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香り



 じんわりと、コーヒーの深みのある匂いが立ちこめてくる。

 日曜の午前、十時。

 太陽の光が徐々に高いところに位置し始め、白いレースカーテンから入ってくる光が強くなってきた。

 部屋の角に置いてある観葉植物に温かい日差しが命を吹き込んでいる。

 優雅な休日。

 普段は夫と二人で出かけることが多いが、夫は今日は会社の同僚達とキャンプへ行くので、私はひとりでゆっくりと過ごすことになった。

 一人で過ごす、優雅な休日。
 コーヒーを淹れ終わった。

 うーん、いい香り。




大学の合唱サークルで出会った彼と一年前に結婚した。何のことは無い。普通に出会って普通に仲良くなって趣味の話をして遊びに行って気が付いたらお互い好きになっていた。

そこから先どういう風に進んでいったのかなんて、言わなくても分かると思う。

やっぱり、私は夫が好きだ。夫というより、オットセイという表現の方が適切な穏やかな人だ。

可愛いのだ。
うん、私の旦那は可愛いのである。

穏やかで、趣味もあって、一緒にいてとにかく苦にならない。落ち着く。

余計なことを考えなくていいし、お互いに干渉しあうことがない。

干渉しないというか、自然と大体一緒に行動しているし、考えていることがお互いに分かるから変な不安を持つこともない。

満足している。素敵な人だ。

 普段は一緒にいてずっと私からの「ねぇ聞いて」攻撃を受けても優しく受け入れて話を聞いてくれる夫がいないと、やっぱり手持ち無沙汰になる。

 少ししんみりとする。
 やはり、私は夫が好きだ。

たまに一緒に過ごせない日があると、少し寂しい。

 ただ、こういう日は趣味に使うことが多い。
 ちゃんとひとりでもお留守番できるのだ。

 普段私のワガママにも付き合ってくれるから、彼を縛るようなことや面倒くさいと思われるようなことはしないでいるつもりでいる。

  そういう線引きが出来ているから、夫は私のワガママに付き合ってくれているのかもしれない。

 彼との生活の中で、私はたくさんの趣味を見つけた。音楽、読書、映画、歴史、ドラマ……。

  もっぱら彼は教養人なので、私も憧れて一緒の物を学んだ。

 彼と話が出来ると、「私だけが彼と話せるのだ」という優越感がある。彼を理解してあげられるのも、私だけなのだ。実は、彼は変な人なのだということも、私だけが知っている。

 朝簡単な朝食を作っていってくれたから、私はそれを食べた後、いつも通りコーヒーを飲み、「今日は何をしようか」と考え始めた。






 しばらく悩んだ後、ゆっくり先日買った直木賞を受賞した小説でも読もうかと本棚を覗いた。

 たくさんの本がある。

 私は、特別本を読むのが好きという訳ではないけれど、美しい日本語が大好きで、気に入った本を何度も読むのが好きだ。

 たくさん読んでも話の内容を覚えていられないから、多読が正義だとは思わない。

 他にもたくさん楽しめるものがあるから、小説は本当に素晴らしいものだけ読んだら十分だ。

 今日は、何を読もうか。

 ———羊と鋼の森。

 今日は、これを読もう。



『森の匂いがした。』という一節から始まるこの小説は、日本語の美しさを初めて私に教えてくれた美しい小説だ。

 ピアノの調律師が主人公という少し変わった小説なのだが、まるで実際に木々の優しい香りが秋の冷たい風に乗せられて香って来る感覚になる。

ピアノが奏でる繊細で美しい音色が聞こえてきそうにもなる。

素敵な本を読む、穏やかなスタート。良い日だ。


私の結婚生活が揺らぎ始めたのは彼が興味を持って始めたファッションがきっかけだった。

珍しく「かっこよくなりたい」と言い出して、「一緒に服を買いに行こう」と連れ出された。

結婚生活があまりにも落ち着いたものだったから、そろそろ新しい刺激を入れたいとのこと。

「ずっと好きでいて欲しいからさ。夫婦になっても、新しい刺激は大事だと思う」と彼は言い出した。

どうだ、えっへんという顔をしている。

そうだね、と言って私も今までやってこなかった新しいファッションに挑戦して服を新調した。


 問題だったのは、後日彼が合わせて買ってきた香水だった。
「これオススメされたんだよね」と言って、香水をつけて帰ってきたのだ。




 たまに、街中を歩いていると急に振り返ることがある。

 昔好きだったけれど、報われなかった人が良く付けていた香水の匂いがするときがあるのだ。

 付き合った人達は、それなりの理由があって別れているから、未練なんてない。

 でも、唯一付き合えなかったあの人の匂いがすると、本当に苦しくなる。



 人は過ぎ去った過去を美化する生き物だ。

 だから、時が経つにつれて彼への思いが淡く強いものになっていく。

「遠く離れたものは美しく見えてしまうから、汚く見えるぐらいがちょうどいい」

そうは言っても、人は遠くの美しいものに見とれて、近くのものが見えなくなる生き物だ。






優雅な休日。
私は彼の帰りを待っている。

寂しい。
早く帰ってきて欲しい。

早く帰ってきて、いつも通り私を抱きしめて欲しい。一緒にご飯を食べて、夜散歩に行って、アイスをコンビニで買って食べたい。沢山話したい。

ずっと、私のそばに居て欲しい。
ひとりに、しないで。




午後、結婚式への招待状が届いた。
私は、彼のことが好きだ。

14時30分。
挙式が始まった。

今から準備して直ぐに出れば、披露宴には間に合う。そこまで綺麗な化粧は出来ないかもしれないけれど、何とかなる。

それに、これは彼の結婚式なのだから、私が目立つ必要は無い。だから、今から行けば間に合う。

 一人で読みかけの本を閉じて、私は家を出た。














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