もこ

足元から聞こえる音は、先ほどと変わらず、規則正しいリズムを刻んでい

 列車。それも信じられないことに、これは蒸気機関車だ。 

時代錯誤の客席には、自分以外の誰もおらず、その合間を埋める孤独な影が、揺れる車内に取り残されている。

 硬い椅子の上に座る私は、窓辺に頬杖を付きながら、暗い瞼の裏を見ている。

揺れている。

次第に、硬かったはずの座席が緩んだ。

すると、私の体も次第に形を無くし、ドロリと、泥の様に溶ける。

揺れる。

瞼の裏に広がる闇は一層粘度を増していた。

こめかみに触れた窓は怯えて震えていた。

暗がりの中で、私は叫ぶ汽笛の音を聞いた。

けれど、それを聞いた私はもう居ない。

感じるのは、ただひたすらに繰り返すリズム。単純なリズム。それだけの、ただ、ひたすらのリズム。

揺れる。カタァン──カタァン──カタァン──カタァン──カタァン──カタァン───カタァン──カタァン───カタァ─ン───カタァ──ン────カタァ───ン──────カタァ──────ン────────────

 『もこ』  作 タキダソウタ

 

 ────旅に出る時、自分が何を忘れたいのかを人はつい忘れてしまう。

しかも、それはただ忘れるだけではすまないことすらも、人は良く忘れてしまう。

そういうくだらなさを知っていても意味は無い。いくら達観に身を任せても、やはり、目の前の風景は変わらない。山一面に広がった紅葉と、朽ち果てた木々と、何処からか香る、錆びた鉄の様な、微かな冬の匂い。コートの襟元から、スルりと喉を刺す空気。振り返れば、今にも朽ち果てそうなバラック小屋のひび割れた窓。

そう、バラック小屋。バラック小屋だ。こんな時代錯誤の光景は夢にも思わなかったけれど、先ほどから自分の真上をくるくると回っている飛んでいる鳥が、一体何の鳥なのかずいぶんと前にどうでも良くなっていて、私はただ、北の果ての朽ちた大地のただ中に茫然と立ちすくみながら次の列車を待っていた。

ちなみに、背負う荷物は少ない。

背負ったリュックの中にあるのは数着の衣服と、駅に乗る前に咄嗟に買ったばかりの画用紙と、色鉛筆。

 けれど、私は絵描きではない。趣味で絵を描くわけでもない。最後に絵を描いたのは高校の美術の授業のみで、それ以来、画用紙というものにすら触れたことは無かった。

 では、なぜ私は絵の道具を買ったのか?

 秋の山を見渡しながら今さらになって考える。私は何をしたいのか?あの時、駅の売店に不釣り合いな画用紙と色鉛筆を見つけた時、何が私を駆り立てたのか?

 しかし、どうにも思い出せなかった。なぜ、私は絵の道具を買ったのか?疑問符ばかりを打ちつけても、私の記憶野は営業時間の過ぎた店のドアのように硬く、ドアを叩くたびにみじめさがあふれだす。もういい、それよりも大事なのは、これからどこに行くのかという事だ。

無計画な旅というのは、何かしら人を引き付ける魅力があるのは事実だ。

けれど、それは旅なれた人間、もしくは活力溢れる若者だけだという事は、いま私が身を持って実感している。我ながら馬鹿な事をしたと、白い息を吐いた所で、それを聞く人間も居ない。が、唯一、頭上を飛び回る鳥だけが唯一の観客だが、鳥が何を応える訳でもないし、それに僅かな期待を持ってしまったら、私の行き先は精神病院に決まりだ。

 下を見下ろすと、赤や黄色の葉に覆われた木々と、岩の間を縫う様に流れる清流が見えた。

 しかし、私にはその川がなんとう名前であり、ここがなんという駅かすら判らない。

 ホームにはなぜか看板が無かった。地名らしきものも、一つも見当たらない。

 地図があれば良いのだが、慌てて家を飛び出したからであろう、鞄の中をいくら探してもそれらしきものは見つからなかった。

 駅員はどこを探しても居なかった。これが無人駅というものだろう。駅の周りを見回しても、紅葉にまみれた山の傾斜と、細い道が一本あるだけ。とても人の気配など無かった。

 私はベンチに座り、項垂れる様にして川の流れを見た。

 うねる水面には、たゆたう無数の紅葉があった。鳥が鳴いた。高らかに響くその音色は、山々の間をこだまし、やがて名も知らぬ一羽の大きな鳥が私の視界の隅を過ぎた。

 しかし、私の心は何時までも晴れない。

 先ほど鞄の中で見つけた絵筆を取って、この風景を描いてみようとも思った。けれど、私は絵筆の変わりに、ポケットから取り出した煙草に火を付けた。

 なにせ、私は絵が描けないのである。

 そう思うと、ようやく笑いがこみ上げてきたけれど、鏡を見なくとも、自分の笑みの悲しさは理解できる。そして、格好を付けて絵筆などを持ち、変わりに地図すら持たない自分に腹が立ち、思い切り煙草を吸った。疲れのせいか、煙草の味は酷く、舌の先をぴりぴりと焼く。それでも構わず煙を吸うと、美しいはずの山々がたちまち紫煙に霞んでいった。

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