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現実と「現実の存在」

 身近な現実を目で見て、手でさわる場合、現実の存在は問題にならない。
 しかし、間接的に現実を認識する場合には注意が必要である。
 メディアの発達によって私たちの「現実認識能力」は飛躍的に拡大したが、それらの現実を目で見て、手でさわっているわけではない。
 それらの現実が本当に存在しているのか確かめる術はない。
 逆に、どこかに現実が存在していてもメディアに登場しなければ、それらの現実は私たちにとって存在しないのと同じである。
 世の中には、存在していても存在しないのと同じであることや、存在していなくても存在していることになっているものがある、ということである。
 現実は確固たる事実であるように思えるが、実際にはその存在はあやふやなものなのである。一つ一つの事柄、例えば貨幣の存在や国家の存在について曖昧さが語られることがあるが、大抵のことはあやふやで曖昧なものだろう。何かが「ある」とか「ない」とか速断してはいけないのである。
 現代では、どのメディアを選択するかによって現実認識は大幅に変わる。
 新コロについて、マスメディアを情報源にしている人にとっては、
1 感染力が強く
2 発症すると重症化や後遺症の危険があり
3 💉によって危険が低減する
というものだ。
 しかし、Twitterや5chの利用者にとっては、
1 インフルと比べて感染力は強いか?
2 重症化率も後遺症率も殆ど無いのでは?
3 💉は逆に感染、重症化率を高める?
といった認識が広まっている。
 政府やマスメディアでは、ネットの認識をデマと決めつけているが、実際には国内・海外の大学・専門機関・統計から語られている内容である。
 ネット民が根拠としている情報は、マスメディアには出ないので、専門性のある情報であっても、多くの国民にとっては存在しないのと同じである。
 マスメディアに依っている国民と、ネットに依っている国民とでは生きている現実が異なるといえる。
 両者の間にある分断が問題になる。
 ネットを使っている人は、情報が次々と更新されている。
 だから、政府が今さら検査を拡大したり、💉の追加接種を呼び掛けたり、行動制限したりすることには、正当性を感じず、反対しているのである。
 しかし、その声はネットで情報を流通させあっている閉じたサークルの中にしか響かず、マスメディアに依っている人々には届かない。
 業を煮やして直接の対話で説得を試みると、情報格差が激しすぎて陰謀論者にされてしまう。そうなることがわかっている人は直接の対話を試みない。結局はネットで取り交わされる新しい情報は流通しない。
 この分断の存在によって、多くの国民が気づかないうちに、いくつかの重大な危険が生じつつある。
 ひとつは、新コロではなく💉による健康問題である。これはマスメディアには殆ど登場しないので、接種した人は注意を払っておらず、体内で問題が起こっていても気づいていない可能性がある。また、通常の検査では発見されてない恐れもある。例外的に報道された心筋炎も、MRIでなければ発見できないか、それでも発見できない場合があるという。
 ふたつめに、自由の制限である。欧米では💉が義務化されたり、ワクパスが導入されて市民社会が二層になりつつある。これらは重大な人権侵害であり、科学的根拠に乏しい政策が、強引に実施されているが、その問題性について報道されないため、日本人は危険性を把握していない。
 欧米では義務化に反対する抗議運動が各国で行われているが、これらも僅かに報道されるのみである。実際には大問題になっている。政府は警察を使って市民を殴打したり、警察犬に襲撃させたりしており、欧米では全体主義・専制政治が懸念される状況だが、これらも報道されない。
 だから日本人は、政府によってマイルドに行動制限されても気にしていない。
 自分から情報をとらない人に何を言っても絶対に取りに行かないだろうが、取っても良いという人はTwitterだけでもやるべきだろう。
 現実の枠を広げておかないと、危険が生じていても気がつかないかもしれない。
 
 

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