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【記念日掌編】空白

 昨日から今日になると、人は生まれ変わる。日を跨いで、朝日を浴びて、そして昨日の自分から脱皮して目覚める。成長も進歩もしないけれど、確かに新しい自分になっているのだ。三十歳になって、ようやくそれが分かるようになってきた。
 一枚めくったメモ帳のようにまた一日は始まっていく。けれどもメモ帳と違うのは、白紙ではなく、今までの積み重ねが書き連ねてある状態からスタートするということだ。
 だから書ける部分は限られていて、自由は少ない。けれどもその環境にいる限り、空白は変わらないのだ。
 私に空白は少ない。
 これまでの経歴はグチャグチャもいいところで、ここに入ってからも何かと出来事があり、異動だのなんだのを繰り返してきた。ストレートで何の迷いも無い人生を送ってきた人間が整然と並べられた文章だとしたら、私は走り書きされたメモのような文字が、雑然と並べられている状態だと言える。とにかく自由は無く、少しの空きに何とか書き足していく、そんな人生を送っている。
 そんな事を考えながらワードに文字を打ち込んでいく。今日中に仕上げなければいけない引き継ぎ資料の作成が終わらず、苦戦していた。午前中から始めたにも関わらず、午後も半ばを過ぎようかという時間になってもこのざまというのは、見積もりが甘かったからに他ならない。幸いにも今日中に上げなければいけない仕事は無く、これに集中できる状態ではあるのだが、やはり早めに終わらせたい。私は気持ち早めにタイピングをするのだった。
 結局終わったのは午後五時を少し過ぎた頃だった。定時一時間前に終わらせたのは、まあ優秀だと自分を褒める。明日が期限の仕事も進めてしまおうと、手を付け始めたタイミングで背中越しに名前を呼ばれた。振り返ると同僚の西澤がいつもどおりの仏頂面で突っ立っていた。今日の夜は空いてるかと、かわいい顔が台無しの仏頂面で聞いてきたので、眉間に皺を寄せ、小難しい事を考えているような表情で空いていると返してやった。西澤は、それなら七時にいつもの店でと言って去っていった。深刻な表情を浮かべたままの私がその場に取り残されて、なんかおかしくなって一人笑った。

「結婚するらしいよ、大島さん」

 西澤がアサヒスーパードライを、私がメガ角ハイボールを注文し、乾杯を済ませてからの開口一番、その言葉が出てきた。驚きはなかった。だって大島さんに前から愛しい彼ピッピがいるのは飲み会とかで聞いていたし、同棲もしているだろうなと勝手に思っていた。

「まぁ、いい歳だもん。私の二つ下でしょう」

 そう言ってメガ角ハイボールを呷るように飲む私。西澤は相変わらずの無表情で頬杖を突きながら、先ほど店員が持ってきた鳥の塩唐揚げを一個つまんでいた。

「中西は結婚しないの?」

 塩唐揚げを食べながら興味無さげに聞く西澤。唐揚げの皿の隣に置かれている刺身の盛り合わせから鮪の赤身を箸で取り、小皿に入っている醤油に少しだけ浸して食べる。少し干からびている気がしたが、気にせず咀嚼し、飲みこむ。そして西澤を箸で指しながら、相手がいないよと答える。そういえばそうだったと言いながら、西澤は店員を呼び止めて出汁巻き卵ともつ煮込みを注文していた。

「そもそも結婚なんてしたら空白が埋まっちゃうよ」

「空白って何」

 ごもっともな質問が飛んできたので、私は丁寧に答えてやる。空白とはその人の自由の度合いで、生まれ育った環境や経歴によって人それぞれ違う。例えば私はグチャグチャの中で生きてきて、経歴もそんな感じだから、隙間程度の空白しかない、イコール、自由はあまりない。多分西澤は四角四面に書き綴られていて、正方形の綺麗な余白があるはずだ。イコール、自由がまだある。結婚なんてした日には、その余白を結婚・家庭で埋め尽くされて、一気に今ある余白なんて無くなると思う。と、言う事を西澤に説明すると、ふぅーんと言って、やはり興味無さげにして、ビールを啜っていた。

「だから私はギリギリまで、空白が無くなりかけるまで遊びたいんだ」

 出汁巻き卵ともつ煮込みが運ばれてきた。それらに早速手を付ける西澤と私。西澤は出汁巻き卵を一切れ、私は自分用に分けたもつ煮。それぞれ食べたい物を食べ始める。このマイペースさが心地良過ぎて、西澤との飲み会が止められない。私に彼氏がいない一因は、少なくともここにある。

「けどさ、私たちもう三十歳じゃん。その空白の使い道、限られるようになってこない?」

 その一言を聞いて、凄く心が痛くなった。西澤は無表情でものすごい急所を突いてきた。秘孔だ。北斗神拳だ。私はうーと唸りながらハイボールに口をつける。酒を飲んで少しでも回復をしようとした。けれど西澤は追撃の手を緩めない。

「マジで結婚のリミット迫ってるよ、出会いが無いのはヤバいって」

「じゃあどうしたらいいって言うんだよ」

 申し訳程度に逆切れしてみると、西澤は相変わらずの無表情で、街コンいくとか合コン行くとか、少しでも頑張らなきゃダメだよと言ってきたので、私はうるせえ仏頂面と言ってまた酒を飲んだ。その瞬間、西澤はにっこりと笑って見せた。今まで見たことの無いような表情の変化に、思わず私はハイボールを吹き出しむせた。

「こんな感じで私も努力してるんだから、中西も頑張らなきゃ」

 返答しようとするのだが、気管に入った酒が中々取れず、咳込み続けていると、続けて西澤は話し出した。

「中西は人生の空白は埋めるもんじゃないと思ってるみたいだけど、違うよ、空白を埋めて初めて次に進めるんだよ」

 咳込み続けて涙が出てきた私は、ハイボールを一飲みして、少し落ち着かせる。そして西澤にアンサーをする。

「そんな事はなあ、分かってるよ、ただそう思わないとやってらんなかったんだよ」

 また涙が出てきた。この涙は先ほどのモノとはまた違うと自分でも分かる。

「じゃあ頑張ろうよ、今日から始めてこう」

 そう言って肩を叩いてくる西澤の手が暖かくて、私はまた泣いた。

 空白を埋める。
 それは余暇では無く人生の余白だった。私はグチャグチャで、余白は少ない。そこに当てはまる男性を見つけなければいけない。西澤のように四角四面に当てはまる男性を見つけるよりもよっぽど難しい。けれどもやらなければならない。このまま死ぬまで空白を埋める事無く過ごすのは、私は嫌だ。
 今日がら始める男性探し。いつ終わるか分からない探し物。延々と見つけるまで続く道を、西澤と一緒に歩いていく。いや、その西澤もいついなくなるか分からない訳で……。
 また目が覚める。日を浴びる。昨日の自分から脱皮して、今日の自分が生まれる。空白を見つめたまま、ジッと手を見る。

【伊達】

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