夏フェス_

夏フェスで理解するスクランブル交差点(ハロウィン、サッカー日本代表戦)

『夏フェス革命 音楽が変わる、社会が変わる』(blueprint)の内容をベースに、夏フェスをモデルケースとして2010年代のマーケティングのあり方について考える連載企画です。今回は第6回目。

ちなみにこんな構成を考えていますが、変更するかもしれません。(ちょっと順番変えました。あと⑦⑧は一緒にやるかも)

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①提供価値の拡張
夏フェス=コンテンツ×エクスペリエンス×コミュニケーション

②協奏のサイクル 
夏フェスは「参加者が主役」、すなわち「ユーザーは事業のパートナー」

③「周辺」のユーザーを取り込む 
“濃い音楽ファン以外”にも支持される夏フェス

④SNS時代の基本原理 その1
夏フェスは最強の「自己演出コンテンツ」である

⑤「モテ」はビジネスをドライブさせる
「カップルでフェスに来てる奴らは○ね!」

⑥SNS時代の基本原理 その2←今回これ
夏フェスで理解するスクランブル交差点(ハロウィン、サッカー日本代表戦)

⑦時代に合わせた事業ドメインのスライド
ロッキング・オン社と渋谷陽一氏の何がすごいのか?

⑧ユーザーを育成する
「フジロック型」ビジネスと「ロッキン型」ビジネス

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今回取り上げるのは、たびたび紹介しておりますこちらの年表の2012年頃からの出来事。スマホが浸透し、人々の行動パターンに「スマホで写真を撮る」「それをSNSにシェアする」「その内容への<評価>が可視化される」というものが定着し始めたタイミングです。

このくらいの時期から、渋谷のスクランブル交差点がハロウィンやサッカー日本代表戦における「聖地」になっていった印象があります。

そして、このスクランブル交差点で行われるバカ騒ぎと、ロックフェスで楽しそうにしている集団の行動原理の根幹には共通している部分が大きいです。

詳細はこの後ろを読んでいただきたいのですが、「観客と演者を行き来する仕組みの構築」「ドレスコードによる一体感の醸成」といったあたりは、様々なビジネスを「現代的なもの」にする際の一つのヒントになるのではないでしょうか。

>>以下『夏フェス革命 音楽が変わる、社会が変わる』より引用/編集

ハロウィン、日本代表戦、フェス

自分をよく見せるためのSNSネタとしてのフェス。それを下支えするスマートフォンというインフラ。カップルで、友達同士でという「誰かと一緒に」的な価値観。そんな流れが固まってきたのと同じようなタイミングで、日本に新たな「お祭り」が誕生した。それがハロウィンである。

もちろん行事としては海外を中心に昔からあったものであり、日本でも各地のテーマパークで以前からハロウィンイベントは行われていた。それが2011年~2012年あたりから、突如として「街中での仮装」という形で市中にはみ出してきた。その証拠に、「Googleトレンド」で「ハ ロウィン コスプレ」というキーワードを調べると、2012年にそれまでの推移とは異なる大 幅な伸びを示している(2011年 10 月→2012年 10 月の伸びが約 2.5 倍、以降の年の伸びは 約2倍、約 1.1 倍、約 1.2 倍、約 1.1 倍)。

 そんな「お祭り」のシンボリックな場所が、渋谷のスクランブル交差点である。

ここ数年、ハロウィン当日となる 10 月 31 日の1週間ほど前からあのエリアは不思議な空間になる。ナース、ゾンビ、スーパーマリオ、『魔女の宅急便』のキキ、もしくはもっと凝ったコスプレまで、何かしら仮装をした人たちが徐々に「発生」し、当日にはそういった人々があの一帯を埋め尽くす。筆者もここ数年見物に行っているが、会社帰りのビジネスルックでいる方が恥ずかしいくらいの雰囲気である。

なぜ2012年ごろからこういうことが起こったか、現状でまとまった見解というものは存在していないようである。震災後の自粛ムードを経ての反動、ディズニーランドをはじめとするテーマパークからの影響、外国人が多いエリアのタウンイベントからの波及など、レイヤーの異なる流れがたまたまこの年にリンクし、メディアがそういった動きを持ち上げたことで、多くの人に普及していった、というのが概観だと思われる。

ハロウィンに関する研究がまだそこまで進んでいない状況において、スクランブル交差点とハロウィンの関係について興味深い指摘をしているのが明治大学情報コミュニケーション学部専任講師の南後由和氏である。南後氏はSYNODOSに掲載された「渋谷のハロウィンは何の夢を見たか―スクランブル交差点から考える」において、スクランブル交差点の特性を「すり鉢状にくぼんだ所に位置している」「つまり、物理的な空間としてアリーナのようになっている」「スクランブル交差点を横断している人は見られる演者に、 QFRONTやマークシティにいる人たちが観客になる」と定義したうえで、ハロウィンについてこのように述べる。

さきほどお話ししたように、テン年代に入り、スマートフォンとSNSが急速に普及しました。このメディア環境の変化は、人々の都市へのイメージや経験に影響を与えています。
たとえば、誰かがスマートフォンで撮影した写真をSNSにアップロードし、それを見た人が渋谷に来る……といった流れが起きています。
ハロウィンの日に渋谷へ行くと、みんな仮装・コスプレしていますよね。人々は演者として演じているし、観客として仮装・コスプレした人たちを見てもいるわけです。しかも仮装・コスプレした人は、たんに同じ時間と空間を共有する、 80 年代的な「見る―見られる」の関係にとどまっているわけではありません。多くの人は写真を撮影し、SNSでアップすることを目的にしています。あちこちで写真を撮ってもいいですか、というコミュニケーションが発生しています。

スクランブル交差点のハロウィンに仮装して参加する人々は、「演者」でもあり「観客」でもある。何を演じているかというと、「ハロウィンというお祭りにおいてコスチュームを着て騒ぐ人たち」である。ここにはもちろん本来の宗教的な意味合いなど関係ない(ハロウィンの本当の由来を知っている人はほとんどいないのではないだろうか)。そこで演じた結果がSNSに載り、「RT」や「いいね!」といったSNS上の評価に換算される。

この構造は、フェス参加者がまとう「参加者が主役」というロジックと酷似している。彼らも文字通りの「観客」であると同時に、「フェスで仲間と楽しむ人たち」を演じる「演者」でもある。ロック・イン・ジャパンに顕著な「お揃いのフェスTシャツ」というドレスコードの存在も重なっている。

ハロウィンと同様の「スクランブル交差点でのお祭り」で思い出されるのが、サッカーの日本代表戦である。この行動様式が生まれたのはおそらく2002年の日韓ワールドカップのころからだと思うが、本格的に定着したのは2010年の南アフリカワールドカップあたりからではないだろうか。日本代表がグループリーグ突破を決めたデンマーク戦の直後には早朝から「騒ぎたい人たち」が集合し、お祭り騒ぎを繰り広げた。この状況を見てお笑い芸人のバカリズムが発した「日本、日本って叫びながら日本を汚したり壊したりするなよな。超やだ。」というツイートが個人的には非常に印象深い。

それから4年後の2014年6月 15 日、ブラジルワールドカップでの日本代表の初戦としてコートジボワール戦が開催された。このとき、「試合前から青い服を着て渋谷近辺を歩いている人がいた」という旨を、そのとき普通に街に出ていたサッカーに関与のない友人から聞いた。そういった人たちにとっては、この試合の結果(1点リードから逆転されて敗北というショッキングな試合だった)など全く関係なかったようである。

日本代表は現地時間 14 日、レシフェのアレナ・ペルナンブーコでのW杯初戦でコートジボ ワールと対戦し1 - 2で逆転負けを喫した。日本では、 15 日(日)の午前 10 時のキックオフだっただけに、多くの人々がテレビ中継を観戦。日本中が落胆し、静まり返った…はずだった。
しかし、もはや恒例となっている渋谷のスクランブル交差点には、逆転負けにも関わらず多くの人々がなだれ込み、なぜかハイタッチをしている。この状況に全く関係のない仕事中の人や買い物に訪れた女性なども巻き込まれ、警察は多数の出動を余儀なくされた。

試合結果は関係ない、青いユニフォームというドレスコード。これも、「本来のコンテンツ(フェス=音楽、日本代表戦=サッカー)そのものとは関係のないところで、お揃いの服を着て騒ぐのが楽しい」というフェスと同じ構造である(もっとも、2018年のロシアワールドカップの出場を決めたオーストラリア戦後のスクランブル交差点を現地で観察した感じでは、青いユニフォームというドレスコードはなくなりつつある。また、「テレビカメラが煽るから過剰に盛り上がる」というような層が騒ぎの発端となっており、その中身はだいぶ変容している印象を受ける)。

ハロウィンと日本代表戦という、スクランブル交差点で繰り広げられる2つの「お祭り」。ともに2010年代初頭から顕在化した動きについて紹介したが、これらのイベントを筆頭に、日本では「観客と演者を行き来しながら楽しむ」「同じような格好をして、対象となるコンテンツを単なるきっかけとして消費しながらお祭り騒ぎをする」「その様子をSNSにアップする」というような行動が一般的となっていった。最近ではクリスマス近辺の街中にもコスプレをした人を見かけるようになり、制服を着てディズニーランドやディズニーシーに行く(現役の高校生でなくても過去の制服を着るなどする)「制服ディズニー」という楽しみ方も定着した。

ここまで(注:この手前の章まで、の意)述べてきたとおり、こういった動きはフェスにおいて一足先に顕在化していた構造である。フェスで起こっていたことが世の中に影響を与えた部分もあれば、こういった傾向がフェス側にフィードバックされるという流れもあるだろう。いずれにせよ、音楽そのものが後退していくという結果は同じである。

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次回は最終回。世間の「夏フェス」のイメージを作り上げているフジロックフェスティバルとロックインジャパンを比較しつつ、後者を作り上げたロッキング・オンという会社のあり方について掘り下げたいと思います。

※詳細は拙著にて



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