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父が遺した「あい」とはなにか。

父は昨年の僕の誕生日の前日になくなった。その日の、その時の情景が目に焼き付いて離れない。あと何年したら風化してしまうのかはわからないが、父がベッドの上で物言わず、横になっていたことは鮮明に覚えている。

その日の朝は雨が降っていて、前日は休みだったと記憶している。僕が見た父の最後に目を開けていた姿は、母が絞ったみかんの汁をむせながら飲む姿だった。もうちゃんと喋れなくなってしまった父を、母は「なに?なに?」と聞こうとする。僕はそれを見て、涙が止まらなかった。そしてその時が迫っているのがもうすぐなのもわかっていた。

父が母に手を伸ばす。なにが目的なのかは今はもうわからない。ただ手を伸ばすことで愛を示そうとしていたのか。最後に残っていた理性で何かを伝えていたのか。僕はわからない。目の前がぼやけていたから。母は「わからないけど、なんていっているんだろうね。あなた。あなた」と声をかけていた。その姿を見ていられなかった。だからその日は髪を切りに行くと言って。その場を去った。「父さん、またね」そして父は手を上げたらしい。母が言うには。だけど、それもどうだったのかはわからない。

父が口にする「愛だよ」という言葉

生前、父はいつも「愛だよ」という言葉を口にしていた。ときおり愛なんてホルモンの分泌にすぎないから僕はもう枯れてしまった。なんてうそぶいたり、母のことを悪く言ったり喧嘩していたが、父のエンディングノートを書いている時も、ふたりでいる時も、いつも父が気にしていたのは『母だった』と僕は記憶している。

「俺がいなくなった後はお前や家族がお母さんを支えるんだぞ」いつでもそう言っていた。それが強く強く印象に残っている。父は「愛なんてないさ」「ホルモンの問題さ」「もう愛なんて」なんていいながらずっと母のことを心配していた。もちろん家族も心配していたのだろうけれど。彼が望んでいた景色はきっと自分がいなくなったあと、兄弟姉の3人で母を支えて、送り出してくれることだったんだろうなと思う。

癌が肝臓や頭に転移して、たった1ヶ月で全てが変化した。言葉、動き、寝たきり、介護が必要になった。これ以上の治療を望まないと本人が決めて、そして全てが終わるだけになった。最後まで家に居たかっただろうか。何を望んだんだろうか。僕は最後を何度も想像する。だけど何も見えてこない。

あなたの言う「愛だよ」はもう聞けない言葉のひとつになった。

時間というものの大切さ

意識すればそれが誰にも訪れることだと分かることなのは知っている。だけどそれを意識できる人がどれだけいるのだろうか。僕の人生はおおよそ3分の1が通り過ぎたと言ってもいい。父の人生で換算すればもう折り返しの地点にいる。それくらい人生は唐突に終わりを告げる。どれくらい残されているのか誰も見えない。だから誰も考えない。この1分1秒が自分にとっても誰にとってもどれだけ貴重か。

「時は金なり」なんて言葉をいうが、時は金とは比べ物にならないくらい価値がある。いくら詰んでも買えない。けれど比較対象は金くらいしかない。ボキャブラリーの貧困さ。貴重なものだから大切に使おうね。って意味なんだ。けどお金で時は例えることができない。なのに金銭としか比較できないことがなんとも切ない。脱線した。僕が言いたいことは時間というものの価値をもっと意識しなければならないということだ。

明日死ぬことがわかったとき、どうするか

ある100日で完成する漫画が一時的に流行を見せた。「100日後に死ぬワニ」正直僕はそのタイトルについて嫌悪しか感じなかったし。実際のところ不自然な流行の仕方に嫌厭していた。だから最終回を見たときも、ああ、見なくてよかったと心底思った。これに価値があると思う人は随分と暇な人間だと思うし、十分幸せな人生を送っていることだろう。それはそれでいい。その幸せを死ぬまで享受してください。それは心からそう思う。

明日死ぬ。100日でも何日でもいい。それがわかった時の心境ってなんだろう。僕たちは漠然と100年後くらいには居なくなっているだろうという想像しか考えられない。「あなた明日死ぬんです」って真顔で言われても首相から呼び出しをくらって言われても、何かのイベントか笑い話の手の込んだ番組だと思うことだろう。しかし病は違う。明確に「あと数ヶ月の命」と宣告される。父はその時うなだれていたと、母から聞いた。

その日のうちに家族に伝えられ。僕は涙が止まらなくなった。何がそうさせたのかわからない。自分の無力さ、毎日そばにいたのに、変化に気づく瞬間はいつでもあったはずなのに、それをいつも見逃していたこと。「ごめん。ごめんね」そう言って泣いた記憶がある。涙が止まらない。どうしてなのか。いつもイライラしたりしていた存在なのに、確定的な「死」の期限を知った時になって初めてもう時間がないのだということを知ってしまったからなのか。もうわからない。身内の誰かが死ぬってゲームやドラマの中の世界の出来事じゃないのだな。現実なんだ。僕もいずれ。

そして僕はうつになった

父が亡くなって、半年。仕事を休むことが増えるようになった。仕事中に涙をこぼすことが増えた。ふとフラッシュバックする。あの病室の光景。寝室の父のベッドに運んだ時のこと、介護でトイレに連れて行ったこと、ふと意識が明瞭になった父と大丈夫だよという話をしたこと。結局それは何が大丈夫だったのかわからない。「そうか、うん。そうか」父はその時そう答えた。

母を呼んだが母は来なかった。結局気丈に振る舞っていた母も心を痛めていた。当たり前だ。生涯を捧げると決めて結婚した人が、もう弱り切って死を待つのみになっている。でも僕は呼んだ。来て欲しかった。その日、母の泣いている姿を見た。そして家でこれ以上の看護ができないこと、僕が仕事に行っている間に、父の入院が決まり、早退した日に空っぽになったベッドを僕は眺めるだけだった。

この日から、少しずつ少しずつ、僕の心は沈んでいた。誰に相談することもできない。これを書いている今も、何を書いているのか、書いていいことなのかわからなくなる。父の死を記事にすることで、自分の中で何かの区切りがつくかもしれない。でもそういうことでもない気がする。けれど書き切ろう。僕は結果的に、半年の後に休職の手続きを取り、会社を辞することにした。

父はいま何を思っているだろうか。線香を焚いても、父は答えない。墓に行っても、そこにあるのは父の成分だったカルシウムと構成していた元素の塊があるだけだ。面白いことに姉と母の夢には出てきたらしい。僕は夢らしい夢を見ていない。覚えていないだけかもしれないが。

麦わら帽子と、庭に、父を見る

父は生前働き者だった。仕事については働き者というかいつも定時で帰ってくることの方が多かったが、家のことについて、特に植物が好きだった。父は多肉植物、サボテン、アロエ、盆栽から富貴蘭、キウイフルーツの木まで育てる人だった。他にも花を植えたり、庭に大きなさかなのモニュメントを石で作ったり。麦わら帽子をいつもかぶっていた。庭にいつもいた。

僕が2階でころがっていると声がかけられる。「おーい、運んでくれー」「おーい、手伝ってくれー」「おーい」「おーい」おいおい僕は便利やじゃないぞ。そう思っていたけれど、今となっては、何故それが大切な時間だと気づけなかったのだろう。どうしてそんな愛しい時間を疲れただの面倒だのと言い訳していたのだろう。

父はぶつくさ言いながらもいつも待っていた。文句の多い人だったが、何かを伝えようとしていた。不器用な人だった。あの人の出す問題はいつも3番が正解だったし、いつも何かを気にかけていた。几帳面で、あの人の育てる植物は綺麗な花を咲かせる。僕は植物は枯らしてばかりだったし、継続することができなかった。あの人はいつも「人から技を盗め」と言っていた。教えてもらうばかりが勉強じゃない。その意味にもっと早く気づきたかった。

父が動けなくなる直前に、僕は最後の庭仕事を父とした。庭に植えられた木を切る仕事だった。その木は根深いから、根から切ろうという話になった。僕がほとんどやったが、抜いた木を最後にふたりで切った。汗が吹き出る。なかなかきれない生きた木を僕らは暗くなるまで切っていた。ふたりで笑った。「できるか?」父の言葉が優しく聞こえた。それが最期の一緒の庭仕事だった。麦わら帽子は、その日から同じ場所に固定された。

父は母に愛を持っていただろうか

よく、母は父が死んだ後に「あの人は、別の人と結婚したかったのだ」という言葉を口にするようになった。僕はその事実がどうであれ、この世に生を受けたものとして、愛はあっただろうよと思う。父はどうだったのだろうか。あと100年以内にわかることを僕は父に聞くつもりはない。

先述したとおり、あの人はきっと母のことばかりだったと思う。やきもち焼きだったし、帰りがちょっと遅いとそわそわしたり。60代の大人がいつまでも少年のようにからかっているような姿を思い出す。そして、たくさんのものを残した。母が何にも困らないように。家も、お金も、もしかしたら時間も残したのかもしれない。迷惑をたくさんかけられたと母が言っていた。

「お父さんと別れようと思う」小学生の時に泣きながら、衣類を裁断していた母の記憶。夜遅くに趣味の釣りから帰った父と喧嘩する母。それ以外に何があったかは知らないし、知る由もないが。きっと何かがあったんだろう。

だけれど、愛はあっただろう。愛がないのに、どうしてそばにいたんだろう。それだけは母に間違えて欲しくないと思った。母は笑って「私が向こうにいったらあの人に問い詰める」と言っていたが、あなたと父は両思いで、間違いないと思うよ。きっと。それは向こう側で確認してください。

僕の後悔について

兄姉は僕のことをよく評価する。「大変な時に、お母さんとお父さんのそばにいてくれありがとう」その言葉を言われるたびに心が痛むのを感じる。僕はそばにいただけだと、ずっと思っていたから。父のためになんでもしてあげていたわけではない。僕も仕事をしていたし、いつでもなんでもできるわけじゃなかった。いつかくる死に対して、見ないフリをしていた。

父と面と向かって話すことを避けることが多かったように感じる。雨の日に墓を観に行こうと父に言われた時に、僕は不安になった。不安といえばいいのか、その時の感情はよく思い出せない。ただ、父が少しずつ始めている終活という行動が目に見えることがとても恐ろしかった。淡々と進められていく解約の活動。保険の計算。墓の設計図を父は業者と相談する。自分の入る墓、供養してくれる寺。何もかも。何もかもが自動。

父のエンディングノートを書くときにまた、涙が止まらなくなった。「家で看取ってくれるか、お前が全ての介護をできるか」そんなのわかるわけがない。そこは希望を書く欄なのだと言っても、「できるのか、できないのか」それを答えろと言われた。父は言って欲しかったのかもしれない。「最後までここで見るよ」それが言えれば安心してくれたのかもしれない。

僕は後悔だらけだ。

父が癌になってから、現実から目をそらしてばかりいた。ゲームをして、自分の時間を優先して、仕事から帰って父と話したりもしたけど、どうにも何かを伝えきれなかった。話しきれなかった。父との会話で今日はどうだったかと、聞かれる。普通だった。メールが来る。何かを返す。けれどもっと深い話をするべきだった。出掛けるべきだった。できることを残された時間でするべきだった。長男の仕事だと思って逃げた。僕は後悔している。その長男は後悔しているのかは知らない。結局、父が寝たきりになった頃に帰ってきて、少し話をして、また帰って行った。だけれど怒る権利は僕にはない。

僕も同じだ。

全てが終わった後に訪れる。悲しみ

葬儀が終わり、全てが終わった。父の相続のことは時間がある。いつの間にか姉が全てこなしていた。兄はいつも通り自分の住む場所に帰り、法事の時に帰ってくる。僕は仕事を、その時はまだしていた。全てが終わる。父の遺品が整理される。

遺品の中には几帳面な文字でか書かれたいろいろな内容が出てくる。エンディングノートには、呼ぶなと書いてあった親戚が足されていたし、落ち着いたら、ゆっくりと知らせるように、そうやって記されていた。思い出が、生きていた痕跡が、ずっと残っている。

父が大切にしていた「ファーブル昆虫記」僕がゲームセンターで手に入れた「キーホルダー」旅行の時の「お土産」若かった頃の「写真」全てが父が生きていた痕跡で、それを僕たちはひとつずつどうするか決めていく。僕がプレゼントしたひめくりカレンダーの裏側のメモ。捨てるか捨てないかで迷う。こんなこともあったね。この頃はお父さんすごい若かったね。このお土産あげたの誰?これは捨てないで。残していて。たくさんのやりとりをした。家族で何かを選ぶ。最後の選択。何かをゴミだと思う兄姉。僕にとってはそれは思い出で。僕は父のそばに長くいたのだなと。また、泣く。

父が入院していたときに持って行ったスケッチブックが出てくる。何を見て書いたのかはわからない。頭の中にあるものを書いたのかもしれない。繊細なタッチで絵が描かれたカマキリ、植物。アニメ調で描かれた猫の漫画。それらが終わった後に出てくる。悲しみと共に。時間が過ぎる。灰になった父が部屋にいる。結局僕は、父の最後の記憶が抜け落ちたままだった。

骨を誰かと箸で運んだ記憶はある。だけど、父の頭蓋や、最後に骨壺に詰めた時の記憶は曖昧で、ぼんやりと時間が過ぎていた。寒かった日のことだった。誰も僕の誕生日の前日になくなるなんて思わないだろ。

父は忘れて欲しくなかったんだろう。僕はそう思うことにした。

ずっと、死ぬまで忘れないだろうと思う。

父が亡くなって、いま思うこと

もう半年以上が過ぎた。あとふた月もすれば父の命日がくる。時間の流れが早すぎる。父が亡くなったのが11月18日なのに、もう10月2日だというのだ。これが早すぎる以外のなんだって言うんだろう。初盆も、彼岸も終わって、ついでに僕の仕事も終わった。うつ病になって人生も終わりかけている。ありがたいことに人生は続いている。

僕は僕自身が情けない。いまだに自立しているとは言い難いこと。そして結果的に自立に失敗してしまったこと。僕は強迫性障害を克服することはできなかったし、不安障害や、うつ病まで併発した。父の「大丈夫だ」という言葉もどう解釈すればいいかわからない。僕は孤独の中にいる。父が亡くなる数日前に、手の大きさを比べた。僕は父よりひとまわりも小さい手で、この人を超えていないことを実感した。

最後の最後まで、ありがとうという言葉も言えなかった。「ありがとう」と言ってしまったら、父が死ぬことが確定してしまうから。それを自分の中で、どうしても認めたくなかった。認められなかった。父が死ぬことが嫌だった。今更になって、僕の愛着基地が父親にあることがわかった。母に安心を感じない。兄や姉には安心しても、何かが違う。あの父の大きな手で。もう一度だけでいいから頭に触れて欲しかった。「よくできたな」と言われたことのない人生だった。「次も頑張れ」だった。

僕はよくできたと褒めて欲しかっただけだったんだと。

気づいて、ひとり涙した。

理解されたい、という感情

うつ病になって感情に波が出るようになった。涙がこぼれる日、元気な日、緊張で物事に手がつかない日、不安に駆られる日、怒りが燃え盛る日。それら全てが1日の間に全て表出する日もある。まるで荒れる海の中を泳いでいるような感覚。かと思えば次の日には15時間もの睡眠と何もない虚無の感情に支配される日々。虚無というのが果たして感情なのかどうかはさておき、僕は理解されたいと思うことが増えた。

ありがたいことに、理解ある恋人で、感情の起伏に対しては理解がある。理解がある。そう。理解はある。理解があるからって、それに対応する行動をしてくれるわけではない。理解は数学でいうところの1+1=2を知っているに過ぎず、どうして1と1が足されると2になるのかということを説明できることではない。ということだ。

だから僕が感情の起伏を起こすと理解する時と癇癪を起こす時がある。僕はそれに耐えられない時がある。理解されたい。心からの理解。どうしてだろうか。同じとは言わないまでも似たような病気にかかっているのに、どうして僕のことは理解されないのか。

これまで散々理解して支えてきた。わかってくれていると思っているのは僕だけだったのかもしれない。もしかしたら父も、同じように母に対して理解されたいという感情を抱いていたのかもしれない。父は友人が少なかった。文通していた友人がいて、その人とは癌の告知をされた時に電話で連絡をして、喧嘩をしてもう二度と連絡しないと言っていた。それはその人のもつ持病が治療ができるものだったのに、恐ろしいからそのままにする。という選択だったからだったと記憶している。父は不器用な人だった「生きていて欲しい」と素直に言えればそれでよかったのかもしれない。だけれどそれを言えなかった。理解はされたいが、理解する人ではなかったのかもしれない。

それでも、その人は悲しんでくれた。当たり前だ。何年もの友人がいなくなったのだから。僕はそういう人を作れるだろうか。このうつ病になって友人に連絡を取ったが、本当の友人というものはわからないままだ。

僕は僕を理解されたい。だから相手を理解する。

僕の行動は鏡だ。理解されたい。思考のひとつまで。

また、やり直しだろうか

例えば、僕がいまの恋人と別れたとして、また理解してくれる人と出会う可能性はどれくらいだろう。また同じことを繰り返すのだろうか。それならいっそひとりの方がマシなのかもしれない。

やり直し。

恐ろしい考えとともに、この思考が数ヶ月、鮮明になっていく。長い年月をかけて理解しあえていたと思っていた相手がもしも理解できない人なのだとしたら。計り知れない不安がよぎる。僕は理解してくれているものだとばかり思っていた。勘違いかもしれない。と思うことが少しだけ増えた。

言葉にしてみたら簡単なことで、言ってくれればいいといった。でも何をいえばいいんだろう。わかってくれるってどういうことだろう。1から10まで全てを説明して理解してもらう?

またやり直しだろうか。どうなんだろうか。

父は母と結婚を決めた時に何をもって選んだんだろうか。数多いる女性の中から母を選んで結婚という選択を取った父は、今はもう墓の中で眠っている。あるいは煙になっている。どこかにまた新しい命として芽吹いている。

もっと聞くべきことはあったのだろうなと、結局後悔する。

死んだ人とは二度と喋れない。当たり前だけど。

最後の拍動

父について、もうひとつだけ、話しておきたいことがあった。それは最期の日のことだ。あの日は雨が降っていた。ああ、そう。雨が降っていて朝仕事に行くときに、車か歩くかを悩んでいたんだったと思う。

僕の根性がねじ曲がっていたおかげで、歩いて行くなんて選択肢はきっとどっちにしても取らなかっただろうとは思っていたけれど、それでもその日、歩かなかったおかげで、父の最期に立ち会うことができた。病院からの連絡で、呼吸が弱くなっているということで、すぐに車に乗って、姉には母から連絡してもらった。地下の駐車場に急いで入り込んで、面会の紙なんて放っておいていいからって急いで病室へ入った。

「ああ、こういうのドラマで見たことがある」というのが第一の印象だった。心電図がピッピと拍動を計測していて、入ったときには60から下がり始めていた。看護師さんが説明してくれている間にも拍動はどんどんと下がっていく。「どうか声をかけてください」医師の声がして声をかけた、警告の音が鳴り響く『ピロンピロン』ああ、これもドラマで見たことがある。本当にこの音なんだ。なんでかわからないけど冷静にそんなことを考えていた。父の拍動の回数が50、40、と下がっていく。

母が泣きじゃくりながら「あなた、あっちゃん」と呼びかける。僕はただ心拍数が下がって、0になったら終わるんだなって。そうおもった。そこまでは冷静で。手に触れたら冷たくて。一気に死を近くに感じた。暖かかったあの大きな手を持った時にこころが物凄い悲しさで満ちた。もう直ぐこの人は死んでしまうんだと思った。

その時、一瞬だけ。拍動が90になる。なぜかはわからない。警告音が病む。母が声をかける。僕も「父さん、おとうさん」と声をかける。

医師も「えっ」と驚いて、いたけれど、それどころじゃない。呼びかけて、別に蘇るわけじゃない。90、80、60、40、30、10、0。拍動がなくなる瞬間を見た。きっとずっと待っていてくれたのだと思う。意志の疎通もなかったけれど、ただ拍動が一瞬戻っただけだけど。

これがあの人なりの最期の別れ方なんだなと思った。母はそんな父を抱きしめていた。僕はただ、泣いた。部屋に心停止の音がずっと響いていて、看護師さんが止めてくれる。「家族の時間をどうぞ」形式的に臨終の時間を読み上げて、看護師と医師が下がっていく。姉がやってきて、父のなきがらをみて涙を流していた。

ずっと生きているものだと思っていた。憎まれっ子世にはばかるの言葉通り生き残る方だと思っていた。そうであって欲しかった。母が泣いている。姉も僕も泣いている。

その最期の拍動をずっと忘れない。そして僕の誕生日の前日に亡くなったことも。僕が今年の誕生日を迎える前日に思い出すんだろう。そして18日は墓参りに行くだろう。それだけはきっと決まっているのだろうなと、その時思った。忘れたりしないのに。父は卯年だった。

ウサギは寂しいと死んでしまうらしい。

寂しかったのかな。

父が遺した「あい」。僕にとっての「あい」。

「あい」について語るなんてことは考えていなかった。本当は。このnoteのタイトルも、最後の表題も。最後の最後に決めた。でも父がいつも言っていた。「愛だよ」という言葉が頭から離れなかった。

寂しさの中に僕らは生きている。誰といても、人間は最後まで孤独だ。僕はいま強い孤独を感じている。誰かがそばにいても、誰にも心を開かない。開けたいけれど、僕の心を開いた時に誰が理解して受け止めてくれるんだろう。それくらい僕にとって「あい」というものはまだ遠いところにある。

父は最後まで「愛だよ」という言葉に対して真剣だったりふざけていたりした。いつもそんな人だった。だけど僕が介護していたあの日、あんなにはっきりしない意識や痛みの中でも、父はいつもの通り笑おうとしていた。

まだ完全に寝たきりになる直前に、完成した墓を一緒に観に行った。自分がこれから入る墓を見るって、どんな気分だったんだろうか。想像もつかない。そして最後、階段を一緒に手をつないで降りた。父の介助のつもりだったけど。しっかり握って、ふたりで笑った。父は最後まで笑っていた。それがきっと父が遺してくれた「あい」なのだと思う。

抗癌剤もやめて、麻薬パッチも強くして、朦朧とした中でも笑っていた父。墓の帰りに、階段を降りると、いつも涙がこぼれそうになる。笑っていた父の胸中はわからないけれど、きっと一緒に見てくれたことに対する嬉しさや、この時間の愛しさなんだろう。それがあの人にとっての「あい」。

僕にとっての「あい」はなんだろうか。まだ見えてことない。僕は本当の意味で他人を信頼したことがない。いつも心を開いているのか自分がわからなくなる。だから父だけが、本当の意味で僕が心を開いた人なのだなと思う。あの階段の1瞬でやっと気づくなんて、遅すぎるし、時間が足りなすぎた。しかも僕が気づいたのは父が死んだ後だ。

葬儀の日、深夜3時に父の棺桶をずっと見ていた。「ありがとう」をなきがらにかけても、返事はない。お墓に「ありがとう」を言っても何も帰っては来ない。生きてるうちにしか心は通わない。

僕にとっての「あい」とは、きっと理解して理解して。理解されて、通じ合ってようやく初めて「あい」になるものだと思う。もちろんまたこの理解も変わっていくかもしれない。それでも構わない。父が遺した「あい」はきっとさっき述べたようなあり方なのだろうなと、僕には感じられた。「あい」という不確かなものを確かなものにすることはきっとできない。

だけど、そのための理解を止めたくはない。僕にとっての「あい」のあり方をこれからも探っていくことになるだろう。

あなたの遺した「あい」をずっとずっと忘れない。


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