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一本の電話

初めましての方へ。                                  プロサッカー選手の山口廉史 (RENSHI) と申します。2015年にシンガポールに渡り、その後ラオス、タイでプレーをしてきました。     ここでは、2014年12月にプロテストを受けにシンガポールに渡ってからの日々を綴っています。         

シンガポール挑戦記。前回のnoteはこちら。


シンガポール挑戦記 - 一本の電話 -

帰国後。僕は休んでいた分の大学の授業を補うために必死になっていた。卒業の見込みはあったものの、教員免許取得のための単位を補うため、ありとあらゆる手を考え行動することにいっぱいいっぱいの日々を過ごしていた。

進路については、大学サッカー部の監督がサポートしてくれたことで、地域リーグ(J1、J2、J3、JFL、地域リーグ)のクラブから声をかけてもらっていた。
怪我のこともあり、どうなるかわからないけれど、まずは1日でも早くピッチに戻れるようにリハビリをすることを決めた。

病院でリハビリをして、学校で授業を受け、学校のジムでウエイトトレーニングをして帰る。そんな日々が続いていた。

年が明けて2015年1月中旬。
いつものようにリハビリから家に帰る途中。僕の携帯に一本の電話がかかってきた。
シンガポールでコーディネートをしてくれた方からだ。
瞬時に色んなことを考えたが、ひと呼吸置き、電話に出た。すると開口一番その人は言った。

れんし、シンガポールに来る気はあるか

僕は黙り込んだ。
事情を聞き、チームがまだ決まらない1枠の外国人選手を探していることを知った。
僕は行く気があることを伝え、怪我の状態や現在のリハビリのこと、日本でのトレーニング環境のことも伝えた。
そして後日日本でその方に会う約束をし、電話を切った。

1月も終わろうとしていた頃。
僕は日本でコーディネーターの方に会った。チームの現状を聞き、僕の意思を伝え、怪我の状況を伝えた。
正式なオファーではないものの、具体的な金額や、契約の条件、待遇などを伝えられ、より話が現実味を帯びてきた。

2月に入ると、チームから正式なオファーが届いた。
まずはメディカルチェックをパスすることが条件ではあったが、僕はシンガポールに再び挑戦したいと思っていた。

直ぐに僕は、進路のサポートをしてくれた方々や声をかけていただいたクラブの監督にシンガポールから話があったことの全てを話し、そこに挑戦したいことを伝えた。
特に怪我をしても声をかけてくれていたチームは、既に住む家まで用意してくれていて、色んな環境を整えてくれていた。それでも監督は、怒ることも一切なく、挑戦するべきだと背中を押してくれた。もし全部がダメになったら、また連絡してこいとまで言ってくれていた。

これで僕の心は決まった。
メディカルチェックをパスして、プロ契約をする。そして、シンガポールで活躍するんだと。

段々とプロサッカー選手になって活躍するという夢が現実を帯びてきた。

つづく…

でわまた。

It’s up to you

Renshi

サポートは、サッカーを通じての挑戦に使わせていただきたいと思っています。