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【記念日掌編】いつもの席

自由席のはずなのに、いつもこの席だけ空いている。
まるで、彼のことを待っているかのように。
誰もそこには座ろうとしない。視界に入っていないかのように、みんなその席をスルーしていく。
スタジアムに入った瞬間から、彼は自然とその席に引き寄せられる。
ある日、キョロキョロと空席を探している男が目に入った。スタジアムはほぼ満席。だが、彼がいつも座る席の前で、その男は立ち止まる。空いているはずのその席を一瞬見たかと思ったら、まるで何もなかったかのように、すぐ隣の席に座る。なんだか奇妙だ。彼のために、この席がずっと待っているみたいだった。
彼はいつもの席に腰を下ろした。サッカーが始まるまで、特に感じるものはない。ただ、ゲームが始まると、全身に活力が戻ってくる。普段の彼は気力もなく、ただ日々をこなしているだけだ。サッカーのない生活なんて、死んでいるようなものだ。それでもいい、そう彼は自分に言い聞かせる。生気を吸い取られたような生活を送りながらも、スタジアムに来れば、まるで彼は違う人間のように息を吹き返す。
シーズンオフの間、彼はただ生きているだけだ。仕事をして、食事をして、寝る。それだけの毎日。だが、サッカーの季節がやって来ると、彼はここに戻る。そしていつも同じ席に座り、サッカーに熱狂する。
ある日、マッチングアプリで出会った女と、やり取りをしていた。彼女との会話は軽く、無駄に深入りしない。それでいて、適度な距離感が心地よかった。
「今日はサッカー観戦に行きました」
そんなメッセージに、彼女が返事を送ってきた。
「いつも同じ画角ですね」
確かに、彼がスタジアムから送る写真はいつも同じ角度、同じ風景だ。試合の様子が映っているが、いつも同じ席からの眺めだった。
「自由席なのに、なんでいつも同じ席なんですか?」
「たまたま空いててね」
彼は軽く返事をする。だが、本当はそれがただの「たまたま」ではないことに、少しずつ気づき始めていた。
彼女は興味を持ったらしく、「連れてってほしい」と言ってきた。そんなにサッカーに興味があるわけではなさそうだったけれど、彼は了承した。そして彼女を連れてスタジアムに向かった。
試合の日、いつもの席に行くと、その隣の席も空いていた。まるで彼たちのために、誰かが席を確保してくれたかのように。
「すごいね、こんなに混んでるのに、二席も空いてるなんて」と彼女が驚いたように言ったが、彼は特に気にしなかった。
何度か一緒にスタジアムに行くうちに、彼女も同じことに気づき始めた。一人で行った日も、いつもの席が空いていた。スタジアムは満席だったが、彼のいつもの席とその隣だけが空いている。
ある日、彼女が一人で試合を観に行くことになった。その日、彼女はふと、いつもの二席がまた空いていることに気づいた。
「たまたま空いてるだけか」と彼女はそう思い、彼の隣の席に座った。しかし、試合が進むにつれ、彼女は何かがおかしいことに気づいた。
隣の席はずっと空いている。だが、まるで誰かがそこに座っているかのように、妙な存在感を感じる。男が座っているはずもないのに、その席には熱気が漂い、まるで彼が試合に熱中しているかのような錯覚を覚える。
そして彼女は、ふと思った。
なぜ、今日は一人なのに、二席空いているのだろう? なぜ私は、この席を選んだのだろう?
彼のいつもの席に座っても良かったはずなのに、私はあえて隣の席に座った。彼がそこにいるから――そう、無意識に感じていたのだ。
彼はここにいる。サッカーを愛する彼の生き霊が、ずっとこの席に座り続けているのだ。サッカー以外に何も興味を持たない彼の魂が、この場所で永遠にスタジアムを見つめている。
スタジアムを出た後も、彼の姿が頭から離れなかった。彼がいないはずの席に感じた、あの圧倒的な存在感。帰り道、私はぼんやりとスマホを手に取った。LINEの通知が一つ、彼からだった。
無言のメッセージ。
そこには、ただ一枚の写真が添付されていた。いつもの画角。彼がいつも送ってくる、あの席からのスタジアムの光景。その写真を見た瞬間、胸がざわついた。
彼が今日、スタジアムに来ていないことを、私は知っている。

【桃井】

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