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瑕疵とバグ

混乱するプロジェクト

私が参加させていただく建築のプロジェクトは大体が混乱している。もっといえば混乱しているから声がかかるともいえる。(その度にもう少し最初から声をかけていただければ。。。泣 と説明しているが今後どうなるかはわからない)

なぜこんなことになってしまうのか?と思うし、いざ状況を見ればなんでこうやらなかったのか?など誰でも指摘出来てしまうような混乱がそこにはある。しかし、言うは易しである。

当然当事者達も理解しているのだが、何故か混乱してしまう。
その原因として、あるところでは意匠が、構造が、設備が、施工が、現場が...etc.などなど細かいエラーを見ればきりがないが、あそこがちゃんとしていないから悪いんだという話になりがちである。

エラーとバグ

エラーとは、プロジェクトを進めていけば必ず起こりうるものだと思っている。例えば、筆者は高校まで野球をしていたのだが、試合が行われればエラーは常に傍らにあり、誰がエラーしようとも当然のものとしてプレーしていた。もちろんそれはチーム内で共有されおり、試合後にエラーについていちいち言及することなどなかった。仮にエラーにより点が入り、そのまま負けを期することになったとしても、それはあくまで表層的なものがほとんどであった。プレイヤーたちはそれを敏感に感じているので、1~9回のプレーの流れを思い返し、より根本的な原因を改善するということにフォーカスしていたことを思い出す。

プログラミング的な言い方をするならば、バグを取り除くということに近似している。エラーというのは基本的にわかりやすく表示され、バグというのは全体の結果がでた後にしかわからない。もっと言うならエラーが仮になかったとしても試合には負けるのだ。私たちはプロジェクトにおける、バグを修正しなくてはいけないと思うし、エラーだけを修正し続けるようなことをしていけば、10年後20年後も全く同じ問題で当事者たちが疲弊していくのは明らかだろう。

建築のプロジェクトでは協力会社を含めての、フィードバックは存在していないと思う。社内では行われているかもしれないが、基本的には各業務が終わればお疲れさまという感じであり、あとはこんなのを建てました(キリッ)というどや顔の広告が並ぶくらいだ。終わり良ければすべてよしであり、プロジェクトをより改善していこうとすることにあまり関心がないのかもしれない。

瑕疵

前回のデジタルドーピングでも書いたが、私は主に生産設計をすることが多い。そこでどんなことが起きているかというと、意匠、構造、設備、の整合性が取れていないというのが、その全てであり、それを再調整するということである。

これがどんな状況なのか。住宅的なレベルで言えば、階段から柱が飛び出ていたり、天井から梁が突き抜けていたりというようなことだ。
現状、国のシステムではこの状態を防ぐことはできないと私は感じている。設計者は建物を建てる前に確認申請と呼ばれる審査のための図面を公的機関(または公的機関が認定している会社)に提出しているわけだが、審査する側はこの図面を一枚一枚見ながら防火区画がとか、避難経路がとか法的な確認をしている。実際はそこに壁が存在することが出来なかったり、そこには柱が飛び出していたり、図面では見えない問題が隠れており、そもそもこれで問題ないですという前提が崩れているはずなのだが、それでも確認申請は通り(通すように図面を描く)入札されるのである。
要はこの時点で、意匠(外形)、構造(骨)、設備(臓器)がなんの整合性も持たずに進むのでる。
人間でいえば心臓が頭にあったり、骨盤が足首にあったりというような感じだ。

生産設計は何をするかというと、いったん全部不整合のままで構わないから全部を作り直して、意匠、構造、設備の重ね合わせを行う。
この修正する作業は、定例会により意匠、構造、設備に毎回質疑を行い徐々に修正を行っていく。プロジェクトが終わるころにはA4-800枚くらいの質疑書の束が作成されるのである。

このように説明すると、設計者が確認申請までにちゃんとしたもの作ればいいのでは?となるのだが、なかなかそれも難しいというのがある。
実際のデータのフローとしては、意匠がかたちを考え、それを踏まえて構造、さらにそれを踏まえて設備という流れになるのだが、設備が調整し終えた時には、意匠が変わっているということが起きるわけだ。
そして部署間の断絶もあると思うが、データの伝言ゲームが上手くいかず、
結果重ね合わせをせずに申請に行くのである。

責任と決定

ここで問題になるのはどちらかというと責任と決定の分離だと思っている。
設計者は審査を通すための図面の責任は負っているが、それらの分離した図面に対する整合性の責任を負わなくてよく、
あとは生産設計が全部おかしいところを質疑してそれに解答すればいいということになる。もちろんその決定に責任は負うのだが、A,B,Cのどれがいいですか?と聞かれてAがいいですみたいなことに、いったいどれほどの意味があるのだろうか。A,B,Cどれがいいですか?と聞くときAを選ぶように誘導されているに過ぎないのにだ。(ある設計事務所はむしろそれが当たり前であり、超高圧的らしい。。。辛たん)
しかし、入札した側のデータは生産設計側が作り、そのデータをもとに建築が作られることになる。本来であれば、実施設計図と呼ばれる建築を建てるための寸法や仕様が描かれた図があり、そこが一つの責任と決定の切断面であり、その後、その実施設計図を上からトレースするかたちで、緩やかに接続された生産設計図を作成することができる。その時にまた責任と決定が発生するはずなのだが、そうはならないのが現状である。

実際私はこれについて現状の社会的なシステムを整備するというのは不可能だと思っているし、整備したところで、おそらくあまり機能しないであろう。ではどうすべきなのかということについては今後少しづつ仕事を通して考えていきたいと思う。

#白矩

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