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スクリーン越しに(スクリーン・04)

「わける、へだてる、かくす(スクリーン・03)」で予告したように、今回は「ついたて・衝立」の出てくる小説を取りあげます。

 昨年十一月に亡くなった山田太一さんの小説『飛ぶ夢をしばらく見ない』です。今回の投稿は、タイトルを改め、若干の加筆をしての再掲載です。

「スクリーン」という連載で『飛ぶ夢をしばらく見ない』を取りあげるのは、そこに出てくる「衝立」(ついたて)が、「さえぎる、うつす、とおす」という三つの機能や役割をそなえている、広義の screen(スクリーン)にほかならないからです。

 一枚の衝立だけで「隔てられた」(分けられた)男女が、その衝立というスクリーンに「さえぎられ」ながらも、その仕切り越しに聞こえる音や声を「とおして」その面にさまざまなものを投影し(うつし)ているさまを、拙文から感じ取っていただければ嬉しいです。

 なお、この小説は前半と後半では、かなり違った展開をします。印象もがらりと異なります。前半が静なら後半は動、しかもめまぐるしい動なのです。

 以下の読書感想文は前半だけを扱ったものなので、ぜひ実際に本をお読みになり、後半もお楽しみください。

     ◆

 ここはどこなのでしょう?

 PCに向かって、noteの下書き画面に文字を並べているいま、私はnoteという空間にいると言えそうです。頭ではそう意識していますが、果たしてここがどこなのかは、いぜんとして不明です。

 自宅の居間でテーブルに着きPC画面に見入っているいま、私は「日本国、〇県、〇市、〇町、〇番地にある自宅の居間にいる」というわけです。

 そうなんでしょう。頭では分かっています。それでも、ここはどこなのかはいぜんとして分かりません。事実だといわれることを紋切り型の言葉で記述したところで、体感が納得してくれないのです。それは知識であり情報でしかありません。

 意識と体が遊離しているのでしょうか。そう言い切れない気もします。体あっての意識というか、個人の意識は個人の身体に深くかかわっているように思えます。

 目とか意識だけになって空を飛びながら地上を俯瞰したり、目の高さほどの視線でふわふわと道を進んでいく夢を見ることがあります。寝際の夢うつつでもそういうことをよく経験します。

     *

 空を飛ぶ夢を最近見ていないなあと思っているうちに、『飛ぶ夢をしばらく見ない』というタイトルの小説を思いだし、二階に上がって書棚の脇に積んである段ボール箱からその本を取り出しました。どこにどの本があるのかは何となく覚えています。体が覚えている感じなのです。

 かつて東京にいたころに、神田神保町や早稲田の古本屋街によく出かけましたが、店の名前や場所は覚えていないのに、ある本のあった場所が視覚的に記憶されているのに驚くことがあります。この記憶は、寝入り際なんかにふいによみがえるのです。偽の記憶か、ひょっとすると幻覚かもしれませんけど。

     *

 いま山田太一さんの新潮文庫版『飛ぶ夢をしばらく見ない』を手に取りました。

 あと二ヶ月と数十日で四十八歳になるという動きのとれない冬の日々――比喩ではなく、私は右足の大腿骨を骨折してベッドに固定されていた――私の内部の芯のようなところで現世的なものからの離脱があった。
(山田太一『飛ぶ夢をしばらく見ない』新潮文庫・以下同じ・ p.1)

 このように小説が始まります。「私」という男性の語り手の置かれた状況が簡潔に示されているので、すっと作品に入っていけそうですね。

 この語り手がいる入院している病院の近くで列車事故が起こり、負傷者たちがこの病院にも運ばれてきます。四十半ばの「婦長」が語り手に言います。

「一晩で、絶対なんとかするって事務長の方からはいって来てるんですけど、この階の向こうの端の個室へ移って貰えないですか?」
「いいですよ」
「ちがうの。個室たって向こうにもう入っている人がいるわけ。だから少し狭い二人部屋ってことになるんだけど、向こうの人はいいっていってくれたの。間に衝立を置くし、どうかしら、と思うんだけど」
(中略)
「だったら、衝立なんていいですよ。行きますよ」
「衝立は、実はあちらの方の希望なの。女性なの」
(p.14・丸括弧による省略は引用者による・以下同様)

 ご存じの方が多いと思いますが、山田太一さんは著名な脚本家です。この小説は会話が多く、ストーリーを展開する上での要を押えた巧みな会話でぐんぐん読者を引きこみます。この部分の会話は、小説を書いている者にはとても勉強になります。

 こうして語り手の男は「衝立(ついたて)越し」――スクリーン越しにということですが、スクリーンと考えると画面とかモニターやディスプレイを連想してネット空間での関係が頭に浮かびます――に、ある女性と声だけでつながるという一夜を過ごすことになるのです。

     *

 ところで、いまこうやってnoteで文章を書いている私と、noteで私の記事を読んでいるあなたはどこにいるのでしょう?

 下書きを書いている私の「いま」と、投稿された記事を読んでいるあなたの「いま」は当然のことながらずれています。リアルタイムに接しているわけではありません(ましてや対面しているわけではありません)。

 べつに不思議なことではありませんね。本や雑誌を読んだり、映画やテレビを見る時でも、同じことが起こっています。ライブでない限り、制作する側の時間と鑑賞する側の時間はずれているのが普通です。

 話を文章に限れば、書かれている内容の時間、書き手が書いている時間、読み手が読んでいる時間、読み手がその文章を想起する時間は、それぞれずれています。

「時間」を「場所」に置き換えても同じです。ずれています。ネットに接続されたディスプレイやモニターは、「へだてる」だけでなく「ずれる」スクリーンなのです。

     *

 とはいえ、普段はそうしたずれを意識することはありません。興ざめするからです。それが人情だからです。

 そんなずれ――時間のずれであると同時に場所のずれ――を意識し続ける人生なんて楽しいわけがありません。いまここで、ある出来事をあたかも「いまここ」で起きているように頭の中に浮かべるのが普通だからです。その方がずっと気持ちがいいと体と意識が知っているからかもしれません。

 でも、ずれているのです。屁理屈だと言われるのは覚悟で言っています。

 あなたの見つめている画面の文字が実は画素の集まりだとか、太陽が東から昇って西に沈むように見えるのは錯覚なのだとか、あなたの聞いているアーティストの声は実はデジタル化された信号をスピーカーが再生しているのだといった、聞けばがっかりするような戯言は屁理屈だと非難されるのが人の世界なのです。

 それでいいのです。非難する人のほうがおそらく「健全」なのです。

     *

「スクリーン越し」から「衝立越し」の話に戻します。

 すると、かすかに尿の匂いがした。
 俺も溲瓶でやるのだが、やはりテレビをつけなければならないのであるか? 夜中は、どうしたらいいのかであるか?
(pp.27-28)

 想像してみてください。お互いに容易に身動きできない体だといっても、「スチールパイプの枠にライトブルーの布を張った」衝立を隔てて、異性の二人が同じ病室で夜を過ごすのです。

 十時をすぎても遠く作業をする人々の音と声が聞こえた。
 女が何かをいった。いった気がした。
「は?」
 答えがない。
 すでに灯りは消していた。寝言かもしれない。
(中略)
 三十代だろうか? もしくは四十代そこそこ。声の印象はそのようなものだった。細く小さい声なので、小柄で痩せた人を想像してしまう。あてがはずれることも多いので、美人かどうかは保留しておく。
「ししゅうに――」と女がいった。
 刺繍に? 詩集に? 死臭に?
「ええ――」
「よろしいかしら?」
「どうぞ。今日は、すぐには眠れそうもありません」
(pp.28-29)

     *

 衝立で仕切られた部屋で、声だけを頼りに「誰か」が「誰か」と話す。その時の、二人は何でつながっているのでしょう。

「ししゅうに――」と女がいった。
 刺繍に? 詩集に? 死臭に?

 ここは少々滑稽ですが、おそらく数メートルしか離れていない二人のあいだにある、埋められない「隔たり」と「ずれ」を感じて、すごく悲しいです。「死臭に?」は、この作品後半における展開の伏線なのかもしれません。

 目でしか確認できない文字での違いですから、最終的に言葉を音声で聞くことになるドラマや映画の脚本としては表現しにくいはずです。文字で読む小説で細やかなニュアンスを出す山田太一さんの並々ならぬ筆力を感じます。

 山田太一さんは会話を声として「聞く」脚本だけでなく、会話を文字として「見る」(読む)小説の達人でもあるのです。

     *

 頼りが肉声であっても、電話越しの「音声」であっても、ネットを通した「画像と音声」であっても、液晶画面に浮かんだ「テキスト(文書)」であっても、二人の人間のあいだにある「隔たり」を埋めることはできないのはないでしょうか。

 身も蓋もない言い方になりますが、どんな二人も、別の思い(意識)と身体の中にいるのですから、「隔たり」は解消されないのです。

 たとえば、病室でスクリーンで隔たれたふたりも、目の前にあるPCのスクリーンで隔たれたふたりも。

【病室】
 私
――衝立(スクリーン)―― 声、音、匂い、気配
 女性

【ネット】
 私
――スクリーン(画面)―― 文章(言葉・文字)、写真、絵、動画、音声
 あなた

     *

「いま」と「ここ」は具体的で自明であるように見えて、抽象的で不明なものではないでしょうか。

 こう書きながらも「いま」と「ここ」については、私はさっぱり分かりません。

「いま」も「ここ」も宙吊りにされているかのように感じられてならないのです。

     *

 病室で衝立越しに聞こえる声や漂ってくる匂いや伝わってくる気配は、それを発する人そのものではありません。その声や匂いや気配は、その人ではなく――知覚の対象となるという意味で――、置き換えられたものに他なりません。

 スクリーン(画面)で読む文字(言葉)は、その人の思いそのものではありません。ましてやその人自身でもありません。

 そもそも文字も音声も、置き換えられたものに他なりません。ようするに知覚されたものなのです。

 何かをその何かではないもので置き換える。たとえば、「画素の集まり」を「文字という点と線の集まり」や「言葉という手で触れることができないもの」や「意味というこれまた抽象的なもの」、つまり「画素の集まり」ではないもので置き換える。

 置き換える前の「何か」と置き換えた後の「何か」は別物なのに、同じだとされている。同じものとしてまかり通っている。そうした錯覚の上に人とそのいとなみは成立している気がします。

     *

 声や匂いや気配で人を感じる。文字や音声で人を感じる。

「いま」と「ここ」は、「あのとき」と「向こう」。

 私はいまあなたのことを考えています。そう、記事を読んでくれている、あなたです。

 時間的にも空間的にも隔たれ、常時瞬時に刻々と「ずれ」が更新されつつある「いま」と「ここ」にいるネット上のあなたと私――。

 あなたにとっての私は何なのでしょう? 言葉なのでしょうか? 文字なのでしょうか? 影なのでしょうか?

 ここはどこなのでしょう?

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