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岸惠子論:国際政治の世界から

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映画女優岸惠子は、1932年、神奈川県庁職員の一人娘として横浜に生まれました。若くしてスターとなり、イヴ・シャンプ監督と結婚してパリで暮らし始めます。この評論は、パリを中心に、1… もっと読む
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記事一覧

岸惠子(最終回)横浜 ミモザの繁る家

横浜の私鉄沿線。坂道を一人の老人がのぼっていく。一二歳年上の恋人に出逢ったときに五八歳だ…

神谷光信
5年前
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岸惠子(15)メロドラマへの回帰 『わりなき恋』

少女時代の岸惠子の夢は、バレリーナになること、俳優になること、小説家になることだった。女…

神谷光信
5年前
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岸惠子(14)キャメラがあるからこその茶番劇

岸惠子の最も鋭い批判者は、一人娘のデルフィーヌ・麻衣子・シャンピである。両親が離婚したと…

神谷光信
5年前
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岸惠子(13)国連親善大使と母の死

一九九六年、岸は国連人口基金親善大使に就任した。そしてヴェトナムに行き、二年後はセネガル…

神谷光信
5年前
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岸惠子(12)正統派ユダヤ教徒たち イスラエル

三年後、テレビ朝日で岸はふたたびイスラエルの取材をしている。なぜパレスチナ問題やクルド人…

神谷光信
5年前
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岸惠子(11)投げつけられた石の痛み パレスチナ

一九八七年に、NHKが衛星放送で毎週土曜に「ワールドニュース」の放送を始めた。そして番組…

神谷光信
5年前
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岸惠子(10)美なんてどこにある! スーダン

『砂の界へ』の後半はスーダン紀行である。テレビ番組取材に関する内容だが、最も強い印象を与えるのは、ある土の家を見つけて、土塀から中の敷地に、さらに内庭に入っていく場面である。 突然、家のなかから一人の男が飛び出してきて、激しい怒りの表情で、岸とカメラマンを睨み付け、「ここはおれの家だ。あんたらどうしてここにいる。何をしている」と怒鳴ったのだ。「そのあなたの家が美しいので、つい無断で入り込みました。私たちは日本人です。不作法はお詫びします。あまり美しいので……」と岸は言った。

岸惠子(9)殉教者墓地にて イラン

岸惠子がイランに赴いたのは、一九八四年四月のことである。同年二月に、フランスに亡命してい…

神谷光信
5年前
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岸惠子(8)スカタン大将 小田実

岸惠子がその存在を強く意識した日本人に小田実がいる。岸と同年生まれで、やはり一九四五年の…

神谷光信
5年前
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岸惠子(7)イヴ・シャンピの死

イヴ・シャンピが心不全で急逝したのは、一九八二年のことである。一九七五年に離婚してからも…

神谷光信
5年前
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岸惠子(6)1968、パリとプラハ

現在から半世紀前の一九六八年五月は、パリ五月事件とチェコ事件という二つの歴史的記憶と結び…

神谷光信
5年前
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岸惠子(5)ユダヤ人ってなに?

パリでわたしはインドシナ人だったと、加藤周一は書いている。インドシナ戦争が終結したのは一…

神谷光信
5年前
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岸惠子(4)ある友情 秦早穂子

岸惠子が秦早穂子と出会ったのは、結婚してほどない夫シャンピの紹介だった。フランス系の映画…

神谷光信
5年前
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岸惠子(3)パリ、1950年代

若くしてメロドラマの主役としての世間名を持ってしまったことの怖ろしさ、スターという「怪物稼業」の怖ろしさを、岸惠子は大人気の最中に身に沁みて感じていた。移動はアームストロング・シドレー・サファイアという黒塗りの英国製高級車である。自分の顔と名前を、日本中の人々が知っている。それもメロドラマ女優として。あるいは「アプレ・ガール」として。押し潰されてしまいそうな圧力を彼女は感じていた。 川端康成原作の映画『雪国』の駒子を演じたあと、一九五七年四月、彼女は日本に両親を残し、ひとり