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スカートは誰のもの?


私はたぶん、「女の子」をするのが上手だと思う。

私はひらひらのレースのスカートも、巻き下ろした髪もそこそこ似合っていると思うし、ほとんどの人の目から見た私は「女の子らしい服を着た子」に見えるのだと思う。


「女の子」という概念に近い幻想は、きらきら、ふわふわしていて、心底美しい。
花の香りの香水を買ったとき、爪先をピンク色に塗ったとき、下まつげに慎重にマスカラ を塗ったとき、この幻想に近づけた気がして、心が踊る。



ルミネで買ったレースのスカートも、ヘアダメージを気にしながら朝から巻き下ろす髪も、私が私の今をワクワク生きていくために大切だし、きっとこれが私のアイデンティティなんだろう。


「女の子」という幻想を自分に投影するためのお洒落は、すごく楽しい。
かわいいスカートを履く、それだけで毎日が少し輝いて見える。


でも、スカートを履くことと、「女」として生きていくことを一括りにしてしまうのは、危険な事だと思う。

いわゆる「女の子らしい」ものと、社会に形取られた「女性」という生命体は、似ているようで違うものだ。

「女の子らしい」ものは「女性」だけの持ち物ではないし、「女性」は「女の子らしく」生きていくことを強制される必要はない。

スカートは、「女性」だけのものではないし、「女性」だからスカートを履いて生きる必要もない。

フリルのスカートや、巻き下ろした髪のような「女の子」という概念に近い幻想は、きらきら、ふわふわしたあの美しさに憧れる全ての人間のものであるべきだ。


男とか女とかの線引きをゴシゴシ消して、ただ自分が好きな服を好きなように選び取れる世界を私たちの手で、作っていかないといけないな、と思う。

近い未来、
スカートが
『社会が定めた「女」の制服』ではなく
『スカートを見てわくわくする人が選択できる自由』
になっていたらいいな。



スカートを履くとき、人は何を思うのだろう。

様々な価値観がめまぐるしい速さでアップデートされていく時代の中で、
スカートは、誰のものになっていくのだろう。



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