見出し画像

セーターをほぐして、「喪失」に気が付いた

突然の休校要請と、それに伴うものすごい量の情報の波に疲れ、SNSを都度ログインするようにして、スマホの通知をできるだけオフにして、約1週間。
最低限のやることだけをなんとかこなしていたけれど、気持ちはどうにも上がらず過ごしていた。

なんだろう、この落ち着かない感じ。
何も手に付かない感じ。何にも気持ちが入らない感じ。
何も考えずに、ただただ無駄な時間を過ごしていたい。
ゲームに入り込んでるほうが、よっぽど心が楽。
頭がまったく働かない。
どこにも焦点が定まらないまま、ぼやけた風景の中にいて、どこに向かうのかも何をするかもわからないまま、目の前に現れる課題をただただクリアし続ける。

そんな感じで、1週間を過ごしていたら、昨晩ふと「しょうもないこと」をしたくてしたくてたまらなくなった。
間違って洗濯乾燥してしまい、着れなくなってしまったセーターがあるのだけど、それをただただほどいてみたくなった。

乾燥機の高熱で、ややフェルト化してしまった糸たちは、ほどこうとするとぶつぶつと切れてしまう。それでも、できる限り糸に戻してみたい。
別に編み直すというわけでもないんだけど、捨てる前にただただセーターをほどいてみたい。

こうなったら、やらずにはいられない。
取り憑かれたような感じで、セーターをほどきはじめる。
ほどくために、まずはパーツに分けるのだけど、パーツとパーツの結び目の糸がからんで固まっているので、それだけでも一苦労。
結局、朝方までかけても全然進まなくて、できたのは、一部がほどかれたセーターのパーツと、糸くずだった。

なんだこれは。

しょうもなさすぎて、笑えてくる。
それでも、ここまで取り憑かれたようにやるってことは、なんだか今の自分に絶対に必要な作業な気がする。

そして、仮眠を取り朝を迎え、今日1日眠くて眠くて仕方なく過ごしていたら、なんだか昨日までとは少しだけ景色が違って見えるような気がしてきた。
少しずつ焦点が合うようになってきたような。
通ってなかった回路が、少しずつつながり始めてきたような。

その時に初めて、気が付いた。
そうか、これは「喪失の傷」なんだ。
私は、「喪失」にものすごく傷つき、ダメージを受けていたんだ。

思い返すと、3月は、PTAの年度終わりの行事もたくさんあり、学校の保護者会やお別れ会もあり、P連の活動もまとめや引継ぎに入り、三男の保育園卒園もあり、夫は繁忙期の中、1年を締めくくる確定申告という大きな仕事もあり、さらには、都の子供・子育て会議の都民委員になり、自治体財政に関する勉強も始めたりと、新しい挑戦もいくつか始まる予定だった。
簡単にいうと分刻みのスケジュールを気合で乗り切る系の、パッツパツ状態だったんだけど、見事に全部なくなってすっからかんになった。(確定申告は延期になっただけだけど)

そこに、子どもたちの3食の用意と、家庭学習の見守りという役割が降ってきた。これを機にそこへ全力投入しようとも思って、それなりにできることをやってはみたけど、切り替えが下手くそな私の脳は、不具合の方ばかりがどんどん起こってくる。
脳の働きがまったくコントロールされず、たくさんの「やりたかったこと」「やれなくなったこと」が、行先のわからない小さな暴走を繰り返す。

それを、わかりやすく表出させるために、一心不乱にセーターをほぐし続ける時間が、私に必要だったんだろう。
ぼろぼろになっただけのセーターは、まるで突然の喪失でぼろぼろに傷付いた私の心のようだ。

この突然の喪失にどう向き合うのか。
そして、まだまだ続きそうなこの日々を、これからどうやって過ごしていくのか。
今は、新しい日常をどう作るのかという段階までは、まだまだ全然回復してなくて、やっと喪失を捉えることができたという感じだけど、まぁまずはここから。

大丈夫。
傷付いても、ちゃんと回復していけるから。
ゆっくりゆっくり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?