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ザ・ピ~ス!~選挙で愛を語り合う~

私は、わりとリベラルな家庭で育ってきたと思う。

私たち三姉妹は、昔からみんな名前で呼び合っていて、姉のことを「お姉ちゃん」とは呼ばない。
それは、私(三女)が5〜6歳の頃だったか、お姉ちゃんが2人いて、どう読んでいいか困っていたら、今は亡き父が「お姉ちゃんという呼び方はやめよう。年齢が違うというだけで、姉妹は対等なんだから。」と決めたから。
最初こそ違和感があったけど、慣れてしまえばなんてことなくて、数年も経つと「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼んでる他の家庭に違和感を感じるようにすらなった。
姉妹間の呼び方なんて些細なことかもしれないけれど、この出来事は「そうか。人ってみんな対等なんだ。」と私の心に強く残り、その後の私に強く影響を与えた。

呼び方が変わっただけで何が変わるのか。という考えもあると思う。
実際、一番上の姉は長女たらしくあることを求められているように感じてきたみたいだし、私は私でいつまでも半人前の末っ子としてしか扱われないことに強く不満を持っていた。
それでも、だからこそ、対等な呼び方にすると父が決めたことは「対等でありたい」という父の願いでもあり、大切にしないといけないことなんだろうなとも思っていた。

そんな我が家で、選挙のたびに毎度毎度行われていた、父と母のやり取りがある。
投票日の夜、父が母に「だれに投票したの?」と面白がって聞き、それに対して、母が「教えるもんですか!」と笑って答える、というもの。
そんな楽しそうな二人のやりとりを見て、たとえ夫婦間でも投票の考え方には個人差があり、そこには個人の意思が尊重されるんだということを知った。
幼い私にとって、選挙とはそういう「大人が一人一人の意思を示すもの」だった。

私も二十歳を過ぎ、選挙権を持つようになって、父と選挙について話した時に、組織票の話になったことがある。
父は、とある大企業の幹部だったのもあり、父の一票はいわゆる「組織票」の票田としてカウントされるものなんじゃないかと思い、実際のところを聞いてみたのだ。

「表立っては言えないけどね。選挙が近くなると、一部の人が集められてそういう話がなかったわけじゃない。」
「でも、実際にどうしたかはわからないじゃん?実際はどうしてたの?」
「それはナイショだよ(笑)」

そういえば、いつものように父に投票先を聞かれた母が、「あなたはどうせあそこなんでしょ!私はそんなの関係ないですからねー!」と笑っていた時もあったな。

こういう話をする時、いつも父と母はちょっと笑いながら話していた。なんていうか、我が家において「一人の人間として意思を持ち、それを示す」ということは、ちょっと笑いながらも特別に扱う出来事だった。
それは、愛を語ることに慣れてない日本人が、わざわざ「愛してるよ」と言う時みたいな感じの特別感に近かった。

それは、まだまだそういったことが当たり前ではないということの裏返しでもある。でも、少なくとも家庭の中でその姿を見せてもらったことで、私の中に人権意識を育ててもらったとも思う。

と、今書いてて気が付いたんだけど、「一人一人の意思を大切にする」ということは、「あなたが持つあなたの意見は、あなたの意見として素晴らしい」ということで、それは「あなたがあなたとして存在することが素晴らしい」ということでもあり、結局のところ「愛してる」ということなんじゃないのかな。

そうか。
我が家では、選挙のたびに父と母が愛を語り合ってたのか。
どうりで、二人が楽しそうだったわけだ。

つい、大きな力に何もできないと思ってしまいがちだけど、きっと本当に大切なことはこんな小さいことからはじまる。

ザ・ピ~ス!

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