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【中編】 レンズと具現の扉-⑤

9 責める女性と語る少年

 バルドは依存症者である。
 それだけは扉を抜けた後もずっと心中に残り、屋敷の男性の前でもその事実を打ち明ける事が出来なかった。

 情緒不安定なバルドを気遣い、男性は紅茶を淹れてくれた。
 とりあえずの小休止の最中、男性がバルドに幾つか質問をしてきた様に思えたが何一つとして答えることが出来ず、バルド自身、ずっと自分が何に関しての依存症者であるかを思い返した。

 すると奇妙な事に、自分の今までの生い立ち全てが曖昧である事に気づいた。
 生まれはここで、育ち方はこう。今までしていた仕事は、とりあえずこれはしていた。そのような具合で、自問に対する自答が、あまりに漠然と現実性に欠けるのであった。

「どうする。今日はもう、扉へ入るのを辞めるかい? 刑事さんもいない事だし」

 刑事? そういえば、前の世界で崩壊に巻き込まれてまだ帰ってきていない。そんな現実の、他愛ない問題が浮かんだものの、記憶は漠然と。平静を装っているが、情緒は不安定。何か、自分の記憶を取り戻す行動をとらないと落ち着かない。
 バルドは頭を左右に振り、衝動的に男性の話そっちのけで扉へ向かった。

「無理はしない方がいい」
 男性は、バルドの肩を掴み、止めようとした。

「いいから!」
 バルドは怒鳴って手を払い男性を力の籠った眼で見たが、驚く男性に、邪魔をした事に対する些細な怒りをぶつけるのは間違いだと気づき、聞こえるか聞こえないかの声で謝罪を述べ、扉の中へ入った。

 バルドの行動に驚いた男性は、本日ではありえない出来事が発生し、更に驚かされた。

「……どうして……今日は」
 振り返ると、部屋の扉の前に、あの女性が立っていたのだ。

「彼……あれと密接に関係していたみたいね」
 女性の言っている事が理解できない男性は彼女に近づいたが、間もなくして女性は、煙が風で流されて失せるように消えた。

 ◇◇◇

 今回は暗闇から小説の世界へ行けるものではなかった。

 バルドは目を閉じ、横たわっていることに気づいた。
 まるで疲労困憊で就寝した翌朝のように、疲れが取れない様に瞼が重く中々開かない状態。今現在の状態がまさにそれである。しかし、身体的な疲労は特になく、瞼だけ、目の周りだけがやたらと疲弊している体感を覚えた。

 どうやら小説の世界へ到達しているらしく、前の世界の様な暑さは無く、どちらかと言えば肌寒い。匂いも、湿り気を感じる。若干の黴臭さと、水気を帯びた場所。雨天時の森林や雑木林の中の、濡れた木々、土などの匂いの混ざった匂い。
 それ等に近い匂い。と、鼻から吸った空気から実感し頭の中で導き出した結論である。

 どうにか目の周りの筋肉を動かし、ゆっくりと瞼を開き、ようやく視界の映像を虚ろ眼でとらえた。

 外の天気は雨。それもよく降った後の小雨ほどである。
 場所は、木造家屋の縁側から入ってすぐの広間ではあるが、床に敷き詰めている物は、木の板ではなく、畳。井草独特の匂いは乏しく、瞼を閉じている時には気づかなかった、微かに御香の香りが混ざっている。

 壁沿いに設けられた神棚の様な、何かしらの神様かを箪笥ほどの囲いが設けられた部分に祀っている。
 恐らくバルドの知らない、どこかの民族の宗教の在り方だと思われた。

 畳敷きの広間の、縁側近くに一人の女性が正座して外を呆然と眺めている。
 疲れ切っている様に、背が少し丸く、表情からも脱力感が伺える。

 バルドが、あのぅ。と、声をかけるも、返事も振り向くこともせず、やはり外を眺めているだけである。どことなく人のように見えるが、別の存在の様な、説明に困る異質な雰囲気を漂わせている。

 小説の世界には三種類の人間がいる。前回の世界で少女が語ったこの世界の人間の摂理を思い出した。
 レンズの化身。
 その世界の風景として彩られる脇役。
 来訪者の求める何かに関する人間。

 返事も無く、話もしない。憶測で彼女は、この世界の風景として存在する人間であると断定した。そして部屋の印象、天気、雰囲気から、物語としても陰りのある雰囲気の、辛気臭い小説か、恐怖小説だと思えた。

 前者であれば安心できるが、後者なら一刻も早く元に戻りたい。しかし、今まで不気味で恐怖を抱いた場面はあった。なのに、純粋に襲われることも、小説の話に干渉する事も無く、そして出来ず、それ等の要素とは関係が無いとさえ、お墨付きまで頂いた。
 一見して不気味な女性も、バルドには害意を与えず、未だ目的の情報すら手にしていない。バルドとは無関係の存在だと思われた。

「だから言ったのよ。あの場所にはいかないでって」
 突然、何の前触れも無く女性が話し始めた。
「ヴェ   オは‼ ……あなたのせいで……」
 続いて聞き覚えの無い言葉を発したが、よく聞こえない。それが人名なのか、物の名なのか、はたまた場所の名なのか。
 バルドが声をかけても反応一つ示さなかった女性がなぜ話始めたのか。そしてなぜ責められているのか。微かに恐怖を抱きつつも、女性の話しに耳を傾けた。

「炭鉱夫の皆が言ってたじゃない、崩落の危険性があるって」

 どうやら、誰かに炭鉱現場の事を示唆していると思われた。そして、話の流れから、坑道の崩落事故か、それと同等の炭鉱事故に巻き込まれたと思われる。

 バルドも、トルノスに生まれ育った際、将来は炭鉱夫か漁師、工芸職人になるよう教わった時代がある。その中でも、炭鉱現場で働くことが特に嫌であった。理由としては、坑道の奥が暗くて、狭くて、怖いという理由で、幼少期には落盤事故に遭い亡くなった者達の悲痛に満ちた声が聞こえてくるとか、掘った所から骨が出てきたなど、根も葉もないが信憑性のある怪談話をよく聞かされた。

 漁師も魅力的ではあったが、嵐に遭い、遭難して亡くなった人の話を聞いてから、この職に就くのが嫌となり、結果として工芸品を扱う職人になる選択肢しか見当たらなかった。
 これを思い出して、一縷の安堵が伺えた。
 先ほどまで、自分の過去の生い立ちに関する記憶が曖昧で、恐怖していた筈が、こんな形で思い出されるとは思わなかったからである。

「貴方はいつもそう。一人で背負い込んで考えて、人に頼ろうとせず、ずんずんと先へ先へと進んでいく。それが魅力的と思えたのは若い時だけ。今じゃ、何が正解かが分かっていないから、突き進むだけ突き進んで、何が何やら分からないまま」

 話が繋がっているのか、それとも、過去を思い返している内に、女性が別の話に切り替えたのか、はっきりとはしないが、何故か聞き入ってしまう。
 そこに恐怖は無いが、不思議と女性の事が気になって仕方ない。
 それは好意ではなく、別の何かであった。

「ようやく憑き物が落ち始めたみたいだ」
 突如聞こえた声がそう言った。
 その声は女性の声ではない。なぜなら、女性が何かを話している時、何処からともなく、少年と思しき声が後方から聞こえたからだ。

 バルドが声に反応して振り返ると、辺り一面の景色がガラリと変化した。
 次の場面は小高い丘の上。晴天で、時折吹く風も心地よく、外気温も不快に思えないほどに温かである。
 丘から見えるのは、遠くに山々が聳え、バルドがいる地点から下った先に湖がある。

 草原程の地面を緑に染める程度の、背の低い草が一面を茂らせるほか、所々に花が咲いている。
 長閑な春の光景。まさにその場面はそう例えるとしっくりくる風景である。

「やあ、君が今回の来訪者だね」

 声の方を向くと、髪の短い、どこかの羊飼いの様な風体の少年が、まるで同い年と会話するように話しかけて来た。

「貴方が、この小説の世界での……レンズの化身ですか」
 少年は少し考える素振りを見せた。
「レンズの化身。……響きとしては化物染みているなぁ……。まあ、仕方ない。その方が分かりやすいし、間違っては無いから、それでいいことにしよう」
 少年は、手に持っている木の枝の先を、バルドへ向けた。
「さて、話を進める前に、今の君が悩んでいる事を話してもらえるかい?」
「悩み?」

 すぐにでも話を進めたいが、どうも少年に、このような口調で話しかけられると、小馬鹿にされている様で何とも反発精神が少なからず発生してしまう。

「悩みだよ悩み。早くしないと崩壊が始まって、貴重な時間が台無しになってしまうよ」
「えっと、まあ、悩みって言うと……」

 言い淀むバルドの心中を察したのか、少年はため息を吐いた。

「君、もしかして今の僕の姿と話し方で反発しているだろ? そんなことしていていいの? こっちはこの小説の、限られた登場人物に無理やり成らされているんだよ」

 少年の言っている事は真っ当な、そして説教の様にも思えるが、そうと言えないほどに目が見開いて、口元に笑みが絶えず浮かび、まるで観察されている様に思え、さっきまでの女性とは別の畏怖を覚えた。

「それに知らないだろうけど、具現の扉の使用回数には制限がかけられている。どんな依存症者であれ、最大で入れて六回。その内長編か短編かはこの世界が決める事だ」少年の顔が迫る。「下らない意地を貫いても、結局は君の為にはならないんだよ?」

 使用回数が六回。思い返し数えてみると、今回が五回目で、あと一回。
 長編かどうか分からないが、今回は場面が急に変わる。それは、短編を寄せ集めた小説だとすればどうだろうか。

 時間も、そこで出会う誰かとの共存できる時間が限られている。
 現実の世界では記憶が曖昧で、自分が何かの依存症だと突きつけられたのだ。もう、少年がどうだ、年齢差どうだと反発精神を抱く等の足止めは、払拭すべきであった。

「す、すまない。悩みは、前回の小説の世界で、自分が依存症だと分かって悩んでる。現実世界に戻った時、自分の過去の記憶が曖昧で悩んでいる。そして、今一つ増えたけど、残りの扉をくぐれる回数が一回で、未だに自分が何を求めているのかすら分からない事に悩んでいる。……というより、焦っている」

 少年は、改めて距離をとり、手を後ろに組んだ。笑顔は続いたままだ。

「悩みは分かったけど、前回の化身が言わなかったかい? 人間は、誰でも依存症だって」
 バルドは頷いた。
「だったら、悩みの一つは解消されてもおかしくない。なぜ未だに悩んでいるの?」
「だって、依存症ですよ。何かに縋って、重度に縋ってしまう病気なんだ」
「それこそ、君の求める悩みの原因じゃないのかい?」
 言われて、バルドは呆気にとられた。

「――救われたいから縋る。――達成したいから励む。――見つけたいから行動する。――失った後の空虚、曖昧な立ち位置に立たされるのが嫌だから頑張る。人間って、そうやって何かに依存する。依存しなければ、立場が無くなってしまう。悪い意味ばかりに囚われてどうも嫌悪しがちだけれど、依存ってのは人が人として生きて行くには大事な要素の一つさ」
「でもそれって、重度の依存者に当てはめるべきではない解釈じゃ」
「重度に至ったのは、なにも依存しきったからじゃない。その経緯に問題があるんだよ。――傷ついた人が助けられた。しかし、被害者が、救済者の優しさがもっとほしい為に甘え、弁えることなく甘えた。――自分の与えられた仕事が好きだ。だから励む。休むことで落ち着かなくなるから、また仕事を続けようとする。逆に、自由を求め、限られた時間を十分に遊び、休憩に費やす。もっと休みたい、もうつらいのは嫌だと嘆く。――多くの物を発見したい。その探求が、自身の行動の原動力となる。冒険場所の環境によってはひもじい生活を強いられるかもしれないが、自身の欲求を満たすなら、それも苦にならない」

 少年の言葉を聞き入ったバルドの中で、何かを突かれた気がした。

「怠慢、礼儀知らず。責任重視に責任放棄。事あるごとに自由という言葉を主張する。苦ではない、その言葉を盾に自身の麻痺した感情に目を向けず無責任となる。人間が”重度”の依存症と呼ばれるには、何かにつけて、制限する思考が働かなくなった『過剰』の表れだよ。重度の依存症と、呼称するのも分かりやすいけど、我々は依存症を重症としない。過剰に執着するとは言うけどね」
「過剰も、依存症も、同じでは?」
「過剰は異常だよ。ここまで来たら、即刻なにかを改善しなければならない。けど安心して、僕のこの解釈は、レンズの化身としての解釈だ。他の化身の誰かが、君を依存症者と銘うっただけなら、それは十分に改善する余地があるという事だから」

 しかし少年は、別の問題を示唆した。

「依存症についての話はこのへんにして、これで別の問題が生まれた」
「また問題が発生するのか」
「けどこれは大事な問題だ。それは、君が何に依存していたかだ」
 そこが問題なのだが、少年はためらうことなくその話に切り込んだ。
「さて、ここで気になる点が一点。君は自分の問題に関係する人間に出会えたのは?」
「最初の一回です。今までの化身達の話を聞いて、恐らくその人だろうと。そして、その人物が何者かもはっきりとしていない」

 ついでとばかりに思い出したのは、少年と会う前に出会った、不穏な雰囲気の女性を。

「あ、それと、貴方の前に奇妙な女性に会った。それが化身の人物か、僕の記憶に関する人物かは、はっきりとしない」
 少年はさらにニヤニヤと笑んだ。
「なら君の記憶の関係者だ。なぜなら、この世界では化身は一体分のみ。特殊な描かれ方をした脇役を起用したのなら、二体いてもおかしくないが。双生児のような、極稀な存在とかだ。今回は僕だけだから、その女性は化身でない。記憶の方は?」
「直接な関係ないが、幼少期の事を思い出せた。それで、自分にも思い出せる記憶があると実感できた」
「まあ、なかなかの青年だから、特別な生まれ方をした物語の変わった主人公じゃない分、普通の記憶があるのは当然だ。それを思い出せたのが今回初めてというところが少々問題だが、原因に繋がる糸口は見つける事が出来るかもしれないね」

 なぜか癪に障る発言が時々発せられるが、相手の容姿が原因だと自覚している。ここは抑えなければならない。

「なにが糸口になる?」
「本来なら具現の扉を四度も入った人間が、何一つ思い出せないなんてそうそう無いんだよ。絶対いないではなく、極稀にそういった人物は存在する。そして、そういった者達の原因はそれ程難しい問題じゃないんだ」
「難しくないって。これ程何も見あたらないなら、かなり複雑じゃないか」
「複雑なのは詳細であって、大まかな原因は大きく分けて二つ。それ――」

 突然、少年の背景から、少年を含めたすべての風景がある一点に吸われ、瞬く間に周囲が暗闇に変貌した。

10 変化と進展

「貴方は一体、何に魅了されているの?」

 女性の声が左の遠くから聞こえた。
 声の方を向くと、初めの浜辺で出会った白い服、金色の長髪、綺麗な透き通る程の青い眼をした女性が、初めて声をかけてきた。

「君は一体……何者なんだい?」
 今度は逃げられない様に、必死に追いかける素振りを見せない。
「……なぜ」突然、彼女の声が震えた。「どうして……――ルディ――を……」
 バルドの存在に気づいていない様に、彼女はバルドの方を見ているが、今のバルドを観ていない、別の誰かに向けて感情を露わにしている。
「どうして……」涙があふれ、頬を伝い、次々に流れ顎からポタポタ落ちた。「そんな危険な事ばかり……私達の事も考えないで」
 やがて膝をつき、両手で顔を覆い、声を上げて泣き叫んだ。

 その姿にバルドは心動かされる何かを感じ取った。同時に、何か大事なモノを忘れているきがする。
 この女性も、あの不気味な女性も、何かを言っている。それが人なのか、物なのか、出来事なのか。
 まったくピンとこないが確かにバルド自身の中で重要な何かである。それは確信出来た。証拠は無く、直感としか言えなかった。

 女性は初めて出会った頃は、心中で何かしらの反応、蠢きが微塵も起こらなかった筈が、レンズの化身達と話をしたからか、少年の言葉にだけ何か変化を起こしたのかは分からないが、今はこの女性に対し、衝動が、感情の波が、今まで止まっていたものが全て動き出した。

「違う! 俺はお前達を巻き込もうなんて思っていない!」
 まだ彼女の正体は不明なままである。しかし、咄嗟に身体が、言葉が反応した。
 訴えを終えても何も思い出せない。それでもまだもどかしい気持ちは燻っている。
 バルドは彼女の元へ駆けたが、彼女が逃げていないのに、風景が彼女ごと巻き込んで離れていった。それでも追いかけたが、それよりも周囲が暗闇に変化する速度の方が早かった。
 諦めて速度を落とし、やがて歩行に変わり、止まると、再びあの縁側沿いに正座した女性がいる部屋へ戻された。

 雨天である事に変わりは無く、あの湿った、若干の黴臭い臭い漂う空気も変わっていない。ただ一つ、女性は身体だけが前と同じ方を向いていたが、頭だけが丁度真横に、バルドのほうに向いていた。
 けして女性の頭の回り方に不自然な所は無く、誰であれ真横に顔を回せば、大概の人は回せるのだが、薄暗い環境、女性の服装に長髪の髪型、元は色白の肌をしていたのであろう、周囲の薄暗さが、彼女の肌の色に暗がりとわずかな青みを与え、不気味さと恐ろしさを強調させた印象を与えた。

「そんなことを知って何になる‼」
 突然、表情を変えることなく怒鳴られた。
「お前の知ろうとしている事は誰かを不幸にする! お前の調べている事は新たな災いを生む!」
 女性は一向に動こうとしないが、一方的に怒鳴って攻めた。

「違う! 俺はあの存在を調べなければならないんだ!」
 あの存在? それはなんだ?

 言葉も身体も、何もかも思い出しているかのように女性へ反論した。しかし、未だに何も思い出せない。けど、相手の言い分も自分の訴えも、どことなく理解している自分がいる。
 一方は怒鳴り否定する。一方は言い訳めいて肯定しようとさせる。理解が出来なければ、繰り広げられるやり取りに、矛盾を抱くはずだがバルドは理解している。

 もう少しで何かが掴めそうなのだが。

「お前は何も見ようとしない、自分の周りも我々も! お前は何も理解しようとしない、自分の事ばかりに集中しすぎて! お前は物事への干渉が曖昧だ、自身の理論、意見、全てが否定され、新しくも小難しい理屈で上塗りされるから! お前はそれらを恐れている! 我々を根底から理解しようとしない‼ なぜなら‼」
「五月蠅い! 黙れぇぇ‼」
 女性の怒声に、両耳を塞ぐ動作へ至ったバルドは、無意識に怒鳴って黙らせた。

 荒げた呼吸をしていると気づき我に返ると、耳を塞いでいる筈なのにあの声が聞こえた。
 いや、頭の中から声がしていると言い換えた方が、現状では適していた。

「知ろうとして、黙れってのは、違うんじゃないかい?」
 あの少年の声だ。

 反応して振り向くと、周りの風景も元に戻っていた。
 少年は切り株に腰掛け、右手で掴んだ小枝を小さく振り回していた。表情は一切変わらずにこやかなままである。

「あれは、貴方が?」
「いいや違うよ。僕は何もしていない。ここでずっと君の変化を傍観していただけだ。君が自分で何かを掴み、彼女達を引き寄せた。けどまあ、あれ程訴えているのだから、引き寄せたというより、彼女達が今の君に見かねて訴えた。と言い換えた方が正しいのかもしれない」

 そうは言われても、まだ真髄まで思い出せていない。もう少しで何かを思い出せるのだが、あの女性が止めることの無かった訴えを、どうして自分は止めてしまったのか。

「……何か思い出せたのかい?」
「……いえ。まだ思い出せそうにない」
「……出せそうに。ってことは、彼女達はなにか君に影響を与えたという事だよね。彼女達をどんな立場の人間だと思ったんだい? 恋人? 母親か、姉か妹? それとも別の誰か?」

 一人はその中の一人に当てはまる気がして即答した。

「一人は恋人。……だと思います。初めの浜辺で会った女性は、俺の恋人だと思います。明確な理由はありませんが、ただ何となく。彼女の言葉は、常日頃から聞いている思いはしてますし」
 曖昧にだが、彼女の話をしようとすると、日々の生活の断片と思しき光景が思い出されてきた。
 彼女が笑顔で家の扉を開ける姿。
 食卓へ料理を運んでくる姿。
 娘にしがみ付く弟。
 記憶の中で上が十歳、下が五歳だと認識している。
 その二人に何か注意している姿。
「どこか温かくて、失いたくない。懐かしくて、どうしてだろう……切ない」
 幸せな光景なのに、どうしてか虚しく、心が苦しくなる。

「ん? 変じゃないかい? 温かくて、失いたくなくて、懐かしい。そんな単語が並んだのなら、幸せな思い出じゃないか。なぜ切なく、そんなに苦しそうに胸を摩っているんだい?」

 少年に言われている間も、彼女の光景が思い出された。
 夕方に何かを告げられ動転する彼女。
 雨天時にずっと泣き伏せる彼女。
 呆然と外を眺めている彼女に縋りつく子供達。
 苦しんでいる三人に、老夫婦が何かを諭し、彼女の心の支えになっている。

 その光景を見た途端、直感のように何かが判明した。それは、自分にも影響を及ぼし、そして、自分は大いに関係している。
 彼女の大切な人は亡くなってしまい、彼女は一人取り残されてしまった。そして、数々の彼女との楽しい日常の日々を自分は過ごしていた。
 これら一連の流れから連想されることは一つ。

 自分は彼女の恋人であり、彼女との間に何かがあって口論となった。そして、あの光景から考えるに、自分は何かの事故に遭い、亡くなってしまった。

 死んだ。自分は死んだ。
 そう思うと、急に今までの事が思い出された。

 そう言えば、この屋敷の男性とまともな会話をした覚えがない。ずっと男性が自分の心を読んで受け答えをしていた。
 具現の扉なんて今まで見聞きしたことのない扉に入り、どうしてこんな奇妙な体験を繰り返せているのか。それは、自分が死んでいるからこんな体験を繰り返し行えるのだ。
 刑事は怪盗を追っていると言ったが、未だかつてそんな人物に遭遇していない。何より、レンズの化身の誰かが言っていなかっただろうか。
 ここへは、何か自分に原因がある者しか訪れることが出来ないのだと。
 ではあの刑事は何なのか。それは、走馬灯の一種なのではないだろうか。

 刑事という設定で自分の前に現したが、本来はバルド自身、何かしらに関係する人物である。いや、この状況で一番適している流れは、自分と刑事なる人物は、何かの事故に遭い逝去した。幽霊となってこの屋敷に訪れると、祓い屋である、あの男性が自分達を成仏させようと屋敷へ招いた。屋敷へ来る前の記憶が無いのはその為。

 今まで何一つ進展しなかった謎が、みるみる解決し、悲しい結末だが、自身が死者である末路だが、ようやく解決に至った。

「何か完結に至った所で悪いんだけど、具現の扉を通れるのは、死者ではなく生者。生きてなければ通れないよ」

 能天気に少年が告げた事により、バルドの推測は全て、悉く粉々に砕け散った。
 少年が告げた内容は、どうやらバルドの表情が読まれやすい事でそう忠告してくれたのだろうが、もう、自分の欠点なのか特徴なのか、顔に出やすい事を気にすることは諦めた。

「待った。俺が死者なら全ての合点がまとまるんだ。それがなされないなら、どうして俺は生きていて、あれは一体なんなんだ」
 この様子を見て、少年は不敵に笑んだ。そんな彼に、バルドはなんだ? と訊いた。
「どうやらまともに物事を思い出せてる様子だね」
「だから、思い出せてたのに、違うって」
「何だい? そんなに死者でいたいなら、この世界を出た後に自殺すればいいだろ? そんな事より、君は気づいてないだろうが、ここへ来る前と今では、言葉がまともになった」
「まともって、今までだって普通に話していたじゃないか」

 とは言いつつ、何か無礼があったかどうかを思い出そうとしたが、なにも無礼な発言は無い。時々敬語でなくなったところも見受けられたが、感情的になった後だから、そこを突かれても弁明の余地はあると確信した。
 しかし少年は、もっと別の点を突いてきた。

「ここってのは、この世界ではなく、具現の扉に入って最初の世界からの事だよ」
 そんな前から? と、驚いている間に、少年は何かを思い出した。
「最初は違うな。化身の誰とも会ってない。二つ目の世界からと言い換えさせてもらおうか」
「そんなに言葉が変でした?」
「いんや。変と言うより余所余所しかった。自分の色が無かった。個性が死んでいた。年齢に見合った振る舞いを引き出せていなかった」
 それ程補足されても、漠然としすぎていて、更に説明を仰いだ。

「どこかの仕事場の新人の様に、あらゆる人物。我々化身の者に対しても本性を表せないでいた。まあ、記憶が無かったのだから仕方がないさ。けど今は違う。特に違う点を挙げるとするならば、自らの一人称の呼び方だ」

 はっ、と気づかされた。そう言えば、”僕”と言っていた筈なのが、今では”俺”に変わっている。それがいつからかと訊かれても思い出せないが、俺になっていた。

「これは大きな一歩だ。それ程までにあの女性の存在は大きかったのだろうが、最後の推理が大幅に逸れた。今度は、自分が生きている設定を押し通して考えてみるといい」
 バルドが何か訊こうとするが、少年は続けた。
「では、もう一人の女性。彼女は君の一体何なんだい? 随分と白熱した言い合い。いや、彼女が一方的に攻めていたんだね。そんな感情をむき出しにしあえる存在だ。思い出せない訳が無いとは思うが」

 再びあの不気味な女性について思いかえした。
 あれ程罵声を浴びせてくるのだ、確かにどこかで会っている気がする。しかし、前の女性程、明確な光景は思い出せない。
 前の女性同様、何かの役割に当てはめて考えてみればどうだろうかと思い、恐ろしながらも、あの女性を恋人と置き換えて考えてみた。しかし、何一つ光景も思い出も浮かび上がらず、どことなく安堵した。
 では、次に母親というならどうだろう。違うとなると、年齢差から考えて、歳の離れた姉。それ等が違うとなると、親戚、もしくは近所の女性。あらゆる立場にあの女性を置き換えて考えてみたが悉く外れた。

 またもや少年はバルドの心中を察し、次の言葉を告げた。

「何も当てはまらないみたいだね。じゃあ視点を変えて考えてみればどうだい?」
「視点とは?」
「女性を誰かで考えるのではなく、君がここへ来ることのなった原因を先に考えてみるんだ。そうすればおのずと答えが導き出される筈だよ」
「いや、それを探しにここへ来たんだ。その点の糸口が見あたらないから、女性達を先に考えているんだろ?」
 少年は重要な事を思い出した。
「そうか忘れていた。どうりで話が進まない訳だ」

 一体、何をこの少年は思い出したというのだ。何より今更だが、こんなに深刻な悩みを考えている状況で、なぜ協力してくれている相手が、満面にだが不敵にも笑み続ける少年なのか。今までの化身同様、饒舌なのは慣れたが、あどけない少年相手だと真剣な部分が、時折集中が途切れてしまう。
 バルドは深く考えるのを止め、少しだけ大きめの呼吸に似た溜息を吐いた。

「何を思い出せたんだ?」
「そう言えば、大きな二つの理由を言ってなかったね。突然君が女性達に取り込まれて消えたから」
 そう言えば、あの時大事な所を聞きそびれていた。
「では改めて」少年は姿勢を正した。「これだけ長引いても記憶を戻せない理由。その一つは、その記憶を思い出したくない。自分の中で封印している。そういったことが原因だ。一種の防衛本能だね。それ等は具現の扉を通って解決するにはあまりに困難だ。まず、現実世界で何かしら過去と向き合い、見たいと本心から望まなければ思い出せない」

 その点でバルドは自身に当てはめて考えてみたものの、ついさっき、何かを色々思い出せた為、それは違うと断定出来た。

 一つ目を話し終えると、遠くから何かが崩れる、崩壊の音が始まった。

「おや、大変だ。どうやら時間切れの足音が近寄ってきているみたいだ」
「何を呑気な事を言っているんだ。早く二つ目を言ってくれ! それで扉へ向かわないと、今度はどこへ飛ばされるか分かったものじゃない」
「安心しなよ、飛ばされるにも色々条件があるんだ。それは、次の回で覚えていたら訊いてみるといい。だから、君が飛ばされる場所は、恐らく前回と同じ場所か、同等の距離にある場所だ」

 その点の疑問を追求する時間も、崩壊の足音が迫ってきている事で、無駄な時間である事は容易に直感で判断できる。それよりも、原因をとばかりに少年に迫った。

「二つ目の原因。それはレンズに関する何かをしていた事だ」
「レンズに?」
「レンズはまだまだ不思議なことが数多く、未だ解明されていない部分が多いらしい。そんなレンズを探求する、解析する。もしくは手の届く範囲のレンズに片っ端から触れたり抱いたりするとか、直接的にも間接的にも触れ続けると、その時のレンズの影響が災いして、具現の扉内で記憶を思いだしにくくなる。どこまで思い出せないか、どういう思い出し方をするかは、前者の理由も合わせ、細かな色々な原因が起因しているかもしれないが、ここでの記憶を思い出せない大きな理由はその二つだ」
「おかしいだろ。ここはレンズが関係して出来た世界で、貴方達はレンズの化身だ。同じレンズ同士なら、何かしら干渉しあって、むしろ記憶を思い出しやすいのでは?」
「その道理がまかり通るなら、君は人間である以上、人間全ての心情や性格を理解している事になる」

 バルドは何も言い返せない。

「我々は君たちの間では今だに未知の部分が多い存在だと認識されているが、我々も、外で浮遊しているレンズたちの事は何も分からない。そして、同じレンズ同士だからと掛け合わせたところで、1+1が2となるものではないんだよ。別の物質同士が組み合わさっただけになる。だからもしそれ等、外のレンズに深く関わった者は、そのレンズの色に染まり、こちらでは干渉しにくくなる。時間をかけて理解し、ようやく打ち解ける。人間と同じなんだよ」

 崩壊の音が迫っているため、質問が限られる中、バルドは、レンズとは何か。と訊いた。なぜその質問をしたかと訊かれてもはっきりとした理由は答えられないが、咄嗟に出たのがこの質問であった。

「レンズは干渉する物質だよ。元は海から出て来たが、大地に触れ、浸透し、何かを感じて行く。植物に触れ、何かを感じ取る。動物に触れ、感じる。大元の形は、現実世界の外で浮遊しているあれだ。勿論レンズは人にも触れたりもする」
「じゃあ、レンズが人になって、現れたりとかするんじゃ……」
「それは断じてない」笑顔できっぱり否定された。「というより出来ないし、今後、何があってもその形に進化する事はない」
「どうして言い切れるんだ? 人に触れ、人の感情や心理を知れば、人の形になったり、人に憑いて操ったり」
「じゃあ教えてくれ。人間が人間の形となってもう何百年も、いや、千年単位の時間が経過した。しかし人間は一個体で鳥のように空を飛べないが、なぜだい?」

 そんな当たり前の様な質問をされて、バルドは素直に無理だと答えた。
 理由を求められても、羽が無いからと答えようとしたが、羽は体毛のように生えれば飛べるか? と、質問返しに会うと思い、翼が無いから。と、返せれた。

「そう、根本的な種の本質がまるで違うんだ。人間もあらゆる物を利用すれば、グライダーや飛行船のような物で空を飛べるが、やはり個体としてはいくら鳥の生体を知った所で無理がある。レンズも同様だ。この扉の世界のように、摩訶不思議な驚きはするが大したことのない奇跡は起こせても、人間になれないし、この世界の個体にはなれない。ただ、レンズに干渉しすぎた人間に対しては、個体としての影響を及ぼしてしまう」
「影響とは?」
「軽度でも精神面での異常。重度に至ると肉体そのものの、現実世界における存続の変化を与えてしまう。神隠しに似たような事、と言えば理解しやすいと思うよ」

 詳しく訊きたいが、崩壊がすぐそこまで迫っていた。
 少年の笑顔が、この説明の時、何処となく寂しい印象を与えた。

 話の締めと言わんばかりに、周囲の大地がひび割れ、地面が崩れた。
 バルドは、少年が満面の笑みで木の枝を振り、さよならを告げた光景を最後に意識が途絶えた。

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