目指すべきは「思い出」をやり取りする世界

インターネットが一般に普及し始めたのは接続を容易にしたウィンドウズ95が登場した1995年以降のことであり、そういう意味ではGUI環境でPCを一般人でも扱えるものにしたことがウィンドウズの功績で、それまではPC-9800シリーズに代表されるようにPCとはCUI環境で操作するものでした。要は文字だけでの操作。しかしマイクロソフト製品はバグが多いという悪評は常につきまとい、それはパッケージされたGUIリナックスほどではないにしても、ウィンドウズ9✕系のOSは安定性に欠き、そして特にエクセルは今でも日常的に多くのバグをユーザー側で対処する必要があるなど一時期のウィンドウズのようにOSの再インストール騒ぎの憂鬱を思い出すような手間を強いられることもままあります。何かの嫌がらせではないかと思うほど勝手にグラフのサイズが変わったりして都度調整しなければならない面倒さ。そこへきてトヨタ車載OSのニュースなど。自動車メーカー各社で車載OSを統一する動きも。その勢いのままPC用の国産OSと各種必須ソフトの普及を望む。

インターネットは生活を便利なものにしましたし、集合知と言われるように特に「知」の分野への貢献は大きなものがありましたし、AIが開発されるための必須の素地でもあったでしょう。それまではAI開発のために人がポチポチと単語などを打ち込むような職業もあったようで、気の遠くなるような作業をも簡単なものにしました。そしてインターネットのもう一つの側面として物欲を掻きたてられるというのか「通販と相性が良い」ということがあり、インターネットを介して他人の持ち物を見ているうちに興味が湧いたり、暇つぶしにアマゾンなどを見ているうちについ「ポチ」ってしまうという言葉として知られるように特に買うつもりもなかったのにもかかわらず買ってしまう現象として知られるようになりました。インターネットで財物を見せびらかす最たるものは、インスタグラムなどへ投稿する画像の背景に高給スポーツカーなどを配して「愛車から降りるときにつまづいた」的な状況を作り、転ぶときに高給バッグや高価な物や札束を地面にぶちまけた的な絵にして持ち物を見せつける「Falling Stars Challenge」なるものも主に中国で流行っているようです。

ブランド物などは持ちが良いとかデザインが優れているという実利的なところはあっても値段を考えるなら多分に「集団心理」によって人気が支えられているところはあると思われ、要するに「皆が欲しがるものなら良いものだろう」という先入観が大きく働くことで値段と品質を対比させることに盲目的になるところはあると思われ、そういったことが極端な例では若い女性の売春などに繋がったりすることは残念なことではあります。仮に売春をしたとしても、それで1億2億を貯めて家やマンションを購入したり堅実に運用するならまだそういう生き方ももしかしたらあるのかなと私は女性でないので分からないですが思ったりもしますが、売春をする目的がブランド品というのでは救いがなさすぎるように思えてなりません。

いずれにしてもモノというものは20年も30年も残るものではなく、もちろん親の形見の着物や時計といった例外的なものはあるとしても、根本的に人に残るものとは「記憶」しかないというのが30年近く孤独に苛まれた私の結論です。ですので人に物をプレゼントするときは実利的な面ももちろんあるとしても最終的に残るものは「その気持ち」でしょう。これは逆のことも言え、残るものが「記憶」なら他人へ加害することが如何に最悪なもので、加害された記憶が如何に人を苛めるかということでもあります。その最たるものは腕力や立場的に非対称な関係にある者同士の間で行われる加害で、例として大人と子ども、上司と部下、教師と生徒、腕力や体格という意味で男性と女性などがあります。モラハラ、セクハラなどハラスメントと呼ばれるものから刑事犯となる傷害や性犯罪まで様々なものがありますが、そういった立場や腕力を利用した非対称になされた害は特に悪い記憶として残り続けるでしょう。

ということで財物を見せびらかすこともある意味でのハラスメントに該当するのではないかということを最近は考えるようになっています。

多くの人が知らず知らずのうちにそういった「潜在的」なハラスメントを行うことで社会にどのような悪影響を及ぼしているかを考えると、最終的には子どもや若者の間での「いじめ」に繋がっているのではないかということに思い当たります。つまり自分が他人よりもどれだけ幸福で豊かかということをアピールする姿勢こそがこの世界の歪みを作っており、最終的に「いじめ」の問題として子どもや若者への皺寄せとなっているのではないかと。

モノのもう一つの側面として独身男性や特に孤独な人ほどモノで心の隙間を埋めようとするところは私自身の経験上もあるということを知っていますが、しかしモノは家族や恋人や仲間といったものの代わりとなるものではなく、ポチるときの「これで退屈で暇な時間を埋められる」とか「これを見せれば皆に自慢できる」といった高揚感が一種の中毒となり、孤独な人ほど際限のない浪費へ向かったりするようになるのかもしれません。中毒性の高いらしいギャンブル依存症なども知られていますが、これは孤独とはまた別の射幸心を煽られるような金銭へ直結する高揚感が基になっているように思え、ベクトルとしては不要なモノを買ってしまう浪費と同じ方向なのかもしれません。

「モノ」ということで最も印象に残っているのの記憶を辿っていくとアメリカに滞在していた子どもの頃に見た「ガレージセール」で、当時アメリカでは家庭で不要となったものを軒先に並べて販売するということが広く行われていました。その多くは子どもの遊具といったものでしたが、本当に多くのプラスチックのようなモノで溢れかえっている場所なのだなということはアメリカ滞在の一つの印象として残りました。ニュースなどを見ていても「クリスマス商戦」といったワードを見聞きしますし、「消費者物価指数」といった経済用語も定期的に聞くものでしょう。消費者物価指数とはインフレを量るための一つの指標ですが、そういったアメリカのイメージと組み合わさることで消費される本当に多くのガラクタが経済を動かす燃料となっているのだということに気がつかされます。しかし連日異常な高温が続いているように、そういったガラクタを欲することで需要が生まれ、その需要からモノが作られ運ばれるという過程の一つ一つで環境に有害な物質が放出されることを考えると、我々は資本主義自由経済というものを根本的に考え直す時期にきているということではないでしょうか。それはどのような社会を目指すべきかという意味で、ひいては「我々の存在自体の在り方」を問う話となるものと思います。

つまり「他者よりも恵まれている」ことを目指すことで様々な問題を生じさせ、地球環境が破壊されるのであれば、我々はモノを求めたり求めさせるよりも記憶に残るようなことを求める世界を目指すべきで、その一つに男性からすると女性の体臭はとても好ましいものの一つにもかかわらず環境を破壊するものでは全くありませんということは以前から主張していることです。そもそもモノを欲するようになるのは孤独な者については「心の隙間」を埋めるという動機が大きいですし、財物を見せびらかすことで得られるような自尊心が最後にはどのような悪影響を社会全体に及ぼすかに思いを致すべきです。私は日本人にはそれをすることの出来るポテンシャルを秘めていると思ってますし、中国人や欧米のような過剰なまでの自尊心を生来的に持ち合わせているわけでもないと思っています。

しかしアメリカはそういった本来は目指すべき方向とは真逆の方向に進んでいる国や人々ということは、大リーグのような人々が熱狂する理由の著しく欠けたものに象徴されるように「優生思想」は割と容易に「それに適う者以外は子を持つべきでない」というような発想を人々に抱かせ、多くの人に植え付けられた発想によって実際に多くの孤独な者を生みだし、それがガラクタを欲して地球環境を破壊していくのだという悪循環を作るのではないかという指摘をするものです。

結論としてアメリカは「政治的な」自由や、白人流の暗黙のうちに「男性優位」が前提となっている「女性の権利」を齎しましたが、白人という人達は発想自体が環境と親和的でないという考えを超え、その存在自体に地球環境を壊す致命的な内的要因を内包しているのではないかと考えざるを得ません。その一つの象徴として日本には「Hentai」文化がありますが、それは嘲笑されやすいものではあっても決して人を傷つけるものではありませんし、反対に「どうしても性行為が必要」と考えることで需要が生じて経済的に弱い立場にある女性が体を売らざるを得ない状況を作るということを考えるなら白人という人たちは「存在自体が持続可能でない」という結論にならざるを得ません。これが「サタンの軍勢」が最終的には「神の軍勢」に負ける象徴的な理由でしょう。