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心的現象論本論 49了解の初期条件

「心的現象論本論」(吉本隆明)
 49 了解の初期条件(3)
 「<兄弟姉妹>の親和力は強大なものである時期をもっていた。①この特異性は性的な親和力の基礎を一対の男女の身体的および観念的な領域の外部に疎外させる性格があった。いいかえれば、性的な親和の問題を、宗教、習俗、制度の領域にもたらす志向力をもっていた。それとともに、②その性的な親和力を身体的および観念的な領域の内部に実現させようとする志向性をもっていた。これは、たぶん家族内における夫婦間の性的親和力と矛盾し、衝突するものであった。それはきわめて早い時期に禁止とするほかはなかったと考えられる。兄弟姉妹のあいだの性的な親和力は家族という概念が成立したときにすでに観念的なものに限定されて存在したとかんがえればよい。そのために観念的にはどれよりも強大で特異であった。この兄弟姉妹のあいだの性的な特異な強大さが、家族を親族へと展開させる契機であった。」
 近親相姦のタブーの契機は家族から親族へと血縁関係が拡張していく際に、もっとも分かりづらいテーマといえる。その問題は学者の数だけ理屈が付けられ、親族への展開の解釈が鍵になる。ここで吉本なりに、そのことを根拠づけるたろに性急に言語化しているのがよく分かる。つまり夫婦という一対の性の親和力が子どもを産みだし、家族を形成するはずだが、その家族共同体が形成される起源の時点にたたずんで言葉で紡ぎ出していると言い換えてもよい。というのも、一対の男女が自然な性的行為を交してから以降の親和力が継続して続き、同一の男女から複数の子どもが誕生し、その各人の意識構造に輪郭を与えないと家族、さらに親族への拡張の謎が解けないからだ。
 家族共同体として意識されるためには、まず同一の母親から生まれているという明確な事実理解が先行していたことは確かだ。ただ、ここで一対の男女夫婦がもつ親和という観念の領域をともなう関係性は、その生まれた子ども達同士の相互の観念的な共有と関係性とを、異質にすることでのみ親族への展開の契機としているからだ。
 ただし、近親相姦のタブーの発生と、一対の男女の身体的かつ精神的領域とは別になっていることは、ここで「外部に疎外させる性格」という表現で脱出口を見出そうとしている。それこそが、家族という集団を対自的にするだけではなく、先行した他の家族との関係を、別の一対の男女の関係として外部化し、同じ兄弟姉妹の複数の夫婦とその子ども達の集合を「いとこ」として排除する必要があったし、そのことで族内の交叉いとこ婚が許容されている。
 親族として家族核から拡張していくための根拠付けは、家族内でさらに特異な観念の共同性を親からも疎外しうるのは兄弟姉妹であった。この特異な対幻想は家族核を超脱し、宗教さらには宗教から習俗への転化、あるいは宗教から法という制度化への吉本理論の通路をつけることにあったといえる。また家族核が分離し拡散したとしても、親族として保存できるのは兄弟姉妹の特異で強大な親和力にあったといえる。すなわち家族核の親族展開は、この家族が実際の性行為はなくとも観念の血縁性が長期に、とかも地域的に離散しても持続する特異性にある。この拡散しても血縁共同観念の共有が持続しうることから、親族集団が膨脹できる根拠となる。家族核は性の観念的親和と共に心身の親和も伴うものであったからだ。
 しかし、兄弟姉妹が観念的に外部に疎外されただけでは、近親相姦のタブーの根拠が曖昧に残されたままだ。つまり論の展開を逆にすべきところだった。父と娘、母と息子、兄弟姉妹同士の家族核における性的親和力は、夫婦の性関係と共に性関係は矛盾するものではなかった。では矛盾する契機はなぜ起きたのか。そのことは、ここでは述べられてはいない。無矛盾から矛盾への意識の変化は、家族核の内部から自然発生的に生じるはずはない。人間の観念の自然過程は遠隔対象性を本質とするからだ。その論考が雑なところは、その「内部に実現させようとする志向性」をいきなり持ち出した点にある。これは持論のために手続きを踏まずに強引に理由付けをしたとしか考えられない。
 書物の解体学のバタイユ論で、吉本は自らこう指摘している。「<家族>内での<性交>の禁止の理由は、べつにもとめるしかない。」と。デュルケームは族外婚が近親相姦のタブーをも持続させても無矛盾だとしている。しかし、氏族から部族へと共同性が拡散するとき、血縁共同体が無際限に家族核を解体して拡張していけるなどとは、とうてい考えられない。そこで氏族共同体の内部で家族核が比例級数的に拡散していくことなく、この共同体の内部で家族核として縮小していける契機があったはずだとするのが正しい論理になる。つまり、家族核が血縁共同体を拡張していく過程で解体にさらされたとき、私の考えでは家族核を保守するために求心的に自閉していく意識が反作用したと考えざるを得ない。それは、集団が拡大し、生産も飛躍的に伸び始め、人口が増大していくこと、あるいは他の村落共同体と争いと併合が同時に進行している時期と対応している。
 すなわち氏族共同体の内部で、非親族集団へと拡大していく過程で、家族核の利害と氏族共同体の利害が対立したときが契機だと考えられる。つまりは家族核を形成することで氏族集合から離脱し、家族共同体を意識できて、そのために自閉すべき根拠が作用した。自閉して離脱し共同体内に独自の家族核を形成し、その位置を確保したときに、まさに家族を守るという意識が新しい家族核の観念の共同性を生み出さざるを得なくなったともいえる。このとき、近々相姦のタブーは習俗として保存されたといえる。

よろしくお願いします。