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敗者側から読むと歴史はなぜ面白いのか? 

歴史No.1雑誌『歴史人』7月号から抜粋された記事を、無料で全文を大公開!
今回は、歴史の”読み方”についてです。
今日に伝わる歴史は、勝者の記録であることが多い。
敗者による史料は、ほぼ断片的にしか残っておらず、事件や合戦の実像を知る上で、実は偏った側面を持ちます。
歴史を正当に読み解く上で不可欠な「敗者」の視点と、その魅力について、
戦国史研究の第一人者が、ひもといていきます!

監修・文/小和田哲男

おわだ てつお/1944年、静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。戦国史研究の第一人者としてNHK大河ドラマ『どうする家康』『麒麟がくる』『軍師官兵衛』などの時代考証を担当。著書に『地図でめぐる日本の城』(帝国書院)、『徳川15代の通信簿』(大和書房)など。


勝者によって作られた「歴史」

勝者=善として扱う
勧善懲悪史観への疑問

 歴史は、どうしても勝者が書く勝者の歴史になりがちである。それはなぜかというと、政権を取った側、すなわち勝者が、自分たちの正当性を強調し、それを歴史として書き残すからである。そして、それが「正史 」とされ、語り伝えられ、学校教育の現場でも教えられることになり、知らず知らずの内に勝者の立場で歴史をみる癖がついてしまっている。
 
 中学・高校の日本史の教科書は政治史が中心で、必然的に勝者の歴史が描かれ、それが日本史の流れとして理解されることになる。
 
 そしてもう一つ、歴史が勝者によって作られる理由がある。それが勧善懲悪史観である。「正義は勝つ」というわけで、勝った側が善、敗者は悪とされる。それは、単に勝ち負けではなく、成功と失敗についてもいえる。改革に成功した者はたたえられ、それに失敗した平将門は、平将門の乱を起こした反逆者とされたのに対し、実現に成功し、鎌倉幕府を開いた源頼朝は立派な為政者としてもてはやされている。ここにも、歴史が勝者によって作られる要因があるとみてよい。

 勧善懲悪史観、すなわち、勝者が善で、敗者が悪という歴史観の極致が「征伐」という言葉に代表されるとみてよいのではないかと考えている。

 たとえば、豊臣秀吉の天下一統の流れを追うとき、無意識のうちに、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、さらに朝鮮征伐といういい方がされてきた。

 勧善懲悪史観だと、敗者は悪とされる。このような悪人だったために、正義、すなわち勝者によって滅ぼされたという論理の組み立てでこれまでは扱われてきたが、近年は果たしてこれでいいのかという声があがってきたのである。

 ここに例として挙げた四国征伐の場合の長宗我部元親にしても、九州征伐の場合の島津義久にしても、小田原征伐の場合の北条氏政・氏直父子にしても、さらに朝鮮征伐の場合の朝鮮にしても、彼らが何か悪いことをしたわけではない。秀吉の天下一統、海外侵略に抵抗しただけである。このような背景があるために、最近では、研究者の間では「征伐」という言葉をできるだけ使わないようになってきている。

 ところで、歴史が勝者によって作られる理由がもう一つある。本来あったはずの敗者の側の史料が、勝者によって隠蔽されたり、抹殺されたりしたからである。時には改竄や脚色も行われている。

 たとえば、関ヶ原の戦いの勝者徳川家康と、敗者石田三成を比較してみよう。現在、戦いの直前に出した家康の文書は夥しい数が残っているのに対し、三成の出した文書は数点しかない。三成もかなりの数の手紙を出したはずであるが、残っていないのは、関ヶ原の戦いの後、受け取った側が家康の手紙は残し、三成の手紙は保身のために処分してしまったのではないかと考えられるのである。


時代によって変わる歴史や偉人の「評価」

明治維新後に変化した
家康・秀吉の評価

 歴史や偉人の「評価」は時代によって変わる。それは、「評価」するのが人間だからである。その人が置かれている時代状況によって、歴史や偉人の「評価」は違ってくる。ここでは、まず、その最もわかりやすい例として徳川家康を取り上げたい。

 周知の通り、徳川家康は江戸幕府の創始者として崇め奉られてきた。亡くなって東照大権現という神号まで贈られ、「神君家康公」とよばれていた。もちろん、江戸時代、家康の伝記が多数書かれることになるが、いずれも家康の偉業をたたえるものばかりだった。

 それが一変するのは明治維新である。幕府を倒した薩摩藩・長州藩の人間が政治の実権を握るや否や、それまでタブーだった家康批難の論調が表に出てくる。いわゆる薩長史観による家康像が神君中心史観に取って代わり、「狸おやじ」とまでいわれるようになる。

 それだけではない。明治以後、大日本帝国が朝鮮・中国へ大規模な大陸進出政策を押し進めていく過程で、いわばその輝かしい先駆者としての豊臣秀吉がクローズアップされ、秀吉をもち上げる半面、家康をけなす論調に代わっていった点もみておかなければならない。

 この点は、戦前と戦後で違っている。戦前、歴史の研究の主な担い手は軍人と政治家だった。軍事史研究が中心で、どうしても対外侵略を是とする歴史観が大手を振っていた。ようやく戦後になって正常な歴史研究ができるようになったのである。

 そうした歴史研究の流れを踏まえ、戦後、山岡荘八・司馬遼太郎などの歴史小説の登場となり、それが日本人の歴史認識へ大きな影響を与えることになる。特に、戦国と幕末の偉人たちの認識が大きく変わることになった点は軽視できないように思われる。

石田三成を奸臣として描いた『武徳編年集成』
徳川家康の伝記『武徳編年集成』では、石田三成を奸臣として描いているが、汚名の多くは江戸時代の創作でもある。他の軍記物でも同様の記述が散見される。
国立国会図書館蔵

 そして、もう一つ、「評価」が変わるという点でみておきたいのが、敗者の復権である。勝者がいれば敗者がいるのは当然で、これまでは勝者の歴史が語られるだけで、敗者の歴史は取り上げられることがほとんどなかった。無視され、飛ばされてきたといってよい。勝者が人気者になり、敗者はその引き立て役で終わるのが常だった。

 ところが、最近、その敗者に光が当てられ、一部で復権の徴候もみられる。その一人、今川義元をここで取り上げたい。

 今川義元といえば、永禄3年(1560)5月19日のあの桶狭間の戦いで、2万5000の大軍で出陣しながら、たった2000の織田信長に敗れ、「公家かぶれの凡将」などといわれ散々だった。この日、義元が馬ではなく、輿に乗って出陣していたことをとらえ、「馬にも乗れなかった」と、戦国武将として落第とのレッテルが貼られている。

 これは義元が馬に乗れなかったわけでなく、足利将軍家から特別に「輿に乗ってよい」という許可を与えられていたからで、武田信玄・上杉謙信による第2次川中島の戦いでは、義元が間に入って戦いを止めさせていたのである。このように信玄・謙信と肩を並べる武将だったということで、復権が図られている。

積極的な経済政策で
再評価される田沼意次

 もう一人、義元のような敗者というわけではないが、マイナーイメージの強かった人物の再評価が図られている例として田沼意次を取り上げたい。

 田沼意次というと、賄賂政治家というレッテルが貼られている。従来、意次が賄賂をむさぼっていたことを示す史料としてよく引き合いに出されるのは、九州の平戸藩主松浦静山が著した『甲子夜話』で、そこに、意次が賄賂で得た金で驕奢な生活をしていたことが書かれていたからである。同時代人の証言記録として、誰も疑いを差し挟まなかったのである。

 ところが、この松浦静山は、意次を追い落とした松平定信派の人々と姻戚関係もあり、結びつきがかなり強い人物だった。意次の政敵といってもよい。最近では、意次は株仲間の公認や蝦夷地開発計画などの積極的な経済政策が評価されつつある。


敗者の「功績」と勝敗の「偶然性」に学ぶ

桶狭間で敗れた
今川義元が遺した功績

 すでにみてきたように、歴史は勝者が作ったもので、敗者には存在価値がないというのが一般的な通念となっている。ところが、実際は、敗者の「功績」が歴史を作ってきたという側面もあった。ここでは、桶狭間の負け組、敗者の代表といってよいあの今川義元が大きな「功績」を残したことを掘り下げたい。

 徳川家康がまだ松平竹千代という名だった8歳のとき、今川義元の人質となり、19歳まで人質生活を送ったことはよく知られている。ところが、人質は人質でも優遇された人質だった。 実際に優遇されていたことを示す点が3つあり、1つは、結婚相手が義元の重臣として仕えていた、関口氏純の娘だったことである。彼女は、系図の上では義元の妹の子、すなわち姪にあたる。人質でそのようなことはありえない。2つ目は、元服のとき、義元から「元」の字を与えられ、はじめ元信、ついで元康と名乗ったことである。これは偏諱を賜た まわるといって、将来の重臣待遇を約束されたようなものである。

 そして3つ目が重要で、義元の軍師雪斎から教育を受けたことである。四書・五経から武経七書まで教わり、上に立つ者としての資質をたたきこまれている。「後の天下人家康を育てたのは雪斎であり、その環境を作ったのは義元だった」といっても過言ではない。敗者義元の「功績」としてカウントされるように思われる。

 次に取り上げる敗者は戦国大名北条氏である。北条氏は初代伊勢宗瑞(通称北条早雲)以来、2代氏綱・3代氏康・4代氏政・5代氏直と、5代にわたって関東を支配し、「関八州国家」などといわれ、関東を支配してきた。

 ところが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの結果、敗れ、北条氏は滅亡してしまった。まさに敗者である。その敗者北条氏が、意外なことに、その後の城づくり・町づくりに大きく関わっていた。それが惣構である。字は総構とも書く。城だけでなく、城下町までを石垣や土塁、堀で囲んだ大外郭のことである。秀吉は、小田原攻めのとき、小田原城の惣構に阻まれ、20万とも21万ともいわれる大軍で攻めながら、北条氏を降伏させるのに3ヵ月もかかってしまった。そこで、秀吉は惣構の有効性を学びとり、その後、自分の居城大坂城に惣構を築いているのである。

 これにはさらに後日譚がつく。あの慶長19年(1614)の家康による大坂城攻め、すなわち大坂冬の陣のとき、家康はこの大坂城惣構に手こずったことが知られている。敗者である北条氏の城づくりが、江戸時代の城づくりにも影響を与えていたことになる。

敗者からの学びを
得ていた信長と家康

 普通に考えれば、「敗者から学ぶものなどない」ということになるが、勝者も敗者から学び、それを政策に生かしているケースが少なくない。

 たとえば、楽市楽座といえば織田信長の新しい経済政策として知られているが、その楽市楽座を信長より先に手がけていたのが、実は、信長によって滅ぼされた六角氏であった。すでに近江の観音寺城下で楽市を施行していたのである。

 関ヶ原の戦いで負けた石田三成が、豊臣政権下で推進した太閤検地や、大名同士の戦いをやめさせる惣無事政策が勝者徳川家康の徳川幕藩体制にも引き継がれていることもみないわけにはいかない。

 そして最後に、勝敗の「偶然性」について触れておきたい。歴史の結果を知っているので、どうしても、勝者が勝つべくして勝ち、敗者は敗れるべくして敗れたと受けとめてしまいがちなために、意外に思われるかもしれない。敗者の中には天候状況などにより、紙一重で敗れたというケースもあったのである。

 たとえば、弘治元年(1555)の厳島の戦いは、わずか4000の毛利元就が2万の大軍を擁する陶晴賢(すえはるかた)を破った戦いとして知られているが、これは毛利軍が暴風雨に乗じて密かに厳島に上陸できたから得られた勝利だった。陶晴賢は紙一重のところで敗れたわけである。

歴史人『7月号』

保存版特集【敗者の日本史】
歴史は「敗者」から読み解くと面白い!
・廃仏と物部氏
・大化の改新と蘇我氏
・源平合戦と平氏
・鎌倉幕府滅亡と北条氏
・英雄から転落した新田氏
・本能寺の変の誤算と明智光秀
・信玄の思惑と勝頼の苦悩 武田氏
・桶狭間での敗戦と今川氏
・清洲会議の失策と柴田勝家
・秀吉の上洛要請を拒み続けた後北条氏の誤算
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