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ふと、岡倉天心の「知的セクシーな言葉」に酔いしれたくなった夜

春のこの時期、「花」を見て思い出すのは

知的セクシーの代表格である、岡倉天心の「茶の本」にある一説だ。

春の東雲(しののめ)のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君らは彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。人間について見れば、花を鑑賞することはどうも恋愛の詩と時を同じくして起こっているようである。無意識のゆえに麗しく、沈黙のために芳しい花の姿ではなくて、どこに処女(おとめ)の心の解ける姿を想像することができよう。原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼をこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。
「茶の本」第六章 花の冒頭文より

たまらない、たまらないよ、この言葉のセンス。

知性とセクシーの同居とは、まさにこの事である。

最高。何度読んでも、最高。

これほどに美しくて、優しくて、ロマンチックで、知性溢れる文章を見たことがあるだろうか。

岡倉天心と聞いて、まず、あなたが想像するのは、
日本近代美術の発展や、東京藝術大学や、日本美術の思想・価値観の世界への発信など。そんなイメージだと思う。

普段の彼の文章って、理路整然としていて、なんだか小難しい。
知性はあっても、セクシーは感じられないはずだ。

しかし、この「花」の冒頭文は、それらの文章とは違う。
「茶の本」の中で、唯一この第六章だけは、彼の内に秘める、情熱的でロマンチックで、愛に生きる感じが、溢れてしまっている。

例えば、こことか。

小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君らは彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。

それに、こことか!

原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。

なんて、秀悦な表現なのでしょう。
天心の他の文章には見られない、醸し出される知性とセクシー。

きっと、あなたにも届いていると思います。


彼はピュアなままに、愛を言葉で表現することができる天性の詩人。

彼は50歳のとき、生涯最後の恋をする。

お相手は、インドに住むバネルジー夫人と言う女性。
2人は文通を重ねて、美しい言葉で愛を交わす。

これは、インドから日本に戻り、離れ離れになった切なさを言葉にした天心の手紙の一節。

私は、海辺に座って、一日中、海が逆巻き、波立つのを眺めています。いつか海霧の中からあなたが立ちあらわれてこないかと思いながら。
いつか、あなたは、もっと東の方においでになりませんか――中国へ──マレー海峡へ──ビルマへ。ラングーンなどカルカッタから石を放り投げるほどの距離にすぎないではありませんか。空しい、空しい夢! でも、なんと甘美な夢か。

50歳の、日本を代表する思想家が、ピュアに恋している感じ。

そのギャップ、たまりません。

実は、2人の手紙のやり取りが、一冊の本に纏まっているのだけど、
それはもう、天心の、ピュアすぎる真っ直ぐの愛が表現されており、恥ずかしくなること間違いなしレベルの、超絶たまらない文章なのだ。(表現が稚拙すぎて申し訳ないけど、もう、そんな感じなのだ)

岡倉天心のラブレターが気になる!と言う超マニアック方がもしいらっしゃたら、こちらの本をぜひお買い求めください↓

岡倉天心は、もう、本当に最高なんです。

あ、、、そう言えば。

以前も、このテーマでブログ書いたことがあったっけ。

2年前も、おんなじ事言って、天心に興奮してた自分がいてウケる。

当時とまったく同じ気持ちだな。
何ら変わってないや、わたし。

本当に好きなものって、歳重ねても変わらないものなのかもね。

やっぱり、岡倉天心の言葉のセンス、最高だよ。

ただ、ただ、それを言いたかった夜。

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