思考のアウトプットがコンテンツとして価値がある理由

せっかくなのでサッカーとは全くかけ離れたマガジンを初めてみる。

実は前からブログとnoteをどう使い分けるか悩んでいたのだけど、昨年末に思い切ってnoteにサッカー系コンテンツを振ったら思いの外当たった。

これはこれで想定外の喜びと安心感があるのだけど、noteのユーザーの求めるものから“スポーツ”という分野は最も離れているものの1つだと考えている。

ここでは創作系の読み物や個人の特異な思考のアウトプットのようなものが好まれるのでは?ということはずっと思っていた。書店のカテゴライズでいうところの小説、マンガ、そしてビジネス書あたりだ。だからそれらのテーマを軸になにか書いてみようと思っていたのだけどそう考えて2年くらい経ってしまいだらしなさを感じたので、そろそろ書いてみようかなと決意した次第である。というのも、前述したサッカー系のマガジンを始めたらそれなりにフォロワーも増えてきたし、twitterも合わせればけっこうな人に読まれるかも?と思ったから。何より、アウトプットの質と数は高めていきたい。

そもそも赤の他人の考えている特異な考え方や思考、そしてある事象における意見の類がなぜコンテンツとして価値があるのかという点について考えてみたのだが、結果として行き着いたのは、“共感”と“発見”の2つに尽きる。例えばスポーツ中継を見ていて元選手の解説に苛立ったらその解説者の名前をtwitterで検索して同じように感じているアカウントを探す人はいると思う。他にも、本を読んでいてそれがとても面白い、つまらないと思ったときにamazonレビューを見て同じ意見を持っている人を探すと思う。そこでカタルシスを得るみたいなことは良くある。

人間というものは知らないことを知ったとき、自分が思いもよらない考えやアイディアを発見したときになにか気分良くなるように設計されていることは間違いない。自分自身心当たりはあるし、かつての人気テレビ番組であるトリビアの泉の冒頭でも触れられていた。

要はそれまで知られていなかったことや考え方は、他人をある種の快楽に陥らせる力があるということなのかな、と。そして、人はそれを常々求めている。その中で共感と発見の2つに対するアクセシビリティを上げたのがインターネットでありブログでありtwitterなどのSNSだと思っていて、マイノリティな言論や思考を際立たせてその価値を可視化させてくれた。

自分は決して大多数に寄り添う意見を持つタイプではないし、ユーザー、読者の“共感“を生むことは少ないかもしれない。だけど「あ、こういう考えがあるんだ」というような“発見“を与えることはできそうな気がするので、常日頃から思考を書き綴っていこうと思う。






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