試験作

けだるい夢を見た。

私が朝起きると、居る筈の無い妻が隣にいた。

見るからに病弱な女だ。やせ細った頬に、華奢な首に、首周りのよれた寝巻のTシャツの間から見える鎖骨の貧相さ。まるで私が女になったら、こんな風になっていただろうという姿だった。

その女が、ふと隣にあったペットボトルの飲み物をこぼしてしまった。白濁とした液体が畳の上に広がると、またたくまに被害は広がる。

「この馬鹿、なにをやっているんだ」

私は静かに叱咤し、これもまたなぜか手元にあった雑巾を手に畳の上をふきはじめた。

すると、そこがやけに薄暗い場所だと気がついた。

長い廊下だ。

その両端に、ふすまが幾つも並び、その中から何やら光が漏れている場所もある。

しかし、そんな事よりも、私はその廊下を濡らす、この汚らしい白濁液をふき取る事が大事だった。

不思議な程奥まで続く水を吹き続けていく内、ふと、ひとつのふすまの間に男が一人横になって寝ているのが見えた。

その瞬間、なぜか私は理解した。

ああ、客だ。

客が部屋でくつろいでいる。

そうだった、私はこの民宿の経営者で、彼は客。いや、彼だけじゃない、他にも今日は何人か泊まり客が来ていた筈だ。

すると、いつの間にか自然に廊下にあふれていた液体は消え、私は民宿のロビーへと向かった。

ロビーに付くと、そこにはもう何人かの宿泊客が居た。皆酷く焼けていて、開け放たれた窓辺から、いっきに潮風の香が拭いてきた。

「おはようございます」

私がそう挨拶すると、馴染みの客の一人が私の方を向いて、大きく片手をあげた。

「マスター!今日は良い天気だね!」

「ええ、本当にそうですね」

真黒に日焼けした少しやせ気味の中年男性は立ちあがり、私に「一緒に散歩にいかないか」と笑った。私も釣られて笑い、共に外へ出る。外には青空と、視界に広がる大きな海があった。波の音…潮風…カモメの鳴…海沿いの白い歩道を歩きながら、なんともいえない心地よさに、私の胸は安らいだ。男性について歩いて行くと、大きな橋が見えた。端下たは丁度陰になっていて、健康的な海もそこだけ黒く淀んで見えた。

「この海もだいぶ変わりましたな」

立ち止り、男性は白ペンキのはがれかけた木の柵へと寄り掛かった。

「昔はこんなじゃなかった。こんなんじゃ、けしてなかった」

「昔ですか…」

「そうです。貴方も覚えているでしょう?小さな頃、この海はこんな姿をしていなかった」

「そうですか?」

「ああ、もっと大きくて、もっと青くて、もっと広くて、もっと深くて、得体の知れない、美しいものだった」

「今でもそうでしょう?ほら、こんなに海は綺麗だ」

「いいや、その海じゃない。君の海は、あそこだよ」

そういって、男はゆっくりと腕をあげ、指を指す。その先は橋の下だった。

「同じなのは、得体の知れない何かっってことだ。何かってのは、何かが居るってことさ。あそこには、恐ろしい、何かが居る」

私は急に恐ろしくなって、未だ指差したままの男の背から後ずさった。そして、悲鳴にも近い声で叫んだ。

「あれは!あれは私の海じゃない!」

体が震えているのがわかった。

怖い。

あんなものが、あんな場所が、私の海なわけがない。

「私の海はあっちだ!あんな狭くて、暗い場所じゃない!」

「…本当にそうかね?」

男は腕を下ろし、ゆっくりとこちらに振り返った。

冷たい目だった。

さっきまで感じていた夏の暑さが、どこかへ消えている。

「あそこだよ、君の海は」

「…違う…ち、違う……」

「昔はね、たしかにもっと大きかった。そうだとも、君がいいはるあの海のように、もっともっと大きかった。けれども、もう君の海はこれしか残ってないんだ。こんなにも黒く淀んだ、小さな海しか残ってないんだ」

悲しそうな声で、男は言った。

目頭が歪んで、今にも泣き出しそうな顔をして、男は眼を伏せた。

「もうあきらめるんだ。あそこに住む怪物に食われる前に、はやく、君は海を捨てるんだ」

「いやだ!海は捨てない!」

「あきらめるんだ…あそこはもう海じゃない。ただ、気味の悪い怪物が棲む、黒い水たまりなんだよ…」

やめてくれ。

やめてくれよ…なんで、なんでそんな残酷な事を言うんだ。  

私の海は、あんなにも汚れてしまったというのか?あんなにも狭くて、黒くで、淀んでしまったというのか?ああ…今、あの奥でなにかが動いた…助けてよ…ねぇ…なんでそんな悲しそうな顔をしているんだよ…なんで、そんな残酷な事を言うんだよ…ねぇ…なんで助けてくれないんだよ

父さん………………………………

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