P_誰かが扉の鍵2

中編小説【誰かが扉の鍵を~前編】(文字数16212 無料)

 おそらくは母の顔を思い出していたのだと思う。
 大丈夫かと何度も繰り返される声。ああ、海で溺れかけたときにこういうことがあった。
 また僕は溺れてしまったのだろうか。
 水に潜った瞬間の、別の世界に入り込んだ感覚。
 呼吸する音ばかりが聞こえる。
 もうずいぶんと海には行っていない。
 僕は必死に扉を叩いていたんだ。
 閉ざされた扉の、その向こうに誰がいるのか。
 何が起こっているのか。
 僕は知ることはできない。
 そこで起こっていることを、選ぶことはできない。
 
 
 目を開けると見知らぬ顔があった。
 母ではない。若い女性が浮かべたのは安堵(あんど)の表情だろうか。
 黒い長い髪。細い目。
 その背後に、やはり若い男性が一人。二十歳前か。黒いシャツとジーンズ。無表情に僕を見下ろしている。
 どうやら僕はベッドに寝かされているらしい。女性はその脇に腰掛けていた。こちらは対照的に白のブラウスと、ふわふわしたスカート。覗き込むように顔を近づけてくる。その手が頬に触れた。とても冷たい。そして嬉しい。
「ここはどこだ」
 疑問はたくさんあったが、とりあえず口から出てきたのはその言葉だった。
「りゅうがたけの山荘」
 彼女が答えた。山荘はわかったが、りゅうがたけというのはどこだろう。自分がここにいる理由がまったくわからない。
「頭、痛くない?」
 その言葉から推測するに、何かが僕の身に起こったようだ。確かに酷い頭痛がする。
「僕はどうしたの」
「階段から転がり落ちたじゃない」
 なるほど。それならば思考が全く働かないのも納得がいく。
「どれくらいの高さから?」
「え……覚えていないの?」
 僕は小さくうなずく。また鈍い痛みが走る。
 彼女が救いを求めるように背後を見た。
 腕を組んで立っていた若い男が小さく頷く。
「脳震盪だろう。記憶の混乱が一時的に起こることもあるらしい。念のために後で医者に診てもらったほういいだろうな」
 言っていることは深刻だったがその淡々とした口調が僕を落ち着かせた。
「君達は誰だ」
 思い切って訊ねてみた。男の両の眉が少し上がる。
「僕のこともわからないのか」
「どうやらそのようだ。はっきり言って自分の名前さえ出てこない有様だ」
「そうか……ならば君が思い出すまで名乗るのはやめよう。君は階段から転げ落ちた。その時に頭を強く打ったようで、何時間も気を失っていたんだ。気分は悪くないか? 吐き気や激しい頭痛を感じたらすぐに言ってくれ。結果を保証することはできないが、まあ、最善を尽くす努力はしよう」
 窓から射す陽光がまぶしかった。自分の頭に手をやる。包帯が巻きつけてあるようだ。
「救急箱を見つけたので僕が巻いた。遠慮せず感謝してくれたまえ」
「ああ、すまない。どうやら迷惑をかけてしまったようだ」
 ゆっくりと体を起こす。女性が体を支えてくれた。ちょっと嬉しかったが、病人なので無表情を装う。
「さて、どうしたものか」
 と若い男は大げさにため息をついた。僕が記憶を失っていることで困っているようだ。
「忘れてしまっているのならしょうがない。君の看病をしてくれたこの女性は僕の助手をやってくれている人だ。これも名前はいずれ思いだすだろうから、いまは紹介しない」
 もったいぶらずにさっさと教えてくれればいいのに。何の助手なのだろうか。どうせ質問しても教えてはくれないだろう。
「いろいろとありがとう」
「とりあえず、君の意識が戻って一安心だ。ええっと、助手君、君は何か食べたほうがよい。僕はちょっと彼から話を聞いてみたい。ついでに、昼の残りを温めて彼のために持ってきてくれないか」
 それを聞いた女性が部屋を出て行き、僕と男だけが残された。
「さてと……」
 彼はテーブルの上の煙草の箱を手に取り、僕に差し出した。
「どうだい」
 僕は首を振った。
「要らない」
 彼は驚いたような表情をした。わずかに眉を上げただけだったが。
「あれほどヘビースモーカだったのに」
「ぜんぜん吸いたいとは思わないよ。まるで見慣れぬものという感じだ」
「そういうこともあるかもしれない。ならば一応病人の前だから僕も遠慮しておこう」
 彼は煙草を戻し、先ほどまで助手の女性が座っていた丸いパイプ椅子に腰掛けた。左足を少し引き摺っている。
「本当に全く何も覚えていないようだな。まあ、君も不安だろうが、次第に元通りになると思うよ」
 この男の落ちついた口調と物腰は見た目の若さに似つかわしくない。だからといって安心して良いのだろうか。
 足を組んで、右膝を両手で抱え、彼は僕の目を見た。
「実は、君に是非とも訊いておきたいことがあったのだが……さて、記憶をなくした者にどう質問をすればよいものか。難しいなあ」
「僕もうまく答える自信はない」
「まあいいや。迷ったときには素直にいくとしよう」
 彼が天井を見上げた。言葉を選んでいるのか。
「まず一番肝心なところだ。君は本当に記憶を失っているのか?」
 この質問には少し面食らった。もちろん、僕はそれが真実だと知っている。しかし、それを第三者に証明する方法が、果たしてあるのだろうか。
「難しいな。どうすれば信じてもらえるんだ」
「僕も君がどう答えるのかとても興味がある」
「記憶を失っているかどうかが一番肝心な質問だというのは、そもそもどういうことなんだ。一体何が起こった?」
 質問を返すと彼は大げさに手を広げた。相変わらず表情はあまり変わらなかったが。
「それを説明しなければならんのか。君に」
 大きく溜息をつくと、指で膝を小刻みに叩いて虚空を見つめる。
「そうだな……記憶を呼び戻す刺激にもなるかもしれない。もっとも本当に何も覚えていないとしてだが……では、まあ、抜粋で事情を説明しよう」
 一つ咳をした後で、彼は話し始めた。
「そのとき、我々は食堂に集まってテーブルを囲んでいた。僕は君達から聞いた事件のあらましをまとめ、あり得たであろう可能性について言及していた。まあ、来るのが少し遅すぎたことが悔やまれるのだけどね。
 質問は後でまとめてと言っておいたのが功を奏してか、口を挟むものもいなかった。説明が一通り終わった後には静寂ばかりが続いた。
 次の瞬間、突然君が立ち上がって『犯人は僕だ。僕が全部やったんだ』と叫ぶやいなや、食堂を出て二階へ向かう階段を登り始めた。君の隣に座っていた女性が立ち上がり、後を追った。
 正直言って、僕にも予想外の展開だったよ。階段の下から名前を呼ぶと、君は一瞬立ち止まった。しかし、女性が階段を駆け上がってくるのを見ると、きびすを返してまた登り続けた。夜中だ。嵐がまだ続いていて、灯りのつかなくなった階段はただでさえ薄暗かった。君の姿も後を追っていった女性もすぐに見えにくくなってしまった。その直後に体と体がぶつかったと思(おぼ)しき音が聞こえた。小さな悲鳴と共にまず女性が、続いて君の体が転がり落ちてきた。君の額は赤い血に染まっていた。
 というわけで、我々は気を失った君をこの部屋に運んだというわけだ。これで先ほどの質問の意味も分かってくれたと思う。何しろ一連の出来事の犯人だと名乗り出た直後にあんなことになったのだからね。君が本当に記憶を失っているのかどうか、実に重要な問題と言えるだろう」

 僕はしばらくなにも言えなかった。
 彼の言葉を聞いても、まるで他人事だ。階段を駆け上って落ちた。言われた光景が勝手に頭の中に浮かぶが、情景を外から見ているようにしか想像できなかった。自分の体験であるというリアリティはない。犯人だと名乗りを上げたと言われても、そこから喚起されるのは過去の記憶などではなく、ただ現在の不安のみだ。いったい何をやらかしたというんだ。
「……自分でももどかしいのだが、やっぱり何も覚えていない。だけど、君の言葉で一つだけ引っかかることがあったよ」
「それはなんだ」
「女性の悲鳴だ。そのことを君が言った瞬間、僕もそれを聞いたことがあるような気がしたんだ。それもひどく恐ろしい気分でね」
 彼はそうかと小さくうなずいた。
「他になにか思い出さないか」
 僕だってこんな状態は早く脱したいのだが、何かを思い出すという、そのやり方を忘れてしまったような感じだ。ため息をつきながら頭を振る。また痛みが走った。
「だめだ」
「まあ、焦ったところで回復が早くなるものでもないだろうが、早めに確認しておかなければ手遅れになってしまう可能性があるからね」
「いったい何が」
 彼の表情に一瞬だけ皮肉っぽい笑みが浮かんだ。
「次の事件が起きるかもしれない」
 事件。再び僕の中で連鎖反応が起こる。
 水中の小さなあぶくのように、広がりながら浮かび上がっていく恐怖や焦燥。
「僕が食堂で喋っている途中で君は立ち上がり、自分が犯人だと名乗りをあげた。おかげで僕は最後まで自分の考えを開陳できなかったというわけだが……最初から疑問に思っていたんだ。果たして、君は本当にあの事件の犯人なのかと、君が意識を取り戻したら真っ先にそう訊きたかった」
 ああ、そうか。僕はようやく彼の立場がわかった。
「君は……探偵か」
 そう言うと、彼は満足げな笑みを浮かべ「ご名答」と大きくうなずいた。
 なぜか落ち着くような気さえする。
 事件が起こり、探偵がそれを解決するべく訪れた。
 そして僕という犯人が自ら正体を明かした。
 なるほど。この山荘でそういうことがあったのだ。
 肝心の僕自身が事件のことを何一つ覚えていないのだからひどい話だ。
 いったいどんなことをしでかしてしまったのだろう。
 
 
 ドアがノックされた。
 探偵が黙って開ける。さきほど助手だと紹介された女性がお盆を持って立っていた。
「お昼ご飯。食料はまだたくさんありました。そ……あなたの分も食堂に用意して並べてあるけど」
 探偵はそうかと言って部屋を出た。どうやら、助手の女性は探偵の名前を呼びそうになったようだ。そこまでして隠す必要があるのか。
 部屋に入ってきた助手の女性は小さな机の上にお盆を置いた。丸い皿にお粥のようなものが入っている。
「ずっと食べてなかったから、こういうものの方がいいかと思って」
 少し固い笑顔だ。
「ありがとう」
 お粥はおいしかったが、食べている間、ずっと彼女がそばにいるのには参った。どうにも落ち着くことができない。「頭痛くないの?」「記憶がないってどんな感じ」「カーテンを開けた方がいいかな」などと続けられる質問にいちいち反応しなければならないのが次第に苦痛になってきた。食事が終われば解放されるに違いないと思い、冷めてきたお粥を一気に平らげて大きなため息をついた。
 彼女は「早く全てを思い出せるといいね」と言い残してお盆を持って出ていった。ドアが閉まるときも僕を見ることはなかった。相手をするのが煩わしいと思っていることを悟られなくてよかった。いや、もしかするとあっさりと伝わっているのかもしれない。
 それにしても嫌な感じだ。自分の名前さえ思いださえないのに、犯罪者の名乗りをあげたことだけを教えられるとは。
 さあ、僕はどうするべきなのか。
 一人きりになってようやく落ち着くことができた。ここは一つじっくりと考えなければ。
 気になるのは、どういった種類の事件があったのかということだ。探偵の話を聞いている途中でその疑問は浮かんだのだが、なんだか怖くて聞きそびれてしまった。
 そもそも、なぜこの山荘にいるのか、その理由さえわからない。
 階下に食堂があると言っていたから、ある程度広い建物なのか。ここと僕との関わりはどんなものなのか。
 そうだ窓だ。
 外を覗く。日差しがきつい。空調が室内に行き渡っているのだと初めて意識した。僕が階段から落ちたときには嵐だと言っていた。いまは青空が広がっているが、確かに風は強いようで、木の枝が時折一斉になびき、うなりのような音が聞こえてくる。
 見渡す限りの樹木。
 出窓になっているので、建物の様子も少しわかる。僕がいるのは外壁を白塗りの木で覆った二階建ての家だった。
 これはいわゆる、ペンションというやつだろうか。それほど大きくはなさそうだ。
 旅行か。
 おそらく遊ぶためにここへ来ていたのだろう。だとすると、仲間もいたのか。
 探偵の話に出てきた、階段から一緒に落ちたという女性もその一人だろうか。あるいは、僕とその女性と二人きりの旅行だという可能性だってあるだろう。それはまあ、結構なことだが、果たして彼女はどうなってしまったのか。
 旅先で起こる事件とはなんだろうか。もしかして盗難でもあったのかもしれない。これが二人きりの旅、あるいは複数の仲間内の集まりだとしたら、さぞ気まずい展開になっただろう。その犯人が僕なのだろうか。
 得ておきたい情報がたくさんある。
 次に探偵がきたら詳しく聞いてみよう。
 ふと不安に駆られる。
 本当に、僕は何もかもはっきりさせたいのだろうか。
 事実を思い出し、やはり僕が卑劣な盗人であるという事実が確定してしまう、というのはそれほど愉快なこととは思えない。
 自分でコントロールできるとも思えないが、記憶が戻るのはもう少し先に延ばしたい。その間にもう少し詳しく探偵の話を聞き、せいぜい心の準備をすることにしよう。
 
 
 やがて探偵が戻ってきた。
「調子はどうだい。なにか思い出したか」
 僕はゆっくりと頭を振った。そういえば、この探偵は随分と馴れ馴れしい。まるで友達のように接してくる。
「そうか。まあ、いい。君がこういう中途半端な状態で在るということも、それはそれで僕にしてみれば安心だからな」
 どういうことかと訊いた。
「もし、君が告白の通り犯人だとすれば、それで事件は一件落着ということだろ」
 確かにその通りだ。
「では、もし僕が犯人ではなかったら?」
「そこが難しいところなんだ」と探偵は言った。
「そのケースに対しても、まあ多少なりとも勝算はあるんだが、確実とは言えない」
「僕が犯人でないとしたら、他に事件を起こした張本人がいるということだろう。だとしたらその真犯人による事件の再発という可能性だってあるはずだが」
「犯人がその正体を隠したいと思っているのなら、君が名乗りを上げた現在の状況は真犯人にとってはありがたいわけだ。おとなしくしていれば全ての罪を君に被せることができるのだからね」
「なるほど」
「ただ、なぜ君が自ら罪を被ったのか。その理由如何によって多少の危険も生じる。君が犯人でないことを真犯人は知っているわけだからね」
「どういうことだ」
「犯人でもない人間が自ら進んで罪を認めようという場合に考えられる可能性をあげてみよう。まあ、それほど多くの項目を思いつけないけどね。一番ありそうなのは君が犯人を庇(かば)うために身代わりになったということだ。この場合、おそらく犯人にはそれが分かっていると思う」
 僕が庇うとしたら、それは一緒に居たという女性なのだろうか。しかし、それでは傍目からも一目瞭然で、あまりにわかりやすいのではないだろうか。
「次の可能性は君が罪を肩代わりすることで何らかの利益を得られると判断した場合だ。俺だけはあんたが犯人だと知っている。秘密を守ってやるから金をよこせ、というような感じだな。しかし、まあ、これも事件が事件だけにちょっと考えにくいのだけどね」
 僕はそんな卑劣な奴なのか。あまり考えたくない可能性だ。
「それからもう一つ。状況などから君がそう思い込んでしまうというケースだね」
「どういうことだ?」
「例えば、夜中に喉が渇いて目を覚ますことが多いので、君はコップと水差しをいつも枕元に置いていたとしよう。朝起きると床にコップが砕け散っている。部屋には内側から鍵がかかっていた。となると、君は恐らく自分が寝ぼけて割ってしまったと思うだろう。ただ、今回の事件ではこのケースはありえないから、除外するとしよう」
「なるほど……それで実際には犯人が別にいるというわけか」
「可能性だけならそういうことも起こり得るということだ。犯人であろうとなかろうと自分が犯人だと言うことは可能だから、いろいろな状況を考えないとね。とにかく、これらのいずれのケースにおいても共通して真犯人にとって有用な行動がありえる。それは君の口を封じるということだ。犯人だと名乗りを上げた者が自殺をする。これはいかにもありそうなことだと捉えられるだろう。命を絶つ決意をしたから最後に真実を明かしていったのだというそれらしい理由が容易に浮かび上がる。だから君がもし真犯人ではないのなら、まあ、探偵の僕としては君を守るべきなのかもしれない」
「随分と消極的じゃないか。そんな懐疑的じゃなく、もっと進んで犯罪を未然に防ぐようにしてくれよ」
「しかし、君が言う通り、やはり君自身が犯人なのかもしれないんだぜ。それに、もしそうではないとしても、果たして君が守るに値するような人間なのか考えてみないと」
「正義を行うに当たってそんなことを言うなよ」
「手当たり次第に他人を守ることが正義になるとは限らん。禄(ろく)でもない人間を救ってしまったがために失われる、より大きな正義があるかもしれないからな」
 僕は返事に窮した。いったい自分がどのような人間か、それさえもいまはわからないのだ。
「まあ、君はそれほど大それた人間ではないと思うから、ここはそれなりに対処することにしよう」
 脳の奥でもがいているはずの記憶を覗こうとする。しかし、どこかに存在するはずの様々な情景や知識、過去の出来事はいずれも行方をくらましていた。例えば右手で左手を掻こうとするとき、人はそれを無意識にやってのける。だが、ひとたびその方法を忘れてしまったら、その行為はきっとひどく難しいものになるに違いない。おそらく僕も『思い出す』というやり方を忘れてしまっているだけなのだ。
 しばしの沈黙。
 意を決してついに根本的な質問をすることにした。
「……ところで、そもそもいったいどんな事件が起こったというんだ?」
 探偵が椅子の肘掛けに頬杖をついて僕を見ていた。その表情は変わらない。
 彼は黙って胸のポケットから写真を取り出した。
 そこには若い男が写っていた。どこかのアパートの前だろうか。自転車置き場に大きなバイクが停められており、その前でヘルメットを抱えて指を立てている。
「この顔に見覚えは?」
 僕は目を閉じた。なにかが胸の奥で動いた。この風景か、あるいはこの人物が懐かしい。
「知っているような気がする」
「君の友達だ」
 だとすれば、見覚えがあって当然だ。こうして少しずつ刺激を受けていれば、元に戻れるのだろうか。
「この屋敷の二階で殺された。完全に内側から鍵のかかった部屋の中でね。その事件に対して、君は自分が犯人だと名乗りを上げたのだ」
 僕は絶句した。殺人事件じゃないか。
 恐れていた通りだった。いや、それ以上だ。
 とりかえしのつかないことが起こった。その果てに僕はいるのだ。
 探偵が僕の目を、表情を、どんな変化も逃すまいという鋭い眼差しで見ていた。
 反応を観察しているのだ。そう思った途端、自分の置かれている立場がどれほど危険なものかということに気がついた。まだ彼は僕が記憶を失ったふりをしているのではないかと疑っているのだ。
「僕が殺したというのか」
「そうだと君自身が言っていた。階段から落ちる前にね」
「しかし……だとしたら僕は殺人者だ」
 探偵はちょっと呆れた顔をした。
「だから、自ら言い出すのはよほどの覚悟が要ったと思うけどね。まさかその後でこんなことになるとは。まあ、あるいは良心の呵責から逃れようという心理が働いて一時的に事件のことを忘れているのかもしれない。あいにく僕はその辺りのことにはさほど詳しくないのでね」
 冗談じゃないぞ。ここは落ち着いて考えなければ。
 それにしても、自分のやったことを覚えていないのだから始末が悪い。
「いったい僕はどうすればいいんだ?」
「とりあえず記憶を取り戻す努力をすることだね。といってもそれが難しいようなんだが」
 好きこのんで何もかも忘れているわけではないのだ。
「事件のことを最初から僕に話してくれないか」
「やれやれ。もともと君から聞いた話だぞ」
「本当に自分が犯人かどうか考えたいんだ」
 探偵が肩をすくめた。
「面倒だな。君にとっては暇つぶしになるのかもしれないが」
「頼むよ」
「まあ、いいだろう。最初から説明しよう。僕の方でもまだ見落としていることなどあるかもしれない」
 そして、事件の概要が語られることとなった。
 
 
「事件に関わっているのは五人の男女だ。君を含めた五人は同じ大学に通う知り合いだった。男が三人と女が二人。そのうちの一人の男子生徒が夏休みを利用して叔父さんの別荘へ行かないかと皆を誘った。すなわちこの山荘だ。元々ペンションとして作られたこの建物は、随分と山奥にある。まあ、君達も予想以上に遠くて驚いたらしいけどね。電気や水は使えるが、付近に店などない。食料などはすべて買いそろえて来たそうだ。まあ、それも楽しみの一つなのだろう。いつでも音を上げてやめることもできる、お気軽な冒険気分だな。一週間の休暇をここで満喫するはずだった」
 その言葉によって浮かび上がるイメージは特になかった。
「きっと楽しい時間を過ごしたことだろう。ところが、三日目の朝に事件が起こった。君達をこの山荘へ招待した重田浩二が内側から鍵のかかった部屋で殺されているのが発見されたのだ。ベッドに横たわった状態で胸をナイフで刺されていた。これで一気に皆は恐怖のどん底だ。限られた人間しかいない状況でそんな忌まわしいことが起こったのだからね。いつの間にか君達の乗ってきた車の燃料は抜かれ、電話線も切られ、外部と連絡をとる術はすべて絶たれてしまっていた。君達はただ戸惑うだけだった。明確な方向性を示す人物がいなかったということなのだろうけど、まあ、その混乱もわからないでもない。警察にも連絡を取れない状況だったのだから。
 しょうがないので君達は安全だと思われる策をとった。部屋にいるときもしっかりと内側から鍵をかけるようにしたそうだ。しかし、それだって完全とはいえない。トイレは部屋の外にしかないし、食事だってする必要があった。結局のところ悲劇は食い止められなかった。次の日の朝になって今度は坂倉敬吾が自分のベッドの中で殺されて発見された。やはり胸をナイフで一突きだ。部屋には最初と同じように内側から鍵がかけられていた。
 残された君達には何もできなかったようだ。ただ、同じように鍵をかけた部屋に閉じこもっていただけだという。
 そして、次の日になって女性の一人が死体となって発見された。
 やはり完全に鍵のかかった部屋でね」
 
 
 ドアを必死に叩く僕。
 横で泣き叫ぶ女性。
 ふと浮かんだその情景の生々しさに僕は眩暈を感じた。その時感じていた焦燥や絶望が、ぬるりとした手触りを残し、消えていく。
 探偵が僕を見た。
 どのような表情をしていればいいというのか。
 そんな恐ろしい体験を、僕は乗り越えたのか。
「何か思い出したのか?」
 探偵の問いに僕はうなずいた。
「なんだか、嫌な場面が蘇ったよ。一瞬だけだが」
「起こった出来事を話して聞かせたのがよかったのかな」
「ああ……多分そうだ」
「参考までに、最初の事件はこの部屋で起こった。いやいや、安心してくれ。君の寝ている方ではない。重田君はもう一つのベッドで殺されたのだ。まあ、意識を失っている君をこんな部屋に運んで悪かったが、他に空いている部屋がなかったのでね」
 探偵が立ち上がった。
「ほかにも現場を見るかい。君達がいろいろな思いで過ごした空間を見れば何か思い出すかもしれない」
 僕はうなずいてベッドから身を起こした。足に力が入らない。バランスをとるのが難しい。
 部屋の扉。なんとなく、その向こうはまるで別の世界で、いまの僕を取り巻く環境が、すべてなにかの冗談なのではないかと期待していたが、それはやっぱりただの夢想で、そこには細長い廊下があるだけだった。
 僕の寝ていた部屋は短い廊下の突き当たりにあり、下へと向かう階段のそばにもう一つの扉がある。
 扉がない方の壁にはサッシの窓があり、そこから外の景色が見えた。
 砂利の敷かれた庭と、それを縁取るように並んだ生け垣。
「この隣の部屋が、二番目の犠牲者が出たところだ」
 探偵がポケットから鍵を取り出して鍵穴に挿した。鍵を回すと小さく弾けるような音が聞こえた。
 その部屋は絨毯もベッドの配置も僕の目覚めた部屋とまったく同じだった。ベッドにはシーツが掛けられている。そんな惨劇があったとは思えない。ただの静かな空間だ。
 階段を下りていく彼に僕は黙ってついていった。
「この別荘には西棟と東棟があって、どちらも同じ二つの客室が設けられている。こちらは西側だ。ちなみに客室は二階にしかなく、階下は娯楽室、台所、風呂場、食堂などで占められている」
 一階の小さなホールについた。玄関があり、靴がいくつもならんでいる。死んでしまった三人の履き物もそのままなのかもしれない。
 僕達が降りてきたのと別の階段がある。彼がそちらを指さした。
「犯人の名乗りを上げたあとに君が駆け登り、そして落ちた階段だ。ごらんの通り、それほどの高さはないけど、そもそも暗闇で転がり落ちるようには作られていないからな。君は頭を打ってそんな有様になってしまった。で、ここを落ちないで普通に二階へたどり着けば東側の建物だ」
 東側の一階にはガラス張りの扉があり、その向こうに大きなテーブルが見えた。食堂だろうか。そちらへは向かわず、探偵は階段へ向かった。
「この山荘は左右というか東西が対称に作られていて、こちらは君が寝ていた西側とまったく同じ構造になっている。東側にも二つの部屋があり、部屋の中は両脇にベッド。窓の下にはダッシュボード。扉の右隅には棚とテレビがあり、左にはライティングデスクといった具合だ」
 探偵の後ろからついて行く。こんな明るいところで階段を踏み外すわけはないと思いつつ、どうしても緊張する。上がるにつれて嫌な臭いがした。かなり濃い。手前の扉の前で立ち止まる。
「さて、記憶を失う前の君の証言によれば、ここは君が使っていた部屋だということだが、いまは事件の犠牲者の死体が並べられている。夏なので、腐敗が早いのが困りものだが、どうだろう。中を見るかい? その刺激でなにか思い出すかもしれないよ」
 ここに至っても、僕はまだ探偵の言うような事件があったとは信じ切れないでいた。自分の記憶がまったく頼りにならないのだから、実感がないのもやむを得ないのだろうが、すべてが作り事だと、なんとなく期待しているところがあったのだ。
 この扉を開ければ、もう決定的になる。
 ここは現実に立ち向かうべきだろう。
「わかった。中を見るよ」
 声がかすれた。
 探偵はポケットから鍵の束を取り出し、ドアを開けた。
 僕は開いた扉の隙間から恐る恐る中をのぞき込んだ。
 臭いが一段と増す。
 床にそれはあった。
 横たわった二体。中途半端に曲げられた腕。首。動かない。
 恐る恐る部屋の中へ入る。どちらも若い男だ。一体の側に立つ。干涸らびた顔。変色した瞳。完全に死んでいた。
 何かを思いだしたというわけではないが、やはり、僕は彼等を知っているのだという確信を持った。
 その向こうに横たえられた男は天井を睨んでいる。瞬かないその目も、開けられたままの口もやはり死人のものだった。
 一瞬、彼の笑顔を思い出したような気がした。
 ベッドにシーツが掛けられていた。不自然に盛り上がっている。
「最後に死んだ女性にはシーツが掛けてある。朽ち果てていく姿を曝すのは気の毒なのでね。男性には我慢してもらった。まあ、さほど気にしないだろうけどね」
 ひどい臭いと、目の前の物体となり果ててしまった二人の表情に気圧されて急速に気分が悪くなっていた僕は、これ以上の刺激に耐えられそうになかったのでそのまま部屋を出た。
 部屋を出ると、解放されたように楽になる。目を閉じて深呼吸をした。
「どうだった?」
 探偵は半ば面白がっているようだ。
「僕は彼等を知っていると思う」
 と答えた。
「そうか。早く全てを思い出せるといいね」
 本当にそうだろうか。
 あの、変わり果てた死者達を見てしまった今となっては、とにかく恐ろしかった。
「君は」
 思いきって訊ねてみる。
「僕が本当に彼等を殺したと考えているのか?」
 探偵が無表情のまま首を横に振る。
「わからないな。それに僕の立場として無責任なことはあまり言いたくない。まあ、僕が来たときにはもうほとんど事件は終わっていたからね。まあ、こういう事態になっていることだし、解決が少しぐらい遅れたところでいまさら影響はないだろう」
 奥の部屋はいままでと多少違っていた。ノブが歪んで取れそうになっている。
「そこが三人目の死体が発見された部屋だ。鍵が壊されていたので、掛け金も歪んだものを応急処置でねじ止めしてある。いまは臨時で僕が使わせてもらっている」
 彼はきびすを返して階段を降り始めた。窓の外の長閑(のどか)な日差し。静まり返った廊下に取り残された僕は鍵の壊れた扉が今にも開いて何かが飛び出してくるのではないかという妄想に駆られてあわてて探偵の後を追って階下の食堂へと入った。
 珈琲の香りに気がつく。少しほっとする。
 先ほどの女性がテーブルに座っていた。
「何か思い出しました?」
 探偵は首を振って彼女の前に座る。僕にも座るよう勧める。
「まあ、望みがまるでないわけではない。いずれ元には戻るだろうけどね」
「そうですか」
 彼女は新しいカップに珈琲を注いで僕達に差し出した。
「焦ることはないでしょうけど、早い方がいいですね」
 探偵はそうだねとカップに口をつけた。
 もちろん彼等は真相を明らかにしたいと望んでいるだろう。しかし、僕はどうなのだろうか。
 いま見てきた死体や部屋の様子は、心に訴えかけるものをもっていた。少なくとも僕がこの事件に何も関係ないとは思えない。
 考えようとすると頭がしびれるような感覚に襲われる。
 ここは落ち着いて問題を整理する必要があるだろう。
 僕は頭が痛いので部屋に戻ると言い訳をしてその場を去った。
 夕食はここで一緒に食べようという探偵の声が聞こえたが、返事をしなかった。
 
 
 探偵から受け取った鍵で部屋を開けるとき、恐怖に体が竦(すく)んだ。誰かが扉の鍵をかけて、中に立てこもっているのではないかという想像が勝手に膨らんで心臓の鼓動が早くなった。
 しかし、やはり部屋には誰も、あるいは何も潜んではいなかった。僕は窓のカーテンを開けてベッドに横たわった。
 何が起こったのか。本気で考えなければならない。
 内側から鍵の掛かった部屋で三人が殺されたのだという。
 もし、僕が犯人だとしたら、いったいどうやって実行したというのだろう。ベッドに横たわる人間を刺し殺し、何らかの方法で外へ出たことになる。
 いや、待てよ。
 僕は握りしめたままの部屋鍵を見た。マスターキイや合い鍵なりが存在していれば、そんなことはまるで問題にならないのではないだろうか。ペンションとして建てられたこの館にそういうものが存在していても不思議ではない。
 あの探偵も人が悪い。わざわざ事件が複雑に見えるように僕に説明したのだ。
 最後の女性のときだけ様子が違ったようだが、それも後で詳しく聞いてみる必要があるだろう。
 ベッドの枕元に置いてある電話を見る。探偵は記憶が戻るようなことがあれば、すぐに内線を入れてくれと言っていた。電話機の横のメモに各部屋の番号が書いてある。
 受話器を取り上げる。まだ珈琲を飲んでいるだろうか。
 食堂にかけるとすかさず探偵が出た。
 合い鍵があったはずだと質問した。
「あったかもしれないけど関係なかった。扉は普通の鍵と一緒に内側から掛け金もかかっていたんだ。どの部屋も」
 それ以上の質問を思いつけず、僕は受話器を置いた。
 どういうことだろうか。
 合い鍵は関係ない。掛け金ということは、部屋の内部にいなければ施錠は無理ということか。
 そうだ。この部屋で最初の殺人が起こったと探偵は言っていた。
 僕は扉を見た。
 掛け金がそこにはあった。金属の棒をスライドさせて柱の受け金に填め込む。単純な仕掛けだが、当然、物理的に扉を外から開けることはできなくなる。もちろん、力任せに押し破れば可能だが……
 鍵を調べた。
 動かすにはそれなりに力が必要だ。少し錆も浮いている。掛け金も柱の方も、ネジはいくぶんくたびれているが、しっかりとしたものだ。動かしてみる。滑りが悪く、意外に力が必要だった。
 そこでおかしなことに気がついた。
 探偵からいろいろ話を聞いている時にはよくわからなかったが、気がついてみると矛盾は明らかだ。
 どうして、この部屋の鍵は壊れていないのか。
 探偵の話によれば、三人とも同じように鍵のかかった部屋で死んでいたはずだ。
 実際、最後に女性が死んでいた部屋のノブは壊れかけていたではないか。確か、掛け金も応急処置で修繕したと言っていた。
 ならば、最初に死体が発見されたこの部屋の鍵も壊されているべきだ。
 僕は再び懐疑的になった。
 本当にこの部屋で凶行はあったのか。
 もう一つのベッドの上で最初の男が死んでいたと探偵は言っていた。
 空いているベッドへと歩み寄り、布団をめくる。
 しばらく動けなかった。
 確かにそこには血の跡と思われる褐色の大きな染みが存在していたのだ。
 そして、僕は自分の仕草から、過去の映像を呼び起こしていた。
 横たわる男の体。胸に突き刺さったナイフ。女性の悲鳴。
 それを確かに見たことがある。
 しかし、この鍵に関する謎の答えはわからない。
 最初の事件で掛け金は破壊され、その後ですぐに付けなおしたのだろうか。でも、柱にも扉にも古いネジ穴や鍵を付けなおしたような痕跡はない。もちろん、跡が残らないようにきれいに替えたのかもしれないが。それにしても、古いネジと古い鍵をわざわざ用意していたのか。あるいは扉を開けたときの損傷がそれほど激しくなく、そっくりそのままネジを締めなおしただけということもあり得るのか。
 だめだ。ここでいくら考えていても埒があかない。
 食堂に電話をする。
 探偵がのんびりとした声でなにか思い出したかと僕に問う。
 それよりも僕は自分の部屋の鍵が壊れていないことを伝えた。そして、二番目の部屋の鍵はどうなっているのか訊ねた。
「ああ、そうか。よく気がついたね。二番目の部屋の鍵も壊れていないよ。そこのところをよく考えてくれ。後から修繕したわけではない。事件によってドアの鍵が壊れたのは三番目の部屋だけだ。これは事実だから」
 なんとなくからかうような口調だった。僕は少し腹を立てて受話器を置いた。
 鍵は壊れていない。
 とても重要なことだ。
 どうやって鍵のかかった部屋の人間を刺すことができたか。それこそが問題かと思ったのに、さらに「どうやって鍵のかかった部屋の死体を発見することができたか」という新たな難題まで発生してしまった。
 思いつく答えなど一つしかない。
 そもそも事件など起こっていないのだ。
 なにもかも冗談。
 そうであればどんなにいいだろう。
 しかし、僕はあの部屋に横たわっている死体を見てしまった。
 それに、僕自身が死体を発見したことがあるとしか思えない記憶を持っているのだ。
 突然、電話が鳴った。
 不意を突かれてかなり驚く。ため息をついてから受話器を取る。
「あのさ、念のために言っておくけど、『この事件が作りごと』であるとか『実際には何年も前の事件なのでは』とかそういうことはないから。この殺人事件はここ数日の間に起こって、僕はその事件を解決するために呼ばれた探偵だ。それだけは理解しておいてほしい。でないと君がいろいろと気を回しすぎて解決が遅れてしまいそうだからね。あと、君が劇団員で、時々思い出される記憶の断片が芝居であったというつまらない展開もなしだ。僕の知る限り、君がそういう特殊なシチュエイションを体験したことはない。おそらく君が思い出している血なまぐさい情景は、ここ数日、現実に起こった事件で実際に君が見た映像だ」
 僕は返す言葉もなかった。探偵は構わずしゃべり続けた。
「立て続けに君の友人が亡くなるような事件が実際にこの別荘で起こり、君はその生き残りだ。いずれ記憶が戻れば何もかも思い出すだろうけど、僕としてはそれほど時間をかけずに真相を明らかにしたい。実際にここで何があったのか、じっくり考えてくれたまえ」
 電話は切れた。
 部屋は静まりかえっている。
 記憶とはいったいどこにあるのか。
 この頭の中のどこかに刻みこまれる具体的な言葉や視覚情報だろうか。あるいはそのときその状況に喚起された感情を思い出すことにより、情景を再構築するのだろうか。
 両方とも合っているのか。
 両方とも違っているのか。
 この部屋で何が起こったのか。
 窓の外で風が鳴る。
 一人だという思いが強くなる。側に誰か居てくれれば、もう少し心強いのだろうが。
 そういえば、探偵と一緒にいるあの女性は誰だろう。探偵の助手だという言葉をすっかり信じていたが、それが本当だという保証がどこにあるだろうか。
 目が覚めてあの女性が側にいたとわかったとき、最初に感じたのは安堵だった。
 あの時の感覚。視界を埋める色。
 そうか。
 また一つ、決定的なことに思い至った。
 一人足りないのだ。
 この別荘に来たのは五人だ。男性が三人、女性が二人。
 そのうち三人が死んでしまった。
 僕は生き残っている。
 合計四人だ。
 もう一人の女性はどこへ行ってしまったというのか。
 そういえば、犯人の名乗りを上げた僕を追いかけて、一緒に階段から落ちてしまった女性がいたはずだ。
 僕は身を起こした。
 頭の中のはっきりとしなかった光景が晴れていくような、そんな感じだ。
 ここで目を開けたときに感じた懐かしさが全てを物語っている。彼女こそが、五番目の存在なのだ。そう考えれば辻褄が合うじゃないか。探偵の助手のような振りをして、僕の様子を窺っているのだ。
 何故か? それはもちろん探偵の指示なのだろう。
 記憶を取り戻すための切り札にでも使うつもりなのかもしれない。
 あるいは……
 新しい発見は新しい可能性を次々に生み出す。
 もし、僕が犯人ではないとしたら、それはすなわち生き残った彼女こそが犯人であるということになってしまう。
 それを探偵は確認したいのか。
 それとも、探偵などという存在は嘘八百で、あの二人は共犯になって僕をこの連続殺人事件の犯人として陥れようとしているのか。
 いや、それならばもっと僕の犯行らしく話をもっていきそうなものだ。部屋に鍵がかかっていたなんてのは余分な要素だろう。
 やはり、犯人は彼女なのか。
 僕はベッドに横たわり、扉を眺めた。外からの施錠など不可能だ。
 鍵のかかった部屋で犯行を成し遂げる方法さえわかれば……いいや、それだけではなく、死体を発見する方法も考えなければ。
 一体、誰が扉の鍵を開けたというのか。
 まったくおかしな話だ。
 探偵は素っ気なく鍵が壊れていないことに気がついたのかと言っていた。彼は既に謎を解いているのだろうか。もしかして僕は決定的な手がかりを教えられていないのかもしれない。その謎自体は事件にさほどの影響を与えないから、詳細を教えてもらっていないということも考えられる。
 あの探偵が何を考えているのか。真の狙いがどこにあるのか、まるでわからない。他人の頭の中で何が起こっているのか、そんなことが外から見ているだけの人間にわかるわけがない。そういう意味では密室と同じだ。閉ざされている空間で起こっていることは、中にいる人間にしかわからないのだ。
 待てよ。
 あまりに唐突に謎が解けたので僕自身、ひどく驚いた。
 そうか。
 なんの矛盾もない。
 なんの不思議もない。
 だからこそ、探偵は僕に全てを思い出せと言ったのだ。
 あっけないほど詰まらない解答だ。
 僕がこの部屋で目が覚めたこと。
 それが最初の手がかりだったのだ。

後編に続く

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