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すきなことだけでいいです?~「夢」編~にじさんじ🌈とヨルシカと90年代J-POPと自意識とお金と色んな人の事情としがらみ

幸福は創造の敵———                                                                                                                                            映画大好きポンポさん・キャッチコピーより

映画大好きポンポさんは、ハリウッドを舞台に映画を作る際に起こる様々な事情と夢を描いた作品。主題歌/挿入歌にはVtuber事務所・KAMITSUBAKI STUDIOのメンバーが参加している。


『ちはやふる』は2008年から連載中の競技かるたを題材としたコミックス。ちはやふる基金は、その競技かるたの運営が困難である現状を知った作者、末次由紀さんが始めた「かるたを応援したい」人の窓口である


結局のところ、私が文章を書き始めるのが三年遅かったのかもしれない。

3年前頃、Vtuberの界隈ではヨメミさんやバーチャルユーチューバー四天王をはじめ、どちらかというと、サブカルチャーとしてVtuberは認識されていた。そのころのV界隈といったらなんというか、委員長が清楚に見える程度には危険人物しかいなかった。ユリイカのバーチャルユーチューバー特集なども組まれていて私が色々語ることもないだろなあと思って、一時期Vtuberの世界を去っていた。

一方で、2021年から見る人にとって「樋口楓さんがなぜでろーんと呼ばれるか」は謎だし、ムカデ人間はただの恐ろしい映画で、アズマさんは過去の人、だろう。Vtuberと言えばApexのようなFPSや、アイドルのようにキラキラの衣装を着て、芸能人や有名YouTuberとのコラボに出ていく子たちになっていった。

よくある時代の移り変わりである。



(元配信:https://youtu.be/HAiwvmm9djs)


違う理由で手にとったこの本に美兎さんの名前を見た時は「何しに来てるんですか…」みたいな気持ちになったことがある



優しい嘘もあるだろう。ファンに言えないことだってあるだろう。そもそもバーチャルユーチューバー自体が虚構で嘘の塊のような存在である。

これまで一匹オオカミ的に文章ばっかり書き続けてきたが、この一ヶ月ほどずっと他のVファンの方と色々お話することができた。Vtuberにガチ恋する方、文句がありながらも静かにライバーについていく方、界隈の変遷を恨む方…いろいろな人がいた。

ただ、割と空気感として伝わってきたのは、Vtuberの世界が一般的な文化として取り入れられるにつれ、元々あった特別感がなくなっていくことへの寂寥感と、V界隈のしがらみについての複雑な心境だった。





にじさんじファンの方と話していく中で、不思議なことに多く言及されたのは「ベルモンドさんが、ロアちゃんが帰ってくるのをずっと待っている」ということだった。にじさんじの話をすると、誰もその話をしていないのに、繰り返しこの話題が出た。

みんなロアちゃんが帰ってくることを待っている。これが叶うかどうか私にはわからないが、このことはここに書き記しておこう。



(元動画:https://youtu.be/49NbQfKFtOM)

生放送をラジオ的に聞いていた時に、びっくりしたのはこの二つの放送だった。(葉加瀬さんは100個目の質問)。にじさんじに加入する理由として、現実との軋轢を語ったり、ライバー活動が必ずしも明るいものではないことを語る方は多い。この記事は、こうした人知れぬ苦労や思いがあるだろうという仮定の下で、使えそうな情報を集めた。



▽▲TRiNITY▲▽は、鷹宮リオンさん、葉加瀬冬雪さん、フレンさんによる三人の音楽グループ。1stアルバム『PRiSM』を今月発表した


この記事では、あえて登場した作品や人に関するnoteを紹介する意味で引用することにした。推しへの文章の書き方の参考にされてほしい。

マンガの一部の埋め込みはこちら。公式の機能により埋め込みが可能であり、著作権者の許可が出ている。



ヨルシカとにじさんじ ーー言葉と夢の嘘くささに寄り添うために


アルバム『だから僕は音楽を辞めた』の「手紙」には、オスカーワイルドの「人生が芸術を模倣する」という言葉が引用されていた。いわゆる「芸術至上主義」の言葉として有名である。



ヨルシカは、創作という本来純粋であったはずのものにまざってくる「お金」「名声」「嘘」といった、暗く心を濁す要素について、ひとつひとつほどくような作品を作り続けている。

芸術にとってはこんなもの、必要がないはずだった。ではなぜ今の芸術には、現実の事情とかしがらみの話ばっかりやってくるのか?


大人になるということは、「人生の夜」にはいっていくことだろうか。




バンプのこの曲やリゼ様の言っていたことを補助線にして、ヨルシカが訴えていることをぼんやり考えた。

友情はゲージみたいに揮発性で、約束はすぐに忘れられてしまう。つまり、言葉はそのほとんどが、発した本人が嘘だと思っていなくても「事後的に」ウソになってしまう可能性がある。

愛の言葉も、一生の約束も、好きだったはずのものもウソになっていくこの世の中に、生きる価値はあるだろうか?

この問題は、特に90年代のミュージシャンたちが顕著に戦ったものだった。


自分らしさという檻 ーー槇原敬之とミスターチルドレンの抱えた難題

名もなき詩は、シングル初動売り上げ120万枚を記録した大ヒット作。人は知らぬ間に「自分らしさ」という檻を作ってしまう。しかし、「愛」はいつの間にかそこにあるものだった。多くのアーティストは、人から見られる自分の像と、自分が考えている自分の像の折り合いに悩み続けている




槇原さんは、先日二度目の逮捕から復帰し、10/25に新曲が出る予定になっている。ヒット曲『どんなときも。』は誰かを傷つけることになっても絶対にゆずれない想いがあること、そして自分が自分らしくあることを肯定し続けてきた歌だった。のちに、槇原さんはカミングアウトの曲であると言われた『軒下のモンスター』を発表する。

曲のyoutubeコメントを見ると、彼の実直な曲たちがいかに人を救ってきたか、見ることができる。



アルティメットセンパイ ーー多分何してもこうなるし、こうとしか生きられない

アルティメットセンパイは、「こうとしか生きられない」独特のクセを持った人たちに向けた歌。にじさんじにも、「これがにじさんじです」としか言えない人たちがいる



(なんか一人、違うのがいるな…)





コンプレックスとこだわりとひねくれの先に ーー創作の原点としての劣等感や社会への違和感

Red Hot Chili PeppersのCalifornicationは、ショービジネスの裏側にある暗い部分を諷刺した曲。90年代は特に、こうした暗い雰囲気の曲が増えていた。ちなみにこの曲はYouTubeで8.7億再生されている。


精神科医の名越康文先生の文章。芸術作品を作る際、「こうだったらいいのに…」という不満やコンプレックスをバネにする方は少なからずいらっしゃる。本来、この文章にあるように、コンプレックスは「個性」であり、自分自身の特徴でもあるはずだった。

しかし、時にこのコンプレックスが社会一般と違う方向に出ると、一気に排除されたり、逆に人を抑圧するもとになったりする。現代のポップアーテイストの多くは、自分の立ち位置とやるべきことを常にバランスをとって考えている。


電気グルーヴの石野卓球さんは、ピエール瀧さんが逮捕された後、個人事務所を立ち上げた。この記事では「自分がどう狂っているかは完全に理解している」と語りながら、事務所が変わる前と後の変化を述べている。批評の本などを見ても、電気グルーヴは「本人たちが自分たちがヒール(悪役)的立ち回りであることを完璧に理解しており、本人たちの語る電気グルーヴ像が一番本人に近い」という語り方をされている。「あいつは変な奴」とポジション取りを完璧に行うのも、仕事人生のひとつの手かもしれない。




大森靖子さんは、女性が持つ相談しにくい悩みやSNSでの問題に対して、直球で挑み続けた歌手であり、彼女に救われてきた人も多い。しかしご存じの通り、先日、ZOCメンバーを怒鳴りつけた音声が流出したとして、騒動となる




大勢と物事を進めると起きる「衝突」ーー演劇と映画と試行錯誤

日本人が、「空気」を読むばかりで、つい負けてしまう「同調圧力」。でも、その圧力を跳ね返す「技術」がある。それが演劇。「空気」を創る力は、演劇的な思考と感性によって磨くことができるのだ。なにも舞台に立ったり、俳優を目指したりする必要はない。本書で、演劇の基礎に触れて、日常の生活で意識するだけ。長きにわたるコミュニケーション不全の時代に、人間らしい交感の喜びを取り戻し、他者とともに生きる感性を育てる方法を具体的に説く画期的な指南書。                      
鴻上尚史『演劇入門 生きることは演じること』紹介文より                         

ここは大森さんの事件とも関連してくるだろう。彼女は相当挑戦的なアイドル活動をZOCで展開しようとしている。こうしたグループで出てくる可能性があるのが、価値観の衝突である。これは、特に集団で物を作ることについて「好き」を突き詰める時に出てくる課題になるだろう

この話は一集団の闇とかではなくて、割と一般的な話だ。少なからず創造的な活動を行う集団には必ず付きまとうだろう。

特に、密室において人が逃げられない形で詰めてしまえば、やはりそれはパワハラと言われる社会問題にもつながっていくだろう。

人の行った行動の正否を問う前に行われるべきは、作品に関わる人の精神的安定をはかる処置である。当然叱責された人のケアは必要なのだが、指導する人や場を仕切っている人が、「なぜこんなこともできないのか」「知らないのか」とフラストレーションを溜めてしまい、言語化をする前にそれをぶつけている場合も往々にして存在する。加害者にも、被害者と別の形でストレスがある場合が往々にしてある。

鴻上尚史氏は、『演劇入門 生きることは演じること』「第8章 なぜ子供達に演劇が必要なのか」のなかで、「コミュニケーション能力」を「話がこじれた時にそれでもなんとかやっていける能力」だと述べた。誰かが真剣にやっている物事は、必ず誰かにとって迷惑になる。そこで「迷惑をかけないように」スマホでゲームを続けるのではない形で落としどころをつける、集団のまとまりを崩しつつも、よりよい方法や落としどころを探る知恵が演劇には宿っているという。特に演劇は、何回も公演を行うため、「間違う」ことを前提として共有することができる。劇団は生き物であり、日々新陳代謝が行われている。

この演劇的思考法は、かなり倫理的にもにじさんじを見る時に有効であると私は感じる。なぜならにじさんじの活動の多くは即興だからだ。



ビートルズの解散理由である「バンド内の主導権争い」は今でも、バンドによくあることとして語られやすい。ちなみに先日ポールマッカートニーさんは「ビートルズの解散をけしかけたのはジョンレノン」という証言をした。50年経った今でも(まだ当事者たちが存命なのに)論争になる話題である

厄介なことに、『ポンポさん』のような映画作品、鴻上さんの本にもあるように、作っているプロダクトが大きければ大きいほど、話し合いやその場の機転で場を乗り切る場面も多くなっていく上、そこで出た発想こそが創造的だったりすることだ。密な人間関係が回避しにくいのである。


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若干横道にみえるかもしれないが、大事な前提として、YouTuberはそもそも「ひとりで活動できる」存在だということを書き記しておこう。

山崎まさよしさんは、毎週金曜日にクラフトパパのDIYシリーズと題して、自作楽器やアート作品を作る放送を行っている。仕事としてのYouTuberが流行する前から、こうしたゆるく、小さな趣味の共有の場所としてYouTubeは使われてきた。凛famの方にお話を伺った際、彼女の存在は「ふとしたとき常にいてくれる人」だった(なんかもうほとんど野生動物が棲息しているようなニュアンスだった)。ひとりであっても、当然活動は続けられる。

名越康文氏は、LINEやSNSなども含め、「ひたすら噂話を気にする必要があり、高いコミュニケーションが要求される」世界に疲弊している人が多いことを指摘したうえで、ふらりと旅行に出るような「ソロタイム」の大事さを語っている。

凜はいます。よろしくおねがいします

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以下、並べるリンクは私が探してみた創作者にとって使えそうな本たちである。

文豪だって、〆切と大乱闘スマッシュブラザーズしていた

文学賞に選ばれた作品が何故不採用になったかを見て見ると、自分のアイデアが集団の中で不採用になったとしても、持ちこたえることができるかもしれない。進撃の巨人も持ち込みを拒否されていることを思い出してみよう。何が名作となるか、どんなアイデアが花開くかは誰も予想が出来ないし、一人では判断しきれない。しかし、演劇や映画、作品の審査では、その場にいる人だけでものごとを裁いていかなくては進まない。相手も不完全な人間であることを忘れると、ケンカの種が出てきやすい。

口を使う会議では、どうしても喋るのを聞くために一人が場を独占しがちである。そのため、負担を集中させないためのコツ、果てには「話し合いそのものをなくす」コツが必要になる。

仲直りを人がどのように行うかは、「簡単だけど難しい」あるいは「難しいけど簡単」としか言えない、矛盾したものになると、進化生物学者は言う。

心理療法士のイルセ・サンシリーズは、「まじめすぎる」「敏感な人たち」など、それぞれが抱える問題について、心理学的アプローチで解決をはかる。創造的な主張やこだわりは大事にした上で、衝突が起こった時に、どうやって仲直りするか、あるいはそれぞれこだわりは違うながらもその仕事を完遂するかは、こうした心理学の(なるべく専門的な)本を下敷きにするとよいだろう


ビジネスの世界では、「コンフリクトマネジメント」という言葉で、ビジネス上発生する職場や組織内外の対立をどうやって協調的な場所にできるかを考えるための手法が発明された。

以前も引用した記事。意見が合わない相手と話す際のフレームワークを提供してくれる。


洋画の映画界を見て見ると、こうした意見の相違によって監督が映画作りを辞めるようなことはしばしば見受けられる。とはいえ、この二つは本気で喧嘩したというよりは、交渉失敗のニュアンスが強い

映像についてはこちら。このまとめの中では技巧論ばかり書いてしまったので、現場の折衝と、心理的な負荷の管理について今回の記事では取り上げる


現場の声:SHIROBAKO・映像研・アオイホノオ、そして推しの子

こうした制作現場の難しさを描き出したアニメやマンガは、どんどん人気が出てきている。『映像研には手を出すな!』の金森氏は、締め切りという絶対的終わりと激突する、アーティストのこだわりをうまく調整し続けた。制作現場自体が作品になってしまうほどドラマティックであるというのは、やはり現場調整の難しさを表しているだろう。

…と理論や理屈をかいてきてなんだが、理論は、そのままだと使いにくい。なぜなら現場現場によってメンバー構成も違うし、立場が上の人が抱えている「大人の事情(納期、予算、いざこざetc)」も、立場が下の人が持っている「プライド、こだわり、哲学…」も違う。

バンドの音楽性で解散・アイドルのオトナの事情で解散率はなかなか高い

なので、前述のような理論書を頭に入れつつ、自分がやりたいことに関わる本を探して、自分の仕事のスタイルを探す段階が必要になる。Vtuber全体に関わるものだと、わたしはえぐく見えるかもしれないが『推しの子』が一番近いかな…と感じる。

こうした制作現場そのものを語る作品を共有することで、ある程度今のネット世界の共通認識を持つことは、今後ネットで集団制作を行う場合は必要になりそうだ。

経営者側の目線を知るためにはこれや岡田斗司夫氏の話に注目。

(元配信:https://www.youtube.com/watch?v=a_rCeZDqmZM&t=0s)

集団芸術の文脈ではないが、黛灰くんのアドバイスも有効だろう。

(元配信:https://www.youtube.com/watch?v=gm70spADaPQ&t=0s)



契約とお金 ーー大瀧詠一と山下達郎の助言

大瀧詠一は、最新鋭の16チャンネル・マルチトラック・テープレコーダーを提供してもらうことを条件に日本コロンビアと契約を結んだ。そのノルマとして、なんと3年間で12枚のアルバム制作を余儀なくされたという。そのアルバムたちは、決してサウンドもアイデアも、セールスも成功したものではなかった。その背水の陣の果てに大瀧詠一が出したのがアニメ「かくしごと」にも使われた「君は天然色」が入ったアルバム『LONG VACATION』である。

Q40 音楽を志す若者へのひと言。                                           「プロになりたいんだったら、契約概念を把握しておくこと。金の話を避けて通ると、あとで必ず、大変なことになりますから。音楽的なことで言えば、自分がやりたいことをどれだけ貫徹できるか、ですね」                        Q41 何十年も聴き継がれる名曲と、数ヵ月で消費される曲の違いは?         「運、不運でしょう。いい曲であっても、歴史のなかに埋もれているものはいくらでもあるし。恣意的なものなんですよ、スタンダードと言っても。『クリスマス・イブ』だって、JR東海のCMがなければ、“『MELODIES』のなかの1曲”だったんだから。そんなもんですよ」

山下達郎さんは、リンク先のインタビューでこのように盟友の大瀧詠一さんが契約関係で苦労したことを知っているからか、このような発言をしている。山下さんの音楽に対する目線はドライである。山下達郎さんは、インターネットカルチャー内のシティ・ポップの流行と共に存在感を増している


樋口楓さんは、いちから(2019年末当時)に許可をもらって、にじさんじにおける収入事情を話してくれている。確定申告をやる時期に、各所のVtuberの方のTwitterがざわめきはじめるのも、もはや風物詩である。



経営系の本などを読んでみても、結局必要なのは従業員と運営が、お互いの前提となっている考えを知っておく・想像力を働かせておくことに尽きそうだと感じる。↑の本たちやリンク集は、恐らく経営層の人たちが読んでたりする本などをまとめている。



敗者たちの逆襲 ーー時代に乗れなかった人たち

この二曲は「敗者」に向けられたものである。山下達郎さんが述べたように、時代に乗れるかどうかは「」の側面も大きくかかわってくる。

Vtuberは時代の風雲児といまやなった。それは逆に言えば、マイノリティだったはずのものが、マジョリティになったことの証左である。

the pillowsは20年以上売れない冷遇の時代にありながら、自分の芯を曲げずに、好きなものと嫌いなことを曲げずに活動してきたアーティスト。平沢進、ソウルドアウトのような現在は人気がでたアーティストも、決して常に第一線にたわけではない

文章で人を推すのは難しいということ ーー才能の格差を静かに考える


時代によって、持ち上げられる能力、いらないと言われる能力には差がある。例えば数十年前までは、家に百科事典が大量にあって、頭の中に知識が詰め込まれている人が活躍する世界だった。一方現代では、まさにYouTuberがその最前線であるように、積極的に発言ができ、人の意見を一刀両断できる人が活躍している。時代が変化すれば、注目される才能は変わる

noteをやっている方にお話する中で、人前に立てないことや「推しに迷惑をかけないかな…?」と相当な面持ちで祈るようにVtuberについての文章を書き続けている人がいた。

にじさんじのはじまりはギタギタのグロ映画「ムカデ人間」だった。そしてVtuberの世界もどっちかというとインドアの人、技術系の人から始まっているというのを聞いた。

Vtuberのファンの方と話している時に、才能がある方が多いと感じるとともに、やはり人前で話すのが苦手な方というのはいらっしゃったし、Vtuberの放送時間を考えるとにじさんじの人々に救われている人たちも少なくないだろう。

一方で、初期から追っている人の中で―—この言い方はあまり好きではないが使わせてほしい―—絵や映像、音楽といったわかりやすく「創作」と呼べることが苦手な方は間違いなくいらっしゃる。西尾維新ですら化物語で「創作は恥ずかしいこと」とキャラに述べさせる場面があったのだ。にじさんじの界隈にはあまりにこうしたジャンルのプロが集結している。ここに、変な才能格差のような問題が発生していないか…?というのが私が観察して感じたことである。

この時に誕生しやすいのが、いわゆる「考察」をする人や「杞憂」をする人々である。私は別の界隈を4つほど持っているが、これほど事務所の関係性やお金とかについて高いレベルで話している界隈は初めて見た。悪いことではなくて、まだ3年と少ししかない界隈であり、恐らくこれらの情報は推しを傷つけることなく、推しの活動を見守るパラメーターになるからだ。

「考察」は、推しを傷つけずにできる謎解き(妄想のうまいいなし方)である。これがうまくいなせないと「杞憂」も発生するだろう。愛が強すぎたり重すぎると自意識過剰になるとはよく言われることでもある。度々指摘しているように、SNSが全盛となり、ファンとYouTuberやアーティストの距離が近い時代には、こうした声はある程度届いてしまいやすい。

おそらくここに、「杞憂民」が多すぎることの構造的な問題があるだろう。私が今のところここで思い描いている解決策のひとつは、Vtuberが、ファンが一人で創作できたり、日常生活を違う目線で見れるようなアイデアやモチベーションを渡してあげること、あるいは別の界隈への興味を渡してあげることである。よく、「良い小説は読んでいると小説を書きたくなってくる」と言われるが、これを引き起こしてあげることである。

Vtuberを見ていて健康を害しても、色んな意味で継続性がなさすぎる。


哲学の第一人者がこのように語ったように、すでに言語学者系YouTuberなど、文字で稼ぐ人たちも「話し手」であることを意識し始めている。いくら論理的に文章を固めていても、一般の人について行くのは難しく、こうしたトークの形をとるのがわかりやすくする方法だとの考えがある。


芸能人や野球選手など、「誹謗中傷」に関する事件は、ここ数年後を絶たず、先日引退された野球の松坂大輔さんも、そうした精神的ショックで全力の投球ができなくなっていた。人気稼業の場合、「批判」と「誹謗中傷」はかなり見分けにくい部分もある。1つなら重要な忠告であっても、1000集まれば受け止めきれないことだってある。

例えば岡田斗司夫氏ほど直球で話す人は「自分のように人様の前に立つ有名人に人権がないなんて当たり前」だとすら述べたことがある。一般人が人権侵害するのを正当化しているのではない。そうされても仕方ない場所に立っていると「有名人の立場から」述べている。いわゆる有名税の話である。

問題は、「インフルエンサー」という言葉もあるように、人の名前が強く売りになるセカイが一般的になると、トレンドや急上昇で有無を言わさず苦手な人の名前を見るのが避けがたくなったりすることだろうとは感じる。

まず、私はにじさんじを良く見る人間という前に、noteで面白い記事を色々見るのが好きな人間だった。他の界隈のnoteを見ていると、色んな世界を見渡すことができる

芸能人という目線で見て見よう。

サンドウィッチマンのように、好感度の高い芸人さんでも、「誰も傷つけないお笑いは存在しない」と言っている。実際、オリンピックの際もサンドの伊達さんが演出家や音楽家の人たちが交代し続けた時にNHKの番組で毒づくシーンがあった。

身体的または能力的にネガティヴなところにふれて笑いをとろうとする人がいます。年を多くとっていることや、見た目の悪さ、能力の低さ、何かが下手、失敗、など。僕はこういう笑いは自分の作品に使わないようにしています。他人の失敗や欠点などにふれて笑いにすることは、対象になった人を傷つけやすいため、危険なことでもあるからです。                                         小林賢太郎「人を傷つけない笑いであること」『僕がコントや演劇のために考えていること』幻冬舎

このように述べている小林さんにオリンピックで起こった出来事は、解釈が難しい。ただ、小林さんのこの姿勢に憧れて芸能や演劇の世界に入った人たちの存在を私は知っている。私は、まず全ての人が必ずしも小林さんのように聖人君主的な主義を引くべきとは思わない。多分それだと、人によってはしゃべることすらできなくなるだろう。カップリング論争でもよくあるように、人のどこに地雷が埋まっているかを考えるのも、かなりの難題だからだ。

作品を発表することは、やはり原理的にリスクは存在するのだろう。

とりあえず、↓に考えるための動画を二つのせておこう。ここから先は、これを読まれる各個人の価値観で変わっていくだろう。

(男女関係の話ではあるが、仕事の好調な時でも見る価値がある。もし「傷ついた」という声が出て来たときどうするかは、ひとつ考えておく必要がある)

(元URL:https://youtu.be/6KQC21zv1uE)

Vtuberは、元々がプロの世界とは違う、気軽に物を始めるYouTubeのアマチュア的な世界から始まっている。

一方で各業界のプロとして世に出ていけば、こういう手厳しい話も出てくるだろう。後述の大塚明夫さんの例もあるように、何等かのプロとして活動する場合、「お前がやってみろ」という言い方は通用しない可能性が高い

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この話を、ファン側の視点から語ってみよう。

Vtuberについて実際に色々な方にお話を聞いて、共通して言われていたのはやはり「Vtuberについて文章を書くのは難しい」ということだった。音楽家みたいに、やっていることの方向性が一定に定まっている場合、その文脈で語ればよい。ただ、Vtuber(あるいはYouTuberも)その文脈が人一人でもばらけているため、応援の仕方を定めるのも結構難しい

好きな人のことは傷つけたくないものだ

故に、ファンカルチャーはいわゆる「全肯定」か、推す推し方も前例の踏襲という形にどうしてもなりやすい。

これは先ほどの誹謗中傷の話の「」の問題である。今流行している「推し」についての本を見て見ると、ほとんどファンは「これはあくまでもビジネスであると理解して、ほどよい立ち位置を絶対に取らなくてはいけない」といった、本音を隠した建前を大事にすることを、かなり当然のこととして書いていた。ほとんど「推しとの関係性はカネでビジネス」ぐらいのことを言っている。

でもここで違う問題が発生してくる。Vtuberってそもそも気軽な娯楽の一つ。妄想をしてはいけないというのは、『サブカルではない』一般的な娯楽として相当厳しい。ここがあって、私はVtuberを敷居の高い「アイドル」として取ることに躊躇を感じていた。

SNSを前提とする世界でそれをやると、Vtuberに対する建前を、Vtuberを知らない一般人や、それぞれの業界の人に押し付けることになりかねないからだ。故に、私はファンとかアンチとか、そういうよくわからない立場論みたいなのから身を引くことを考えている。

テレビブロスのような雑誌媒体は、こうした色んな業界からやってきた人が交流するサブカル誌として機能していた。SNSの場合、人は見たいものしか見ることが「システム的に」できない。故に、リアルの私の知り合いでも、ネット離れをする人が出て来た。



つきのみとについて説明できる人・・・いなさそう(というか、月ノ美兎本人すらわかってなさそう)


このレベルまで達人級にVtuberを知っていると、Vtuberの定義を抽象的に、具体的な事象も交えて抽出できる。また、詩人の最果タヒさんは、ひとつのマンガに対して強い思いを込めた散文を発表し続けている。

はぐ田ちぐらさんは、にじロックについての感想寄稿を募っている。ありがたいことに、私の記事がきっかけとのこと。


生きたいが死ねと言われ 死にたいが生きろと言われ
生きたいが死ねと言われ 死にたいが生きろと言われ
正当防衛と言ってチェーンソーを振り回す まともな人たちが怖いよ
愛燦燦 春爛漫 日々だんだん大事なものが消えていくよ
さんはい 「この世には愛も知らない人が沢山いるんですよ」
さんはい 「この世には愛も知らない人が沢山いるんですよ」
共感 羨望 嫉妬 逆恨み 黒い涙がこぼれ落ち
醜い感情が吹き出し 真っ白い鳥になるんだな                                ノンブレス ノンブレス ノンブレス ノンブレス・オブリージュ 
I love you 深海魚と泳ぐ氷点下 見上げている ザラメの星
ぼくらは 直接 直接 直接 直接 手を下さないまま
想像力を奪う液晶越しに 息の根を止めて安心する
ノンブレス ノンブレス ノンブレス ノンブレス・オブリージュ 
I love you それぞれの都合と自由のため
息を止めることを強制する                        ピノキオピー「ノンブレス・オブリージュ」より

欅坂46の「黒い羊」にもあるように、全ての人を傷つけず、全ての人が喜ぶ答えは、どうもこの世にはなさそうだ。

ピノキオピーの『ノンブレス・オブリージュ』はP丸様。とキズナアイさんをはじめ、Vtuberや歌い手の人たちが次々カバーし始めている。おそらくファンとかライバーとかそういう立ち位置を超えて、このネットの「息苦しさ」は共有されている



【不満ってダサくね?】真心ブラザーズ、奥田民生、PUFFY…【とにかくパーティーを続けよう】

えらく出口のない話ばかり書いたので、あるミュージシャンたちを紹介しよう。

にじさんじの歌枠を見ていて気付いたのだが、恐らく世代の関係もあって明らかに90年代アーティストの言及が少ない。(それ以前の歌謡曲については緑仙を中心に、よく企画が立っている)

よく言われるのは、この世代のアーティストたちはミスターチルドレンに代表される「自分さがし」や内省的な自問自答に身を投じる人たちがいたということである。しかし、真心ブラザーズ、奥田民生、PUFFYといったバンドブームを率いた世代の人たちは、「不満を訴えることそのもののどうしようもなさ」について考えていた。

現実の不満を訴えることは、カリカリとした衝突を生んでしまう。ならば、自分たちは与えられたルールと自由の中で、面白いことを伝えてみよう。強いプロ意識ではなく、ゆるく、何かを続けてみよう。真心ブラザーズの「サティスファクション」は、ローリングストーンズの「 (I Can't Get No) Satisfaction」という作品に反旗を翻した歌である。


奥田民生さんは、YouTubeチャンネルで淡々とギターやフェンダーの紹介や、かっこいい音の作り方を教えている。ヒット曲「息子」では、いじめられっ子の息子に対して、この世のしがらみや、ぼろもうけの罠の怖さを予告しながら、静かに息子が道の世界を進む様子を見守る曲だった。

彼は、自分の好きな音楽を伝えて、自分のすきな歌を歌う、風来坊のように生きることを選んだ。



時代や場所が変わっても、彼は仲間たちと一緒に音楽を続けるだろう。


PUFFYはアイドル冬の時代と言われた90年代において、数少ない成功例として語られることがある。奥田民生、井上陽水、スピッツといった一流のアーティストたちが、気取らない形の曲を発表し続けている。(この間もミュージックステーションに出演した)


小沢健二は、他の人と同じ気持ちを共有できないかもしれないこと、喜びは一瞬のきらめきでしかないこと、それでもその悲しみの中でもパーティを続けること(『今夜はブギーバック』『ラブリー』)を歌い続けた。特に近年のあいみょんについて歌った『彗星』のような曲には、一瞬だと思い続けて歌ってきた90年代の彼に影響を受けて、多くのアーティスト(official髭男dismなど)が誕生したことを喜ぶ心情が浮かんでいる。


サンボマスター、チャットモンチー、そしてフジファブリックといった00年代のロッキング・オン誌に登場するアーティストたちは、真心ブラザーズや奥田民生に強い憧れを述べることが多かった。強烈な思想を訴えた人たちではない。

前の章では、どちらかというとプロの厳しさに関する意見を固めていたが、この章で探した見て来た人たちのように、ゆるく未来に希望を託す生き方もあり得る。AKB48や現代のアイドルのように、強く目標を目指す以外のアーティスト・アイドル人生もあり得ることは、知られておいてよい。


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どうしようもない世間とルールを前にして ーー大人になるということ

色々不安だろ?なあ、イライラするしなあ。                                                    それなあ、大人になっても不安だし、50過ぎてもイライラするから、          そのまんまでいいんじゃないすか。                                                                物事解決するよりも、イライラしたまんまさあ、ロック聴きゃあいいじゃん。うん。                                                                甲本ヒロト

学問の世界でも、「本来人は失敗ばかりするのではないか」という視点からの反省が行われようとしている。荒木さんのこのツイートなどを読むと、私ですら、Vtuberの人たちが外の世界に行くことに一瞬のためらいは憶えてしまう。必要なのは、失敗を恐れるガチガチに決められたルールじゃない。失敗した時に暖かく叱りながらも迎え入れる場所である。


椎名林檎の『急がば回れ』は、オリンピックで起こった一連の出来事のことを指しているのではないか?と言われている。椎名林檎の後期は、ロマンチックな物語ではなく、淡々とくだらないことも起きる日常を生きる人々に向けられている



「生きているといろいろなルールに合わせなきゃいけないし、いろいろなものを背負うことになる。僕は小学生の頃から、いろいろな人間関係やルールに疲れ果ててきた。でも音楽や俳優の仕事をやっていると、時が経つのを忘れるし、自分のエゴがなくなっていく感覚になるんですよね。自我や世の中から解放されて、自分と他人の境界線がなくなっていく。そうやって自由を感じる瞬間がすごく好きなんです」                                 星野源『「歌うことは人生最大の恐怖だった」 怖さを乗り越え自己肯定力を手にした星野源の決断』

星野源は、世界が理不尽であり、自分たちが愚かであることを知ったうえで、新曲「Cube」ではやつらを「音楽によって黙らせる」「憎しみを曲に込める」ことを選んだ。「やつ」が何を意味するかは、曲中では聞き手にゆだねられているが、アンチや誹謗中傷をしてくる人だとこのインタビューの文脈からは感じ取られる。




予想以上にドギツイことが書かれていたため、引用しない(覚悟を決めた人だけが手に取られて欲しい)が、健屋花那さんの推薦書・大塚明夫『声優魂』には、甘い気持ちで声優の道に入ろうとする人に強烈な喝を入れる言葉が書かれていた。このレベルで苦しい場面があるところを、どこまで生配信で話してよいかは意見が分かれるだろう。さらに、声優になることは「ゴールですらない」。

ゲーム界で何が起こっていたかは私は知らない。ただ、一つの作品を作るために、大塚さんほどの人ですら相当な「失敗できない」というプレッシャーを感じることは、心理安全上知られておいたほうがよい。



終わりに ーー何度だってやり直せる だけど今は二度と来ない


百万回死んでからが本当の勝負。

理不尽な死を楽しめ。

                              鈴原るる

Serial Experiments Lainの生みの親である漫画家の安倍吉俊さんは、「努力が思ったよりも実らない」と感じた時はダークソウルをプレイするという。失敗を起こした時に「何をよくすればいいんだろう?」と考えを変えることによって、上達することの喜びにつなげることができる。


VOIZは、新しいユニット「Re:iZ」として生まれ変わった。喜びの声は「#りあいず爆誕」で検索することができる。


(元配信:https://youtu.be/rx70kgPjyaI)

実は、2018年のユリイカ『特集=バーチャルYouTuber』「周回のその先に――バーチャルYouTuberの分岐点をめぐって / さやわか+ばるぼら+黒瀬陽平」では、かなり経営側について悲観的というか、恐ろしい予言がされている。ここまで残酷じゃないやろ…とは思うので引用はしないが、「にじさんじが芸能事務所的になってきた」という話を聞くと思うところがあったので、興味がある方は読まれて欲しい。

冒頭でも書いたように、今やVtuberと関係のないひとですらにじさんじやホロライブの名前を口にするようになっている。Vtuberが一般化するということは、その形態もゆっくり一般的なものに誰が悪いとかではなく最適化されていくだろう。

この記事では、「ゲーム実況や雑談以外のある程度大きなプロジェクトをにじさんじやライバーさんがやっていくと仮定した時に」特に日本の音楽史に残る人たちがしがらみにぶつかった時にどう考えて立ち位置を取ったかを固めて考える材料にしてみた。

言及した各ミュージシャンに対しても、それぞれのファンがnoteでそれぞれの想いを綴っている。にじさんじがカバーしてきた曲の後ろ側には、そんな多くの人の想いやいきさつが詰まっている。それが伝われば、ここから先は蛇足である。


ところで、別に会社を辞めるとか辞めないとかいう話ではなく、きちんと採算の立つプランを考えた上でそれを会社に提案するとかいうのは、変な話ではないはずである。社内ベンチャーも近年では色んな会社で活発化してきた。

「好きなことだけでいい」と人は言う。しかし、夢を現実にすることは、ほとんど妄想を現実にすることであり、そのためには莫大なエネルギーと人手とお金と試行錯誤が必要になる場合がある。だから、万が一とんでもない失敗をしたり、方向転換をしたい時に選択肢を残し続けるのが大事だというのが、このとりとめない記事の考えであった。

アニメ、映画(映像)、ゲームといった総合芸術性の高いものは、俳優が読み合わせで台本を覚えていないことは、俳優に払うお金のことを考えても困ったことになり得る。ここで個人でやる芸術と集団でやる芸術を志す時に違いが発生することがおわかりいただけるだろう。演劇やアニメ、映画は、作るのに一年以上の深いコミットメントが必要になる。

『月ノさんのノート』には、実際に映画を作る際に衝突が起きた時の話が書いてある。YouTuberは、本当に究極的には一人でもできる仕事なので、衝突が苦手な人にとっては明らかな天職になる。一方で、「忘れ物」であるこのノートに、自分が映画研究部だったことが繰り返し述べられているのは、まるでこの子が映画の夢を忘れてしまったかのような感覚を、時に禁じ得ない。なので、この記事では強めに映画の例を引っ張って来てみた。

Jojiは、謎動画をYouTubeに投稿しまくるYouTuberだった…のだが、ここ数年内容がプロフェッショナル化してきており、今注目されるアーティストの一人となっている。アーティストのなり方も多様化している。


日本にいるとどうしても「雇われる」ことは全てを受け入れて、その通り動かなくてはならないという観念にとらわれやすい。しかし、西村さんのこの本では「頭で考えたことでは力にならない」と述べて、直感だけで会社を辞め、新しい仕事へと旅立った。仕事の形は、単なる受注生産だけではなく自分の形で切り開くこともできる。



映像研には手を出すな!の金森氏も、何が本質かを見極めて活動を継続させていた


なぜこんな話をしているのかは、歴史に理由がある

一時代を築いたロックスターたちは、少なからず経済的・心理的な援護がもらえるようなお金の計算や信頼関係の担保をしている。特にローリング・ストーンズのミックジャガーに至ってはバリバリの経済学部出身だったりする。こうしたマネーゲームはどちらかというと自分の曲を聞いてくれるファンを守る、そして自分の活動や、やりたいことを守るために行われている。今まふまふさんがやっていることは、どうも私にはこれに近いように見える。そしてYouTuberはかなり出自が自由度の高い集団であるため、どこかでこのあたりの経済面を整理する局面はくるだろうな…とアタリがつくのだ。

念のため繰り返すが、歴史はどうしても衝突や悪い出来事に注目が集まりがちだが、事務所と衝突せずにずっと周りと歩みを合わせていくことが悪いことではないことは、明記されておくべきだろう。




テイラー・スウィフトの大ヒット作『Shake It Off』は、踊り続ける人は踊り続けるし、アンチはアンチで罵り続けるから、私はそういうものを振り払う(Shake It Off)と宣言した曲だった。しかし、彼女は2年前には原盤権をめぐる闘争に巻き込まれるなど、そのまっすぐで華々しいキャリアの中には、いくつもの困難があった。詳しくはこちらのnoteのマンガで述べられている。


ボカロ界を見ても、ある人は去っていきある人はひたすらに曲を作り続けている


後に「社会生活不適合者」という曲を書いたように、遅刻などをすることも多かった斉藤和義は、「歌うたいのバラッド」という日本史上稀に見るまっすぐなラブソングを作った。Creepy Nutsもいまだに遅刻をしまくっているらしい。ビートルズの時代から、音楽は不良やクセが強すぎる人、今の世界に居場所がない人が自分の場所を探すための戦いだったと言うことも言える。例え、定時に起きれなくても居場所があることは、覚えられていてよい。



「終わりに」のタイトルはレミオロメンから。

日常は、どこからでもやり直せる。





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