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遠慮は本当に美徳なのか?

なぜか過度に遠慮してしまうことってありませんか?

本当はこうしたいと思っているのに、つい周りに合わせてしまうことです。

たとえば、食後のドリンクはアイスコーヒーにしようかなって思っていたのに、みんなが立て続けにホットコーヒーって言ったので、つい流されて「僕も」って言ってしまう。

飲み会で大皿に残っている最後の一個が食べたいのに取れない。しかも、お互い遠慮のし合いみたいなときもありますよね。目の前の人がこっちをチラチラ見てる。「それ食べていいですよ」って言ってくれるのを期待しているかのような目で(笑)

こんなことって、あなたにも心当たりがあるのではないでしょうか?

どうでもいいといえばどうでもいいけれど、やっぱりアイスコーヒーにすればよかったなとか、最後の一個食べちゃえばよかったなとか、変な後悔が残ります。しかも、妙に自分が惨めに感じます。

僕が泣く泣く我慢している最後の一個を、隣の人が遠慮しないで普通に取ったりします。食べ物の恨みは恐ろしいもので、その人に対して怒りを感じたりします。だったら先に食えよって感じですよね(笑)。

これって一体何なんでしょうね。

どこか遠慮することを美徳だと思っているのかもしれません。では、遠慮は本当に美徳なのでしょうか。

アイスコーヒーを飲みたかったのを周りに合わせてホットコーヒーにして後悔したり、最後の一個を遠慮してそのまま残したらもったいないし、誰かに食べられちゃったら怒りを感じるし、これのどこが美徳なんでしょうか(笑)。

ちなみに遠慮を否定しているわけではないんです。遠慮をすることで人間関係が円滑になることもいっぱいあります。相手から謙虚で思いやりがある人と思われることもあります。

ただ、度が過ぎてしまうと、自己犠牲が強くなってしまったり、自分の意見を伝えることができなくなってしまったりします。「アイスコーヒーが飲みたい」すら言えなくなってしまいます(笑)。

ちなみに遠慮の度が過ぎているかどうかの見極めですが、遠慮したときに後悔したり、怒りが出てきたりするときは度が過ぎていると思います。

アイスコーヒーでもホットコーヒーでもいいか、別に誰かに食べられちゃってもいいか、そうやって心から思えるときは大丈夫です。

遠慮は美徳だって考えはすばらしいと思いますが、自分の本音を言いくるめてしまわないようにしましょう。



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