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アジアと日本の歴史① アジア人の民族自決と日本の役割

 大東亜戦争が始まった昭和16(1941)年当時、他国から承認を受けていた独立国は、日本、タイ、中華民国、満州国だけでした。その頃東南アジア諸国は、長年欧米の宗主国と華僑による支配に苦しんでいたのですが、日本軍の侵攻をきっかけに独立へ向かって急速に進んでゆきました。ところが教科書などを見ると、それらの国々がわが国から独立したかのような錯覚に陥ってしまいます。偏向した展示内容の問題が指摘されている「ピースおおさか」でも、数百年にわたる欧米の侵略には目を向けず、数年間のわが国の軍政を厳しく批判することに忙しく、やはり彼らがわが国から独立を勝ち取ったかのように展示しています。
 事実は随分異なります。
 大東亜戦争が勃発すると、電光石火の攻撃で、わが国は東南アジア諸国を欧米の植民地支配から解放しました。親欧米的な華僑以外の現地人は、白人支配者を追い出した日本軍を大歓迎したのです。実際、日本軍は解放者でもあったのです。
 確かに、長く続いた軍政や、戦況が悪化してからの徴用、徴発などに反感を持った現地人もいました。また欧米人と共に現地経済を牛耳っていた華僑は、露骨に日本軍に反感を示しました。そのために処刑された人もいます。
 しかしわが国の敗戦後、現地の人々は植民地支配を再開しようとした旧宗主国と戦い、或いはねばり強く交渉して、本格的な独立を勝ち取ったのです。戦争を賛美する必要はありませんが、嘘を教えて歴史を歪めることは許されません。
 第一次世界大戦後のパリ講和会議において、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンは、「民族自決」を標榜しました。しかしそれは、「白人だけ
の民族自決」を意味していました。日本全権団が提案した、国際連盟規約に「人種差別撤廃条項」を盛り込むことを、ウィルソンが拒絶したことは何よりの証拠です。またその後、昭和16 年に発表された、帝国主義を葬る宣言であるとされる「大西洋憲章」に対して、ウィンストン・チャーチル英国首相は「英仏の植民地は含まれない」と条件を付けています。我が国がアジア諸国へ進出した陰には、欧米同様、アウタルキー(自給自足圏)の確立という側面がありましたが、それは、アジア諸国が欧米の植民地支配から離脱する、つまり民族自決を達成するという必要十分条件があって初めて達成されるものだったのです。
 平成10(1998)年夏、タイ、インドネシア、マレーシアを歴訪した筆者を含む自由主義史観研究会の一行は、各国の要人多数と面会しました。彼らは異口同音に、日本軍占領時代に軍事力、行政能力と精神力を得たと告白しています(同年8 月26日付『産経新聞』に紹介されています)。
 精神力、それは大東亜戦争の初期に、同じ顔の色をした、背の低い日本人が、白人をあっという間に追い出したことに触発されただけではありません。すでに、日露戦争に於けるわが国の勝利に、多くのアジア人が目を開かれていたこともその一因でした。
 公平な目で歴史を見ることが、真の友好につながることは言うまでもありません。我々が自虐的になってみても、何の進歩もないことはこれまでの歴史が証明しています。

 この連載では、いわゆる「特亜」を除くアジアと日本の関係を簡単にまとめてお届けします。

連載第33 回/平成10 年12 月1日掲載

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