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コロナで没頭していた小学校教員の5カ月間

今年4月、8年間努めていた学校から異動した。

 

新しい学校に赴任するも、コロナの休校で、子供たちと会えない日が2ヶ月が過ぎ、6月の学校再開でようやく子供たちに会えた。

前任校とはカラーの違う子供たち、子供たちの様子を見取りながら、毎日必死に授業を行った。

「こういう言葉で教えたらわかりやすいかな?」

「この展開で授業を組み立てよう。」

試行錯誤しながら、がんばった。

子供たちのテストの点数が伸びたり、

「学校が楽しい」という声を聞いたりして嬉しくなった。

でも、なんだか自分の中で腑に落ちていない感覚があった。

なにが腑に落ちていないのか、自分にはわからない。

とある休日、

友人とオンラインで対話をすることにした。 

言葉を交わす中で気付いたことがあった。

今、自分は目の前の子供に必死になっていて、

目先のテストの点数や、目先の楽しさを優先していた。

前任校では、自分は10年後の子供を姿を描きながら、

「どういう教育をしたら、将来のプラスになるか」を考えていた。

つまり、短期の目で教育しようとする自分と、長期の目で教育しようとする自分がいることが見えてきた。

短期の目で教育しようとする自分は、異動してから必死になった結果、最近生まれてきた自分だ。

でも、そもそも自分は、長期の目で教育をしたいという思いがあるようだ。

それは、友人からの言葉で気付かされた。

 

「長期の目で語っているときのほうが、楽しそう。」

 

これからは、長期の目を持ちつつ、

最近生まれた短期の目の自分も大切にして、

チューニングしながら、自分の中でも納得できるような

教育をしていけるような気がする。

事実、この友人との対話を境に、気持ちが軽くなった。

新しい場や、未経験の状況に身を置くと、適応しようと没頭する。


没頭する。 


まさに、「頭を没した」状態だった。


一度、頭を引っこ抜いて、他者と対話することで、

今の自分の現在地がはっきりすることがあるのだ、と思った。

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