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【母親幻想/岸田秀】

ざっくりと本書の内容を紹介すると、母親とは社会に押し付けられた役割であり、幻想である。母性本能や母性愛も母親の役割を長い年月をかけ、女性に押し付けるために作られた幻想である。しかし現代(1998年をさす)では母親の虐待やコインロッカー・ベイビー事件などを通して、それらの幻想が崩壊した表れであると指摘している。初版が1998年だが現代(2023年)をそのまま批評していると思えるほどである。タイトルは母親がかなり全面に出ているが父親や父性本能についても語られる。この本を読んでいるとき【血の轍/押見修造】が思い浮かぶ。知らない人もいるので軽く紹介すると押見修造という漫画家は漫画を描いていなければ捕まっているような変態的な人物であるが、作品は人間に対しての洞察が優れたものが多い。【血の轍】では母親が役割を押し付けられ、その母親が解体されていく過程を母子の関係とともに描いている。母親でなかった自分を夢想し、しかし母親であるこもやめられずその抑圧から子供への抑圧へと繋がる。それらがどのような終焉を迎えるのか?現代の家族の不安定さを見事に表現した作品である。

本書を読んだ後での所感を以下に記す。
大人になってから両親は子供と引き換えに、失った人生があったのだろうなと感じる。まあそれでも両親が選択したことであるし、俺が出来ることは「自分の人生と引き換えにしても良かったかな」と思えるような人生を実現することくらいだとおもっている。
個人的には本書や押見修造が書いてるように女性に対して母親というかなり比重の思う役割を押し付けている現実を感じる。子供を産み育てることは身体的リスクを伴い、かつ自身のリソースを子に多分に譲渡するため、ほとんどの場合、子供を産まなかった場合の人生を取り返すことは困難である。(パートナーが協力的かつ健全であれば可能かもしれないが、運の要素もある)しかし身体的理由もあり、大体が30歳くらいまでには今後の人生を確実に左右する決断をしなくてはならないという状況がある。(高齢出産も可能になっているがその分リスクは高まる)正直30歳などまだ社会的な自我(社会的な役割)も獲得出来ず、自分のことですら手一杯であるような状況で、それらを決断する事自体難しいことだと思う。そこには社会的自我がないうち母親になるように誘導する社会的抑圧もあるだろう。それに比べ男性の場合は決断に置いては10年くらいの差があり社会的な状況や身体的リスクがないことからもかなり緩いと思われる。もちろん男性も失う人生は同様にあるだろう。(育児放棄していなければ)
個人的に自身の理でものを決められない、隠れマザコンなよなよ男が量産されていると感じることがあるのだが、それは身体的、社会的リスクを負うような決断を意識的にしない限り、そういう経験が出来ないからなのではないかと感じた。しまいには安全な場所から都合のいい理由をつけて応援という名の金を払っているが、ああいう類はロリコンを隠しているだけのように思う。なので日本男児は基本的にマザコン+ロリコンなよなよ系がもっとも多いのではないかと勝手に考えている。
話がそれたが、となると男にも同様な身体的、社会的リスクをおわせる等のイベントがある方が公平ではないかと思う。もしくは出産を伴わない種の保存方法を選択するかである。先進国において少子化が進むのは当たり前のように思う。先進国では個人が選べる未来が多分にあり、それらを実現するのは多くの時間が必要である。少子化政策において金の問題が挙げられるが、おそらく金を渡してもそれほどの効果はないのではないかと思う。一人の人間として一度きりである人生を面白おかしく有意義にしたいと考えるのは当然であり、それを女は子供を産むべきだという社会的圧迫によって要求されるのであれば、そんなの知ったこっちゃないと思うのが普通だと思う。(産みたい人には渡せばいいと思う)個人的にはどこかのタイミングで身体的、社会的リスクを無くす方向に進み、母親、父親などは存在しなくなり、(生物学的にだけ存在するかマイノリティになる)全ての子供は試験管で産まれ、その後子育て専門業者(学校、塾、寮などの延長)によって子供は育てられ、社会に出ていくと思われる。(どこの子育て専門業者に依頼するかは生物学上の親に権限があるかもしれないが)種の保存をどうするか?は結構ハードな議論が必要だと思われる。直近での少子化対策はもはや手遅れなので、今後を打開するのであれば、国を上げて子供育てますサービスを行い諸外国から大量の子供(世界には子供に関心のない親はたくさんいると想定)を受け入れ日本人にするという作戦があるきがしている。(勝手な妄想だが)



UnsplashTobias Schmückerが撮影した写真


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