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映画日記〜ドライブ・マイ・カー〜

深夜2時出発。明け方の海を探すが海水浴場は何処も駐車場が閉鎖。路駐をしようものなら付近の住人が出てきて車のナンバー、私達の顔を交互に見つめる。繰り返し立てかけられている駐車禁止看板に追われるよう海沿いを走り、また同じ模様の看板に追い立てられ次の海岸を探す。繰り返すうちに夜はすっかり明け、フィルム写真の色合いの空、メラメラ光る海以外何も無い完璧な海岸を見つける。昨日まで書いた海の話とあまりに目の前の海が遠く、世界は沢山の小さな粒でできている。幼い私の脳のみだと知り、原稿を没。そう。ずっと繰り返し。物語は何時も物語になる前に死ぬ。何時か庭園美術館で見た小林正人の絵画に添えられた言葉を思い出す。「酷い絵、美しい絵。これらはみな絵の具の星の家族」流産した物語も。そう。空に満ちる星をかつて「言葉になることのなかった想い達の死骸」と言ったのは君、私。どちらにせよ生きることは夜空に星を1つ1つ増やすこととのみ聞くと幻想的に聞こえる。いい。私にとってそのことが本当に悲しいことの1つ。

昼前に東京に戻る。運転手とパンを食べ私は帰宅。夕方から映画を見る為に待ち合わせをしていたのにも関わらず上映開始10分前に起床。映画を諦め白湯を飲む。過ぎた時間が戻らないことは放った言葉がもう喉の奥には帰ってくれないことと基本的には同じ原理。私の友達は心底分かっている人が多い。だからみんな表面上のお喋りとは関係のない場所、心の奥に寡黙さを持つ。

翌日、見逃したのと同じ場所・同じ時間の映画を見る。「ドライブ・マイ・カー」ファーストカットから辿る全カットが静謐。情報、無言、言葉、無音の対照が数㎜単位で完璧な線引き。音の持つ沈黙、映像の持つ沈黙がそれぞれの役割を丁寧にこなし主人公が自身の痛みに向き合うまでの過程を素晴らしく正確に描き出す。「本当に上手い運転は乗車しているということを忘れる」ということが語られる場面。3時間あるこの映画は映画であることを忘れさせる種類の真摯な上質さ。椅子、手前のフックにぶら下げた鞄、眼鏡レンズも全てが消える。

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