【読書感想文】ブルーバックス『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』三田一郎

科学はどこまで進んでいるのか。インフレーション理論が証明されれば、それで本当に「宇宙のはじまりの次の瞬間」がわかるのだろうか。

自分が思っているのは、「私たちがはじまりの次の瞬間だと思っているそのごく短い時間が、実はそれほど短くなくて、その中で人間にとっては永遠とも呼べるような長い時間を必要とすることが起こっているのではないか」ということだ。

つまり、人はまた新たな無知を知るだろうという予想である。

科学と信仰は決して対立するものではない。
種々の事件から対立するものであるという印象が与えられていることは残念であり、そこを一つ一つ丁寧に説明をしていくことが必要だ。

誤解の原因になる発端はルターの宗教改革と近い時期からあるのだが、つまりその頃の人々の誤った信仰に対する態度がそのような対立を生んでいるのであり、福音を説くよりも先にこういった部分を話したほうが結果的に福音につながる気がする。

むしろこのようなことから対立のイメージをもつのは、進歩した科学を理解しようとせずに、理解しやすいところで立ち止まっている人間の怠惰なのではないだろうか。

かつての自分は、「何でも数学で表せるから、科学を学べばそれでいい。それで世界がわかる。」と思っていた。あまりにも無知だった。
今は逆に、わからないことがたくさんあるということを知ったし、美しくシンプルな数式で表せるのは、そこに偶然ではないものがあると考えるようになった。

牧師ウィリアム・ヘルマンスとアインシュタインの対話は、この本の見どころの一つだ。 「何でも知るだけの力はあるがいまは何もわかっていないと悟ったとき、自分が無限の知恵の海岸の一粒の砂にすぎないと思ったとき、それが宗教者になったときだ。その意味で、私は熱心な修道士の一人だといえる。」
ニュートンのプリンキピアを思い起こさずにはいられない。アインシュタインもこのようなことを語っていた。

高校生の時点で今のように無知を知っていれば、おそらく進む道は理系学部だっただろう。
マクスウェルのいう「不規則に見える自然のなかで、『合法性と一貫性』をもつ法則を発見する」ことが神の意思を見ることになるというのには駆り立てられるものがある。

この世で絶対のものは光だけだと発見されたことによって、果たして神の居場所は狭まったのだろうか。「偏在する神」はむしろその居場所を広げたように感じている。

この地上にあるものも天体も、運動方程式と万有引力があてはまり説明することができる。
これをもってやはり、創造された天地の天と地というのは、空と地上ということではないと考える。月も太陽も「地」に属し、宇宙全体が「地」だと考えたほうがすっきりする。

虚時間宇宙、反粒子、反宇宙と、何が正しいのかさっぱりわからないのだけれども、その人間の及ばないところに自分は「天」を見る。
「不死や救済の教義に関して正しいのだから、ほかのすべての事柄についても正しいに違いないと考えることは、聖書がなぜわれわれに与えられたのかを正しく理解していない人が陥る誤解である」ということを考えられる聖職者が多くいたらそれもまた違ったのではないだろうか。

もしこれが正しければ、ある事柄について優れていて権威をもつ人は、すべてにおいて優れていることになる。そして、それはありえないというのは、誰でも簡単にわかる。人間は人間であり、不完全な存在である。
それでも、このような誤解はおきてしまう。

教会や宗教は人間のものだから間違う。その人間が神に結び付けられてしまうのが、さらなる誤りとなるのだろう。

ルメートルの自身の業績にこだわらない姿勢はすごいと思う。教会に利用されたくないと考えて、ビッグバン理論の提唱者としても表に出なかったというところは、想いとしては共感できる。
このような姿勢の人が他にも多くいればまた違ったのだろうか。

2018.12.25

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