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「どうして会津藩が京都守護職を務める必要があったのか」と疑問に思うことが大切だと思った話

昨日の話の続きになる。新選組は幕末の京都で活躍したわけだが、その元締めは京都守護職、会津藩の松平容保である。では、なぜ会津藩が京都に?という疑問が出てくる。

まず、そもそも会津が親藩だったことを理解しなければならない。会津藩の祖は保科正之、徳川秀忠のいわば隠し子だった人物だ。それでも3代将軍の家光から可愛がられ、会津の土地を与えられたということだ。その正之が、家訓として「将軍家への忠誠を失えば我が子孫にあらず」という主旨の言葉を残している。

話は幕末に戻るが、もともと容保は京都守護職を受けるつもりはなかったという。しかし、福井藩の松平春嶽から上記の家訓を持ち出されて京都守護職を受けざるを得なかったのが実情のようである。

この辺の話はネットを調べれば出てくるのだが、学校の歴史ではまず習うことは無い。日本史の授業でそんなことをいちいち扱っていると、カリキュラムが進まないからだ。でも、歴史の面白いところはこういう疑問に答えていくことだと思う。京都から遠い会津藩がどうして京都守護職をやらなければならなかったのか。その答えが上記のようなことだとわかると、歴史の流れもちょっと人情味が出てくるような気がする。「松平容保は京都守護職を6年間務めた」という文言だけでは決してわからないし、そうした引っ掛かりを抱えたまま進むと歴史が嫌いになっていくのだと思う。

この辺をすんなり受け入れられた人は歴史が得意になっていくのだと思うが、すんなり受け入れられないことが悪い、ではない。むしろ、引っ掛かる人のほうが(物事の論理を)しっかり考えていると思うのだ。だから、そういう人をフォローできるように、教える側は努めないといけないなと感じている。本当ならば、こういうところで引っ掛かる人が損をしないようなカリキュラムになっていることが、これからの社会では重要なんじゃないか…。そんなことさえ、思ってしまう。

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