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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第16章 王国末の社会と政治②

2.貧士と富農

【解説】仲原は、富農の繁栄と社会活動、運に左右される老書生の人生を冷静な筆致で紹介し、王朝末期の「社会の矛盾」を通じて、無言のうちに滅びるべくして滅んだ琉球王府の無能と無責任をあぶりだす。蛇足かも知れないが、そのあたりは少し強調しておいた。王朝時代を振り返ると、どうしても美化して語られがちである。
 筆者とあるプロジェクトで、某難関私立大学の過去の入試問題を分析しているのだ。「琉球史」が何問か出題されていた。ご多分に漏れず、尚巴志の統一、中継貿易の繁栄まではよかったが、薩摩の侵攻、そして望まれなかった琉球処分、米軍基地問題という、本当に沖縄県史の一面だけを捉えた、ある意味でいい加減なストーリーが展開されている。他の出題は、微に入り細に入り、これでもかと細かい事実を受験生に投げつけるのに、琉球史は検証すらされていない感じだ。中継貿易にしても、冊封体制をいう屈辱を抜きにして語るのはおかしいし、繁栄したのはポルトガル人が進出してくるまでのほんの一時期で、庶民はその恩恵を被っていない。薩摩藩により「近世化」が推進されて急速に発達した事実は無視され、王国の崩壊に最後まで(消極的に)抵抗したのは、事大派で守旧派の特権階級だけだったこと、沖縄の米軍基地が東アジアの平和に貢献していることなど、全く無視されている。これは、普天間基地の移設問題が、実は当の辺野古の住民は反対していないのに、外から来た連中が反対しているのと似ている構図だ。沖縄は常に、外から沖縄の幸福を阻害しようとしている勢力に翻弄される。そして、その勢力が目くらましに使いたがるのが、沖縄被害者史観である。そこには何の発展性もない。普天間基地の危険性は解消されない。
 筆者は、実は、まぁ普天間基地に比較的近いところ(すぐそばという訳ではない)に住んでいるのだが、時々ポストに某有名弁護士事務所からのチラシが入っており、そこには「普天間騒音訴訟に参加しませんか」とある。そもそも、普天間基地の周りに人が密集し始めたのは基地ができた後なのに、よくも恥ずかしげもなく訴訟ができるものだ。基地が危ない、五月蠅いというなら、への子への移転を推進すればよいではないか。しかし、実は普天間基地が亡くなると困るのだ。あの広大な基地を返還してもらったところで、地権者たちは金のなる木が枯れてしまう。周辺のビジネスはさびれる。職を失う人が多くなる。ロクなことがない。そう思ってる連中が多いのだ。こんなことを商売に使う売国弁護士事務所もどうかと思うが、結局、普天間基地の危険性など、騒いでいる連中にはどうでもよいのだ。辺野古の海が―という連中は、開発が進む浦添西海岸には何も言わない。
 仲原はすでにそれを見抜いていたかのようだ。実はこの資料の他に『改訂版中学校社会 沖縄の政治・経済・社会資料』(沖縄時事出版、昭和51年と『沖縄の地理』(琉球大学教授仲松弥秀、同田里友哲監修、文教図書、昭和49年)も発見したのだが、どちらも沖縄県中学校社会科教育研究会編となっており、既に沖教祖の影響が臭う。初版はそれぞれ昭和49年と45年で、『沖縄の歴史』(上)の昭和27年、(下)の28年に比べて新しい。勿論、歴史よりも内容の変化は急がれるものだが、事実を淡々と紹介するにとどまらず、反米反日的な要素や感情論といった、あの連中お得意の要素が加味されやすくなるのは当然のことだ。その中で、仲原の「歴史」は異彩を放つ。筆者が、その孤軍奮闘を復刻したいと思った理由は、心ある沖縄県民、そして歴史を愛する人々にはご理解いただけるのではないかと思う。

【本文】
 この時代の社会の一端をうかがえる物語を読んでみましょう。

 浦添間切の城間村に住んでいた、仲という屋号の富農は、毎年、大みそかには、いつもの2倍のお膳を準備して、年を越せない貧しい人たちに振舞っていました。ある年の大みそかに、久米村の老書生と思える人がやって来て、こそこそと家の物置に隠れたように見えました。家中の者全員が食事を終わってから、主人は一人の下男をやって、その人を連れて来させようとしましたが、なかなか出て来ません。「何も恥じることなどありません。私は、客人の来るのを待っていたところなのですから」と主人が言って、無理に連れ出して、お膳を出してもてなしました。この人は少し箸をつけた後、子供らのためにと、料理を包もうとしました。「子供にやる分は別にあるので、全部召し上がってください」と告げ、芭蕉の葉にご飯とおかずをたくさん包んで渡しました。この人は、大いに感謝して帰っていきました。
 それから2、3年後、老書生が盛装してこの家にあらわれました。あの大晦日の日の恩を感謝してこう言いました。「私は今度、ようやく唐旅(とおたび。支那へのお使にお供すること)に出ることになりました。あの日の謝恩のために、何か支那でお土産にあちらの道具を買いたいので、欲しいものをおっしゃってください」。これを聞いた主人は「お志は有難いのですがが、道具はそろっおりますので」と丁寧に断ったのですが、翌年、この人は再び現れ、あちらで手に入れた東道盆(とぅんだあぶん。客をもてなす料理を盛り付ける蓋つきの器)と茶碗を贈ったと言います。
 
 この老書生はまだ幸運でした。琉球の高級官吏登用試験は、支那の科挙をまねたものでしたが、この試験を受験するためだけに一生を費やした人もたくさんいます。また、官吏になっても、一度も役につけなかった人も多かったのです。だから、奴隷のようにされていた農民だけでなく、士族階層の人々にとっても、厳しい社会だったのです。

 ところで、この物語に登場するような富農は、そんな厳しい社会の中でどのようにして誕生したのでしょうか。また、彼らは社会においてどのような役割を果たしたのでしょうか。
 当時の沖縄の土地は大部分は公有ですが、一部には売買自由の私有地がありました。これは、その所有者が許可を得て開墾したものです。内地でも、奈良時代までは公地公民が原則でしたが、8世紀になると原則を緩め、開墾した土地の私有を認めるようになっていきました。それと似ています。
 公有地だけを耕している農民は、租税を出すと、残りは自分の生活に必要な分なので余剰はなく、市場に出して売れるものはほとんどありません。しかし、私有地があれば、収穫が多くなり、それを都市に持って行って売りさばけば、現金収入が生まれます。その金で、人を雇い、肥料や種子や農具を買い、家畜を飼い、さらに土地を開墾し、安定した農場経営が可能になります。そうする力があった人が、富農になっていきました。
 そして、以前に書いたように、富農の子弟が間切の役人になりました。役人になった者は、年功序列で位を授けられて服装も改まり、その妻子まで租税が軽くなる特権がありました。
 このように富農たちは農場経営をしながら、役人をつとめて地域社会で大きな発言力を持ちました。年を取れば役人を辞し、雇人を指揮して農業に専念しました。
 凶作の年は、蔵から備蓄の米や栗を供出して貧民を救ったのは、首里の政府ではなく各地の富農たちでした。橋をかけ、川を浚(さら)え、荒地を開墾するなど、社会のために尽くしたものが多かったのです。
 このように、自分の土地を持ち、生活も堅実で、貧しい人に対して責任を感じ、慈愛を施した富農も、中央政府である王府が無能で、不安定な王朝末期には多くなっていました。

【原文】
二、貧士と富農
 つぎに、その時代の社会のようすをうかがうに足る実例を二つあげて見ましょう。
     浦添間切、城間村、屋号仲という富農は、毎年、大みそかには、
    二倍のお膳をじゅんびし、困った人たちにふるまっていた。ある年
    のおおみそかに、久米村の老書生らしい人が来て、こそこそと家の
    物置に入ったようであった。家中の者は、全部で食事をおわってか
    ら、一人の下男をやって、老人を呼び出させたが、なかなか出てこ
    ない。何もはじることはない、自分はお客の来るのを待っていた所
    だと主人が言って、しいてつれ出し、お膳を出してもてなした。老
    人は少したべてから、家の子供等のためにと、これを包もうとす
    る。子供に送るのは別にあるからと、芭蕉の葉に飯とおかずをたく
    さん包んであげたので、老人は、大いに感謝してかえって行った。
     それから二、三年たって、その老人が盛装してあらわれ、前の恩
    を感謝し、自分は今度ようやく唐旅(とおたび。中国へのお使につ
    いて行くこと)に出ることになった。ついては、何か中国の道具が
    ほしかったら買って来てあげて、謝恩をしたいという。主人は、お
    志は有難いが、道具はそろっているからといってことわった。
     翌年、老人がふたたびあらわれ、中国で買ってきた東道盆(とん
    だあぼん(ママ))(料理を入れる器)と茶碗をおくったという話
    がのこっています。
     この老人とちがって、一度も役につけない人も多かったことで、
    士族にとっても、まことにけわしい社会であったと見なければなり
    ません。
 右の話に出て来る富農はどうして出来たか、又彼等はどんな社会的のはたらきをしたか。
沖繩の土地は大部分は公有ですが、一部には売買自由の私有地があります。これは、その人が許しをうけてかいこんしたものです。
     公有地しか耕していない農民は、租税を出してしまえば、都会に
    だして売るものはほとんどありません。しかし、わりあてられた公
    有地の外に、私有地をもっていれば、市場にだす物がよけいにある
    から、金もよけいに入ります。その金で、人をやとい、農具をとと
    のえ、牛馬、豚、山羊、にわとりを飼い、肥料も種子も不足するこ
    となく、有利な経営ができます。この人たちが富農になったので
    す。
 この人たちの子弟から、間切(村)の役人がでることは、前に話しました。(第十一章)
 役人になった者は、年限が来ると、位をさずけられ、服装もちがい、妻子までも、租税がかるくなる特権(とくけん(ママ))があります。
     農業を経営しながら、役人をつとめ、社会からもおもんぜられま
    す。一定の年限が来れば、役をやめ、やとい人をしきして農業をは
    げみます。
      凶年になると米、栗を出して貧民をすくうのも、政庁よりもむ
    しろ各地の富農たちでした。橋をかけ、河をさらえ、あるいは、あ
    れた土地をかいこんしたり、いろいろと社会のためにはたらいてい
    ます。このように、自分の土地をもち、生活も堅実で、貧しい人、
    に対し、責任と慈愛を感ずる人、このような人も封建時代のすえに
    はしだいに多くなっています。

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