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名付けの逡巡

性はグラデーションというのはもう語られ尽くした話である上、今はだんだんそういった認識が広まっている気もするけれど改めて考えさせられる機会があったので文章に残そうと思う。

私は心も体も完全に女性だ。そこに対して一切疑念は抱いていない。しかし恋愛や異性間における関係で女性であるがために受動という立場を取らされる。そういった前提を元に繰り広げられる人間関係となると話は一変する。

異性から女性という理由付けで関心を抱かれる場合があるだろう。自分という器に投影された少女という幻想に対する関心ならまだわかる。(最も幻想を抱きやすいのは少女であってその次に女だ。間違っても「女の子」の入る隙はない。)しかし、その指向対象が完全に自分自身で、その上で関係性(付き合う、彼氏、彼女など)を築くことを前提とされることは、理解が出来ないし困惑してしまう。

もっと明確に性の違和感を感じている人もいるだろう。本当に性はグラデーションだと思う。私は自分が女の子であることを嬉しく思うし、日常生活に支障を来すような性に対する認識のズレもない。それでも恋愛指向的にはリスロマンティックに分類されるのかもしれない。



他の障害などでも言えることだが名前を付ける行為に意味などないのではないか。あれだけ言葉や言語化にこだわってきたのに、ふと不安になってしまう。

知的・発達障害と診断名が出なくても境界域で苦しんでいる人は多くいる。自身の事柄なら有益だが、他者に対して、自分の理解が及ばないものに名前を付けて安心するのは怠惰ではないだろうか。(もちろん、必要な支援を受けるため、またグルーピングし所属意識による安心感を得るための自身の個性の言語化・定義は非常に有益だと認識を持った上で。)

それでもそういった名付けを望まない人を無理やりラベリングし、自分とは違うと切り離してしまうのは早計なことではないだろうか。人は誰でもないその人という性で、その人という個性で生きていけばいいと思う。そこに名付けは必要なのか。

言葉についてそれなりの拘りも信念も持っているはずだった。それなのに立ち止まってしまう。迷ってしまう。わからなくなってしまう。人間の思考ほど脆いものはないのかもしれない。だからその迷いすらもきちんと言語化して、記録して、残していこうと思う。そうすることが言葉にとっても思考にとっても真摯なことだから。

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