか、聴衆に微妙な差異を感じさせ、言葉にして記憶させるだけの価値を、自分が能力を得たと納得したことになります。とはいえ、そうしたことは時に自己満足になることもあり、結果として「笑う」場合もでてきます。他者の愛すべき自己満足を、フーンまあわからなくもないね、と。これの反対側が、きっと「不滅の名盤」という形式の評価なのでしょう。バロック音楽においては、バッハには「不滅の」があります。しかし、経済的な価値が下がった世界では、もう「不滅の」を誇示する必要はありません。開かれたみんなのものになったのです。本当に「楽しめる」時代が来たように感じています。LPレコードや高価な再生装置が今も残っていて、それらを「タモリ倶楽部」で楽しむ----悪くないと思います。経済的に貧しくなり、孤独な人が増えるとは承知していますが。


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