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長男と宿題②~葛藤と涙と自由

今年夏休みの宿題をやらなかった長男だけど、そこにたどり着くまでに、3年間の戦いの日々がありました。
今回はその葛藤の日々のお話。

長男と私は、これまで宿題と戦ってきた。

2年生の夏休みに、毎日着実に進めないと終わらない量の宿題が出るも全く着実にはできず、最後の1週間に毎日泣きながら宿題をやった。
そして、宿題によって自由を奪われる恐怖感を覚えた長男は、それから夏休みとかに限らず、「宿題」への取り組み方が変わった。

とにかくやる気が出ない。
特に苦手な漢字ドリルについては、ノートを広げて鉛筆を持ちながら、そのまま1時間固まって、最終的に「やる気が出ない」と泣き出す。それが週に2~3回。
「じゃあやらなきゃいいじゃん」と言っても、「そっか」とはならず、大体そういう時は、泣いて癇癪を起こした後、落ち着いてから宿題を済ませる。
宿題をやらないで学校に行くことは絶対に嫌だと、家族全員が寝た後でも、一人で泣きながら宿題をやっていた。

そんな状態で取り組んだものに学習効果があるわけもなくて、そのことは脳科学的にも証明されている。実際に、2年生の2学期以降、漢字の書き取りテストは60点を超えたことがない。
なので、「癇癪起こすくらいならやるな」「そんな風にやっても本当に意味がない」「そもそも宿題には根拠がないという専門家の話がある」「むしろ宿題なくした学校が注目集めてる」と繰り返し繰り返し伝えてきた。
もともと宿題への疑問があった私にとって、息子が癇癪を起す原因となっている宿題は、害悪にしか感じられなかったし、正直なところ家庭にそんなものを持ち込んでほしくないと、ものすごい拒否感を感じていた。
そして、その感覚を持ってる私は、子どもの気持ちを理解できる親なんだと、自分のことを買いかぶっていたところもあった。

でも、実際はそれが逆に長男を苦しめてしまっていた。
だって、本当は長男は宿題をやりたかったから。

やりたくないけどやりたい。でも、やりたいはずなのにやれない。やれないから困っている。なのに、親にはやるなと突き放される。でも、結局先生にはやれと言われる。
癇癪の原因はここの葛藤にあった。
それに気が付いたのは、長男が宿題で苦しみ始めてから1年くらいたったころ。ふとお風呂で、「もしかして宿題やりたいの?」と聞いたら、「そう思うところは結構ある」と答えて、目玉が飛び出るほど驚いた。
「やるな」「やめろ」というのは私の主張でしかなくて、単に私が「自分の意思で宿題をやめてほしい」と思ってるだけで、長男は、家庭と学校の意識の違い、そして自分自身の辛さ、それらが全部混ざって苦しんでいたのだ。

自らのハラスメント傾向に大いに反省した私は、やりたいの?という質問から始めて、どういう宿題だったらやれるのか?どういう状況だったらやれるのか?ということを一つ一つ確認していくことになった。
それに伴って、宿題ができなくて泣くことはあっても、癇癪を起すことはなくなった。

話を聞いていくと、長男が宿題をやれない要素の一つとして、「集中できない」というのが大きくあったので、まずは集中できる環境づくりから始めた。
宿題をやるための場所、使う物のセッティング、難しい課題をやりやすくするための補助教材、そもそもの時間の使い方。そして、そのためのルールや罰則についても、本人と相談して必要に応じて導入した。
試していく中でうまくいくものもあったけれど、それでも、いろんな取り組みが一時的なものにしかならず、何かしらの別の問題を生み、結局は泣きながらやるところに戻ってばかりだった。

一方で、担任の先生とも何度も相談した。
宿題の内容を減らせないか、宿題のやり方を変えられないか、宿題を選択制にできないか。やりたいという気持ちにこたえられるように、どうにか協力してもらえないか
でも、結論はいつも同じだった。

「長男くんは学習障害とかがあるわけではないですし、がんばればやれますよね?実際なんとかやれてるわけですし。
どうにかやる気が出るようなはたらきかけもこちらでしていきますので、これからもがんばってみてください。」

先生が言う「がんばれば」というのは、週に2~3回、放課後の貴重な自由な時間を、鉛筆を持ちながら泣いて過ごすことに費やす、ということだと何度説明しても、結論は変わらなかった。

そして、先生が言うやる気が出るようなはたらきかけというのも、「先生も本当は出したくないけど、出さなきゃいけない。それがみんなのためだから。」とか「先生も昔はやりたくなかったけど、がんばった。だから、みんなもがんばろ!」とかで、単純な長男は一時的にはそれもやる気につながったりはしたけれど、本当に一時的な効果しかなかった。

結局、親子でのいろいろな試行錯誤は、だんだんと苦しくなってきて、最後は大好きなゲームを餌に、仮のやる気を出させるという方法をとるしかなくなった。それに加えて、長男が自分で自分に課すルールもどんどん罰則を厳しくするようになり、それも達成できないことばかりになった。

そして、宿題もできなければゲームもできないという無駄な時間を過ごしたことに長男自身が苦しむようになり、かといって、開き直ってゲームをやってしまったら、今度はそのことへの罪悪感に苛まれ、どんどんそんな自分はダメなんだと思うようになった。

学校は好きだし、勉強も楽しい。
ゲームも楽しいし、ゲームを作るのも楽しい。
毎日楽しいことばかりで充実してるはずなんだけど、宿題があるから俺はハッピーじゃない。自由じゃない。

長男がそんなことを言うようになったのは、宿題に苦しみ始めて2年が経った頃。
限界を迎えた長男は、子ども哲学の場で「なぜ宿題をやらないといけないのか」と問いを出し続け、同じく限界を迎えた私は、宿題について親として語る場を作った。
そして、長男と一緒に、宿題もテストも校則も全部なくした桜丘中学校を訪問した。

今思うと、それが次への変化の始まりだった。

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