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境界線

前にもnoteに書いたことがあるが、私は名付けという行為は危ういものだと思っている。

https://note.com/reisen_arisu/n/n3fb2c8168863

それは、簡単な行為で、流行り言葉などで見られるように伝染しやすいものだから、気づかぬうちに断絶を呼びやすいからだ。



性はグラデーションで、発達は「そういう」もの。
発達障害は個性で、知的障害は「そういう」もの。
身体疾患は見舞いや同情の対象で、精神疾患は「そういう」もの。

近年SNSでよく見かける、HSPとか、メンヘラとか、新しい言葉や概念で、「そういう」ものの表層を掬い取って一般化するたびに、その溝はまた深くなってしまっているように思う。



その状態にある人やその状態そのものを否定するわけではないけれど、どうしても私はこれらの新しい言葉や概念に馴染むことができない。
本当に全部がグラデーションで、個性で、済むならば、きっとそんな区分は必要ない。

でも、そうじゃないから、「そういう」ものと区別するために、世間で偏見の対象にならないぎりぎりのラインで踏みとどまるために、新しい名前を人はつける。
そして、区別は無意識化での差別を生む。

近々、知り合いが生まれ育った街を離れる。
その土地の行政や公的機関に、あまりにも彼女の痕跡が残り過ぎているから。
この土地で生きたくても、その過去が邪魔をして、幸せになれないから。

犯罪を犯したわけじゃない。
誰かに迷惑をかけたわけじゃない。
ただ、生きることへのハードルが高すぎただけなのに。

繰り返しになるが、私は上述した状態にある人や状態そのものを批判しているわけではない。
それによって生まれる無意識の断絶を批判している。

名付けによって自分の状態が言語化されて救われる人だっているだろうし、私にもそういう体験がある。

知らないものをひとりで抱えることは怖いから。
知ろうとしても、検索エンジンに入れるワードを持たないことは、不安だから。

それでも、新しい言葉で、その一部を切り取ることで、もっと生きにくくなる人がいることを忘れずにいたい。



「HSP」と「発達障害」。
「発達障害」と「知的障害」。
「身体疾患」と「精神疾患」。
「心療内科」と「精神科」。

やっぱり言葉の重さは違う。
でも、その本質までもが必ずしもそうとは、限らない。



生きにくいことはたくさんある。
想像を絶する体験は、体験したその人にしか伝わらない。

だから、トレンドみたいな、流行り言葉のように伝播した概念で、理解した気にならないでほしい。

それで救われる人がいる反面、もっと絶望を深め、土地を捨てる人がいることを、私たちは考えて、言葉を発しなきゃいけない。

名付けとは、とても重くて、危険な行為なのだ。

知らないものを怖がるがために、境界線をひいてはいけない。
それは必ず断絶を、誰かの傷つきを生んでしまう。

繋がっているのだから。
すべては繋がって、グラデーションであるはずなのだから。

誰にも邪魔されずに、幸せになろう。

誰かの不幸せの上に作った幸せは、別の誰かの幸せのために脅かされる。
砂の上の城のように、さらさらと簡単に崩れ去ってしまう。

だから、最初から誰も犠牲にせずに。
すべてを拾うことができないなら、せめて境界線はひかずに。

ひとりで、孤独に、幸せになろう。

幸福とは、閉鎖なのだから。




※誰のことも否定したつもりはありません。私は固定・固有・規定・既存の「ストーリー」という考えをして生きているので、診断名や区分にあまり価値を見出していないというだけの話です。本当に幸せになれるなら、どんな名前だって構わないと思います※

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