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〔スカーレット〕不自由は自由、あるいは自分で決めた道のあゆみ方

ああいう境遇の喜美子の人生を、かわいそうじゃなくかっこいいと思わせるなんて、普通の人ではできないと思います。
       ――スカーレットブログ特集記事より

 いよいよ、後半戦へ、といった感じになってきました。まだ半分、なんですね…すごい密度で人生を追っている気がします。先週、八郎との交流が丁寧に描かれての、結婚。そして、5年後…。ますます目が離せない…いや、ちょっと離したくなるような、つらい展開…?!

 でもなんといっても、意地と誇りの喜美子の人生です。しっかりと見つづけていきたいと思います。

 さて、冒頭の引用は、百合子役、福田麻由子さんのインタビューでの戸田恵梨香さん評です。「ああいう境遇の喜美子の人生」とは、一体どんな人生でしょうか。福田さんは、喜美子姉ちゃんの人生を、つぎのように表現しています。

喜美子姉ちゃんは一言で言うと「我慢の人」で、人に与えて与えて、というその姿が、全然かわいそうじゃなくて、ちっとも悲そう感がないんです。それは喜美子姉ちゃんの「どんな状況でも自分で選んだ道や」という強さがあるからだと思う〔後略〕
       ――スカーレットブログ特集記事より

こういったうえで、福田さんはそれを、「喜美子姉ちゃんのたぐいまれな強さと人間力」とまとめています。そして、そんな喜美子姉ちゃんを演じられるのは、戸田さんをおいてほかにない、と。

 まあ、百合ちゃんたら!あんた、なんてまたすごい事を言うのでしょう!福田さん、戸田さんに負けずおとらず、すごい役者さんだなと思います。直子役の桜庭さんが、楽屋では姉が2人いるような感覚、とおっしゃる気持ちがよくわかります。冷静にしずかにまわりをみてしっかりと判断している姿が、演じている百合子にオーバーラップしてきます。

 福田さんがいわれるように、ふりかえれば喜美子の人生は、我慢を強いられることの連続で、端的にいって「可哀そう」な存在といえます。そしてふりかえれば、その元凶は、ほぼすべてが父常治であることにあらためて気づかされます(常治、おいお前っ!)。
 父の借金のせいで小学生の喜美ちゃんは借金取りにお風呂を焚かされます。中学卒業、地元の丸熊陶業での就職が決まっていたのに、父のあいまいな口約束のために反故にされます。その後父が勝手に決めて来た契約のために15歳で大阪に出され、辛い思いもたくさんします。やっと周囲と関係ができ、18歳になり、自分の道をみつけたとおもったら、今度は家が大変だから戻ってこいと父が言い出し、自分の道を捨てて、地元に戻らされます。
 この第6週の、信楽へ引き戻されるというプロットは、喜美子が体験した理不尽(あるいは不幸)の極みのようなもので、多くの視聴者が愕然としたのではないでしょうか。

毒父に翻弄されるばかりの、不幸な人生…

客観的にみれば、このように言ってもおかしくない人生です。が、しかし、興味深いのは、喜美子は、決してただ翻弄され、強制されて人生を歩まされている、というわけでは、どうも「ない」ということです。「可哀そう」な存在では、必ずしもない。

 福田さんがいうように、理不尽な状況にもかかわらず、喜美子は「どんな状況でも自分が選んだ道」として自ら決断して歩んでいるのです。
 この喜美子の姿が明確になったは、ウソの電話で呼び出され、信楽に戻ってこい、お前は丸熊で働くんやと言い放たれた後、家の相変わらずの貧困、あえぐような不幸を知り、その後、半日かけて滋賀から大阪へ帰る汽車で考えたことです。(ドラマの場面としては存在しない)その時間のなかで、喜美子は美術学校をあきらめ信楽に戻ることを「自分で考えて決めた」、と荒木荘の人たちに告げます。その第6週のタイトルはまぎれもない、これでした。

「自分で決めた道」

 その後、喜美子は常に父と向き合い、言い合いながら、結果として、絵付けという道を見つけ、そして陶芸へとたどりつきます。そして今週へ。

 これからも、まだまだ苦難は続きそうですが、これまでの喜美子の受難的な人生が、その受難の深さにもかかわらず、あるいはそれゆえに、自らが意地と誇りで勝ち取ってきたもの、と感じられるのは不思議です。貧しく、儘(まま)ならない現実のなかでこそ、人生の炎がめらめらと燃え上がってくるようにみえることに、私はなんともいえない気持ちを覚えます。

 <父ちゃんのいうこときいてたらぜんぶうまくいった>、でも、<父ちゃんのいうことに従わなかったからうまくいった>、でもない。そんな単純なことじゃない。自由は不自由や。なぞめいたジョージ富士川の言葉ではないですが、不自由さから逃げず、真正面から立ち向かうことで、とてつもなく深く大きい自由を生きてしまう。不自由こそが自由、そんな不思議な真理が、喜美子の人生から感じられるような気がします。

 でも、「深い受難こそが、人生を深く大きく豊かにする」とか「受苦に満ちた道にこそ、本当の「主体性」「人間性」が宿る」なんてことをナイーブに言ってしまうと、「だから社会には不平等や不正があったほうがよい」なんて無責任なネットの書き込みのような、ひどい話しにつながってしまう。
 だから、正直私としては、この話しを、綺麗な人生訓にしたくありません。少なくとも社会論、政策論としては、断固として受け入れがたい。しかし同時に、喜美子の「強さと人間力」が、父常治に象徴される理不尽さの嵐のようなもののなかから生まれてくるということを、否定できない気持ちもあるのです。

 ドラマの制作陣もまた、決して「古い封建的な世界へのロマン」を表明しているわけではないように思います。そうではないけれども、女性の人生を、多くの女性たちがぶつかり、のりこえてきた困難を、後付けの物語で都合よくきれいに描くのではなく、真摯に泥くさく描こうとした結果、このような世界がみえてきているのではないかとも思います。戸田さんの記者会見での言葉が印象的です。

まだ男尊女卑がある時代に女性がどう社会と向き合っていったのか。あの時代に生きた女性たちがいるからこそ、いまの私たちがこうして働くことができる現実があります。

 ちなみにこの記者会見で戸田さんは、「制作総括の内田(ゆき)さん、脚本の水橋さん、演出の中島(由貴)さん、音楽の冬野(ユミ)さんと女性が多いチーム」になっていることにも言及しています(参照元記事)。

 ただ「困難に打ち勝つ」のではなく、受難をも「自分で決めた道」としてあゆむ強さ、美しさ、尊さ。そんな喜美子のかっこよさ。それを表現する戸田さんたち制作陣のあゆみもまた、喜美子と同じ…。どうしても、喜美子の人生から、ドラマ『スカーレット』から目が離せないのは、このあたりに秘密があるのかな、と思います。

* * *

 そんな喜美子の人生ですが、今週から、あらたな局面を迎えようとしています。喜美子を翻弄し、苦しめ、同時に、大きな成長と喜びを与えてきたあの存在が、はかなくも消え去ろうとしています。。。そして対照的に、そんな強い喜美子が、いつも不満を漏らし、甘えてしまうような男がいま、彼女の傍らにいるのです。

 陶芸家として苦悩する夫と、家計を陶芸で支える妻 。60年代にしてイクメンな八郎にも、どこか不満げな喜美子の様子。真面目で、優しくも、どこかわかっていない感じがする八郎。ふたりのこれからのすれ違いや対立の予感に、なんとも気持ちが暗くなりますが、八郎が引き出す「我が儘」な喜美子、「我慢の人」ではない喜美子の姿からは、いよいよ陶芸家として力強い一歩をふみだす予感がただよい、どこかわくわくもしてきます。

 これから喜美子は、どのような苦難を味わうのでしょうか。そしてそのなかで、喜美子はいかにして「自分で選んだ道」を生きていくのでしょうか。そして、命の炎を燃え上がらせ、熱情をたぎらせてくれるのでしょうか。正月目前にして、大きな試練を描く「スカーレット」制作スタッフたちの心意気に敬意を表しつつ、年内最後の物語の進行を、楽しみたいと思います。

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