【備忘録】2022年プライド月間 思うところ

結局プライド月間って何だったんだろうか、とよく思う。

SNSを開けば、プライド月間というものは確かに存在している。
でも現実を見ればどうだろう。

街の中、人の会話、意識…プライド月間なんて存在しないかのように、時間は、日々は過ぎていっている。
プライド月間だというのに、男女差別に近しいことは授業でも起きているし、政界を見れば維新の党員のセクハラ動画。
いったい誰の為の、何の為の、プライド月間なのか、少なくとも日本では意味を成す場がほとんどないということしか言えない。

そんな中の、大阪地裁での、同性婚訴訟の棄却だった。
ありえなかった。
生殖が結婚の目的と言い切ってしまった裁判所。
子育てしにくい環境しかつくらない日本国家が、子育て・子作りを推奨するというダブルスタンダードぶり。

子どもを持たない「夫婦」は、ではどうなると言うのか。事実、あの安倍夫妻は子どもがいない。国政が、ネトウヨが、あの杉田水脈も崇め奉ってる安倍晋三を、夫婦として認めてないことにもなってはいまいか。あまりに滑稽。

養子や里親制度で子どもを得た家族は。家族と認めないというのか。

認める、認めない、というのは、結局痛みに寄り添えない一部のマジョリティによって確立された構造でしかないのだと、改めて思うのだった。




私自身の話をしよう。

同性婚を巡って、自分も高校時代に友人と課題研究で取り扱った。
その当時は、杉田水脈の生産性発現へのアンチテーゼとして、同性婚を認めたところで出生率は下がらないし、出生率が下がる要因は同性婚とは別のところにある、という主張を様々なデータを集めて二人で発表した。

自分の性自認をXジェンダーないしはクエスチョニングだと認識する以前、つまりそれは、Xジェンダーやクエスチョニングという言葉を知らなかった以前、中学2年、私は学校のとある先生に恋をした経験から、自分のことをレズビアンだと思っていた。

今の日本じゃ、恋人にもなれない、結婚も出来ない、でもあの人に振り向いてほしい、そんな思いで苦しんでいたあの頃。自治体ごとのパートナーシップ制度を知って、それは同性婚の一歩に繋がるための一時的な手段なのだと知った。

結局恋は実らなかったし、その後好きになった別の女性は結婚してしまった。

その当時は、同性同士で付き合うことは世間的にも許されない、のだと本気で考えていた。

その後何年も経って、たくさん知識も希望も見つけるうちに、そもそもの結婚制度すら疑問に思えてきたのだった。



話を元に戻そう。
あの後、結婚制度そのものに疑問を持つのは、シスジェンダーヘテロセクシュアルの特権をもった人たちの特権的意見だ、という言葉を見た。

あまりに衝撃だった。だって、「私はマイノリティだから」。

「私も、自分をレズビアンだと思っていた、Xジェンダーのパンセクシュアルだから」

でもその後、過去の自分と向き合ってみた。

あの頃の私は、同性と付き合うことは出来なかったけど、
同性同士でカップルに、家族になることを、社会的に認めてほしいと思っていた。

でもその後、少しずつパートナーシップ制度が広がっていくうちに、いつのまにか、「同性カップルの存在は、付き合っているという事実だけは、社会的に認められている」と錯覚していた。

でも、あの頃の私の目線で物事をみてみると、そんなことはなかった。
「許され、祝福を受けるカップル」なんて、まだまだほんの一握り。異質な目で見られることに変わりはない。

後、これは今の私の目線で見てみたことで、結局パートナーシップ制度が広まったところで、あくまでパートナーシップ制度は結婚制度の下位互換。結婚で得られる権利、家族でいる権利、は認められない。


なんだかなあ。



話は変わるし、私自身もよく覚えていないのだが、確かフランスには結婚しているかどうかに拘わらず同棲?しているだけで多くの権利を得られ、国から手厚い保障を受けることが出来る。
そもそも子育てすら容易に出来ない今の日本にこんなこと期待したところで、今すぐ変わる訳じゃないし、自民維新の男尊女卑っぷりを見ていたら辟易するし、そんなやつらが支持を受けている日本が終わってるな、とすら思う。
けど、いつかのために、ほんの少しの希望だけは捨てずにいたい。


また纏まっていない私の備忘録。

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