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小説【船は故郷へ】2回目 (文字数12147 全4回)

第1回の続きです

第二章 異変

 大きく息を吸った。
 目を覚ますためではない。そんな段階はとっくに通り過ぎ、極度の興奮状態だ。
 非常時に冷静さを失うことは命取りになる。何度もアストロノウツの教習所で習った。そのときには聞き流していた教えであるが、壁一枚隔てて広大な宇宙という環境に放り込まれると、生き延びるためにそうせざるを得ないと否応なしに学んでいくことになる。
 それにしても、船の中でこれほど驚いたことはない。
 いつか航行途中に燃料の計算をオペレータが間違えた(必要な量の半分しかなかったのだ)ことに気が付いたこともあったが、それだって別に命取りではなかった。少しスケジュールは狂ったが、一番近いステーションへ寄って給油して事なきを得た。
 しかし、こんな事態は初めてだ。
 地上であれば、すかさず警察に連絡するところだが、船では違う。異常事態はすかさず船長に報告するべきだ。
 どの部屋にもあるインタフォンがドアの横にある。操縦室の内線番号201を押せばいいだけだ。
 わたしはもう一度深呼吸をして、あまり気は進まなかったが、死体を観察した。
 パニックのまま報告したのではただの役立たずだ。
 被害者はハイダ・ルジッチ一等機関士。
 胸を撃たれている。
 状況から推測するに、寝ている所をやられたらしい。
 レーザーにしては傷口が汚い。凶器はおそらく拳銃だろう。そもそも宇宙船の中でレーザーなんて撃ったら、配線だろうが通気パイプだろうが構わずに穴を開けるだろうから、撃った奴にとっても命取りになる。
 死亡時刻まではさすがにわからない。しかし、血はほとんど固まっている。数時間は経っているようだ。辺りに凶器らしきものは見当たらない。
 そこまで整理して、自分が落ち着いていることを確認する。
 ハイダと酒を一緒に飲んだときのことを思い出した。
 インタフォンに手を伸ばして、ふと思いとどまる。
 少し考えて、結局報告するのは思いとどまった。
 カプセルの蓋を閉める。
 ドアの前に立つ。
 自動ドアが開く。
 ゆっくりと顔を出し、注意深く左右の様子を窺った。
 あいにく、この宇宙船の構造状、廊下を端から端まで見渡すことは困難だ。円弧を描く通路はすぐにその先が見えなくなっている。
 先ほど鞄を置いたロッカーのある場所へ、慎重に向かう。
 所々で金属の骨組みが壁からはみ出しており、天井から床まで達している箇所もある。その陰に隠れながら進む。
 わたしの荷物の中に小型の銃がある。
 宇宙船に乗り込む際に、武器を携帯するかどうか、というのはとてもデリケートな問題だ。アストロノウツ資格テストの論文試験としてもしばしば取り上げられているという。
 ただ、我々は会社からそれを義務づけられていた。
 船内のいざこざを武力で解決するためではない。主に海賊から身を守るためだ。
 先ほど、ハイダの死体を見たとき、わたしの頭に真っ先に浮かんだのはその可能性だった。
 我々にとっては運んでいるものが何であれ、ただの『届けるべき荷物』である。しかし、地球から遠く離れた場所ではどんな貨物であれそれなりの価値が生まれてしまう。ありきたりの食料であってもそれは奪うべきものになりうるのだ。
 いままでに、何度もそういう話は聞いていた。
 小惑星をねぐらにする犯罪者達の王国や、コロニーぐるみで荒稼ぎをしている集団が実際に存在するらしい。もちろん、運送業界だってその辺りの事情を考慮して警備隊にパトロールの強化を要請しているのだが、常に同行してくれるわけではない。結局のところ、有効な対応策として実施されたのが、乗組員の武器携帯と船の保険加入だ。
 現実にそんな事態に巻き込まれたのではないか。
 そう思って操縦室への連絡を思いとどまったのだ。
 1-Dの倉庫の入り口を過ぎる。
 もしかすると、この扉の向こうではまさにならず者達が荷物の値踏みをしている瞬間かもしれない。
 壁の何カ所かに非常ベルのボタンがあるのだが、そんなものに触れたりしたら、わたしの存在が知れるだけだ。
 わずか二十メートルほど進むのに、ずいぶんと時間がかかってしまう。
 ようやく、白い壁に沿って設けられたロッカーが見えてきた。鞄の一番底に入れた銃が無事だといいが。
 と、そのとき、奇妙なものが目に入った。
 思わず立ち止まる。
 投げ出された足。
 廊下に誰かが倒れていた。
 壁に背を付ける。
 心臓に悪いシチュエイションが続くものだ。
 あいにく隠れるようなところはなかった。
 しばらく様子を窺う。
 足しか見えていない。わたしと同じスーツを着ていた。
 ゆっくりと、近寄る。
 見覚えのある太った身体。
 まさかと思いながらも、現実を冷静に判断しているわたしもいた。
 一等航海士のリュウ・オラフだ。
 辺りの様子に気を配りながら、彼のところへ。
 開かれた目が、彼が最後に感じた驚き、または恐怖の大きさをわたしに訴えていた。
 このチームでは一番のインテリで、船医も兼ねていた気さくな男だった。
 知性やユーモアを含んだ何もかもが、彼から失われていた。
 ハイダと同じように胸の辺りを撃たれており、血はすっかり固まっている。やはり、かなり時間が経過しているようだ。わたしが安穏と寝ている間にいったいこの船の中で何が起こったというのか。
 彼がクリスチャンだったことを思いだして、ぎこちなく十字を切る。いや、同じ神を信じていないわたしがやっても無意味かと気がつく。
 誰もいないことを確認しつつ、左端のロッカーの前に立った。
 左右を見ながら開ける。
 耳鳴りを聞いたような気がした。
 初めて、他ならぬ自分が窮地に立たされているのだと実感した。
 ロッカーは空になっていた。
 
 
 しばらく思考が止まってしまった。
 駄目だ。
 他のロッカーを開けてみたが、どこも空になっていた。せめてビールを残しておいてほしかった。
 結局、睡眠装置(カプセル)のある部屋へと戻った。
 静寂に包まれている。
 それが妙に緊張をかき立てる。
 いま、必要なのは考えることだ。
 状況を把握し、推測し、妥当な行動を決断する必要があった。
 判断を誤れば、わたしもリュウの後を追うことになるだろう。
 まず、勤務表を思い出す。
 この部屋で(どうしても視線は蓋をしてある真ん中のカプセルにいってしまう)殺されていたハイダ、そして廊下で死んでいたリュウは、最初の勤務に当たっていなかった。つまり、わたしと同じで、船の打ち上げ後の十二時間は休憩だったのだ。
 その二人が殺されていた。
 宇宙船は一見何事もないかのように航行している。
 操縦室はどうなっているのだろうか。
 それを調べるのは、かなり重要なことだろう。
 インタフォンを見る。
 無機質な緑のライトが薄暗い部屋の中で小さく点灯している。正常に動作中であるということだ。
 しかし、通話ボタンを押すことは、やはりできなかった。
 どうすればもう少し状況を詳しく知ることができるだろうか。
 ふと、思いついた。
 船の中には、廊下の数カ所に監視カメラがあり、その映像は操縦室と、全ての倉庫内のコントロールモニタで見ることができる。外部との通信も可能だ。そして、各倉庫にも廊下ほどの性能ではないが、大切な荷物を見張るためのカメラがある。
 この部屋のすぐ隣の1-D倉庫。そこへ行けばモニタからある程度、現状を把握できるのではないか。
 扉から出ようとして、思いとどまった。
 行動に移す前に、やはり考える必要がある。
 高校の頃、同級生に頭の良い奴がいた。勉強もそこそこできたようだが、彼が才覚を発揮したのは高校で起こった殺人事件においてだった。警察が手こずっていた難事件を、彼が解決に導いたという噂が広がったのだ。
 名探偵登場ということで学校は大いに盛り上がったが、本人があまり表に出ることを望んでいないようで、当人が話さないものだから急速にその熱も冷めていった。また、そんな大きな事件が二度と起こることもなかったので、その後の活躍なんてものも聞くことはなかった。
 しばらくして、わたしが学校の食堂で昼食を食べているときに「で、考えても謎が解けない時はどうするの?」という言葉が耳に入った。隣を見ると例の名探偵が女の子と一緒に食事をしていた。
 今となっては名前も忘れてしまったが、確か東洋系で、薄い顔立ちだった。彼は肩をすくめて「もっと考えるだけだよ。納得できるまでね。誰だってそうすれば答えにたどり着けると思うけど」と無愛想な感じで答えた。
 当時のわたしにその言葉は深く突き刺さった。いや、単にその時は「いや、さすがに格好いいことを言うなあ」ぐらいに思っただけだったが、その後、様々な問題にぶつかる度にこの食堂の場面を思い出した。
 しかし、そう思っていても最善の道を選べるわけではない。良い答えを導き出す力がない者にとっては、役に立たない寸言だったと、何年か経って悟ることとなった。
 いま、久々にその言葉を思い出していた。非日常に投げ出されないと、必死になることができない。それが凡人の悲しさだ。
 こんなときに、名前も忘れてしまったあの男ならどうするだろうか。
 間違いなく、落ち着いて考え、状況を整理し、自分が成すべきことが何かを考えるだろう。さあ、わたしにいま必要なのもそれだ。探偵が事件に取り組むように、できる限り必死に考え、何が起こっているのかを見極めようとする努力をしなければならない。生き残るために。
 隣の倉庫を覗くに当たって留意すべき点。まず、内部に敵対すべき複数の人間がいるかもしれないということだ。これはこの船が海賊の類の襲来を受けているという可能性に基づいている。しかし、先ほどロッカーまで往復した間に誰にも会わなかったことを考慮すれば、そういう事実があったとしても、数はそれほど多くはないと考えられる。
 もちろん、大勢の敵がいて、別れてそれぞれの部屋の荷物を時間をかけてじっくりと吟味しているということも考えられる。それでも、一つ一つの部屋にいる人数は少ないだろうから、ある程度は太刀打ちできるという期待を持つことはできる。
 倉庫の中にはたくさんのコンテナが置いてあり、万一誰かがいても、うまく荷物の間を利用して立ち回ることもできるかもしれない。
 いや、しかし結局武器もないのではそういった行動も一時的な時間稼ぎだ。最終的な結果は見えている。見つからないことが肝要だ。
 とにかく、コントロールモニタさえ使えれば、船内の様子がわかるだけでなく、宇宙港の管制塔と通信して助けを呼ぶこともできるのだ。
 多少の危険は覚悟の上で行動しなければならない。それだけの価値はあるだろう。
 ふと、先ほどまで自分がぬくぬくと夢を見ていた睡眠装置に目がいく。
 このままあの中に戻ってまた夢を見るという選択肢もあるわけだ。
 目覚めることはないかもしれないが、いまのこの恐怖からは逃れることができる。ロクでもない夢にうなされつづけるだけかもしれないが。
 丸腰で追いつめられるような羽目に陥ったときには、ここに逃げ込みたいものだ。絶望的な状況になったら、最後の手段として夢の中へ逃げよう。
 とにかく、いまは行動するだけだ。
 わたしは決意して狭い睡眠室を出た。
 
 相変わらず、船内は静まりかえっていた。
 通路の前後に人影はない。
 隠れる場所も少ない。
 こちらには何も武器がないのだから、見つかった時点でおしまいだ。先に見つけて撤退あるいは遁走するしかない。はなはだ消極的な作戦だが、不意をついて武器を奪うなんて芸当が夢の中以外でできるわけがない。いや、夢の中でだって怪しいものだ。
 1-Dの扉はいつもと何ら変わりないように見えた。
 少し離れた場所でわたしは迷っていた。
 自動ドアの赤外線探知機の届く場所に立てば、扉が開き、倉庫の中にいる人物はドアの方を見るだろう。そして見知らぬ人物がいるのを発見すれば、当然撃ってくるだろう。
 それで終わりだ。
 さあ、わたしは考える。最善の入り方を。彼等の仲間(つまりわたしにとっては敵だ)が頻繁に部屋を出入りしている状況であれば、誰もドアの開閉など気にしないだろうが、先ほどからそのような気配もないので、まるで期待できない。
 ドアが開いたことを悟られずに入る方法はあるだろうか。
 どうすればよいのか。答えはあるのか。にわか探偵は考えるだけだ。
 そもそもなぜドアが開くことが注目を集めるのか。その要因を考えてみる。
 人は五感で状況の変化を知る。多くの場合には視覚と聴覚によってそれを察知するだろう。
 この場合、一番大きな可能性としては、ドアを開くときのモータ音でこちらの存在を知られるということだ。もちろん、倉庫の中は睡眠室ほど防音対策がなされていないから、空調やエンジン音などに紛れて気がつかれずに済むかもしれないが、そんな不確かなチャンスに命を懸けるわけにはいかない。
 そして、次の可能性。明るい廊下の光が暗い倉庫の中に入り込むことによる視覚の刺激だ。
 これは倉庫内がある程度明るければ避けられるだろう。廊下の明かりを消したいところだが、あいにくとスイッチは操縦室へ続くタラップの下にある。ここからだと宇宙船を一周している円形の廊下のちょうど反対側に位置しており、そこまで行くのはかなり危険を伴いそうだ。それに廊下の照明は一斉にしか制御できないはずだ。明かりを消すことにより、船内のどこにいるか判らない敵の警戒心を駆り立てることにもつながってしまう可能性がある。
 とにかく、倉庫の中に誰かがいるとして、全くの暗闇の中で何らかの作業をしているとは考えにくい。少しぐらい扉から光が漏れても大丈夫かもしれない。
 ただ、それでもいきなりいままでとは違う方向から大量の光が射してくると、それなりに目立ってしまうだろう。
 わたしが最初にしなければならないことは、倉庫内部の人の有無を確認することであり、これはドアを全開にしなくても、ほんの少し、中の様子をのぞき見ることができるような隙間があれば事足りそうだが、あいにくと自動ドアに「半開き」などという中途半端な概念はない。
 突然、閃く。すべてのドアに手動スイッチが設けられているはずだ。
 例えば、何かの事故などで船内の電源設備が作動しなくなった場合、ドアが開かない、閉まらないというのでは話にならないわけである。そこで、それぞれのドアには手動で開閉が行えるようになるスイッチがある。
 それを利用すればいいのだ。
 やるな、にわか探偵。
 1-Dのドアの前に立った。
 自分の思いつきを実行に移そうとして、わたしは再び躊躇していた。
 手動スイッチはドアの右下、壁に設けられた小さな蓋を開けて操作するのだが、問題はそこへ手を伸ばしたときに、ドアの人感センサーに反応してしまわないかということだった。検出される範囲がはっきりしないのだ。
 しかし、危険を冒してでもやる価値はあるだろう。
 わたしは注意深くドアの横に回りこむと、座り込んでゆっくりと右手を伸ばし始める。
 まずは壁に設けられた小さな蓋を開けなければならない。
 それは小さな金属のつまみで留められていた。
 指先が触れる。
 ドアは閉じたままだ。これならなんとかなりそうだ。
 人差し指と親指でつまみを回そうとする。思ったより固い。不自然な姿勢なので力をいれるのが難しい。
 しかし、ようやく頑固な蓋も動き始めた。
 ネジが不意に緩むと、蓋が開いてぶら下がった状態になる。
 さあ、ここからが難しい。
 立ち上がってその場を離れてもう一度扉の正面の方へ回る。
 壁に切り取られたように空いた穴にコントロールパネル。いくつかボタンがある。こいつを見たのは何年か前にこの船に初めて乗った時以来だ。『手動』と書かれた小さなレバーがある。そいつを上から下へ押し下げればいいはずだった。いや、その前に『電源』と書かれたボタンを押さなければいけないんだったか。そうじゃない。それは関係ないはずだ。これを押してしまうとこの区画のドアの電気がすべて絶たれてしまう。確かそうだった。だからレバーだけ動かせばいいはずだ。
 操縦室に行けばその辺りのマニュアルもあるのだが……
 レバーはよりによって一番左端、つまり手が届きにくい所にあった。
 再びしゃがみこんで不自然な姿勢になり、天井近くのセンサーを見上げながらおそるおそる手を伸ばす。
 ボタンに指先が触れる。緊張のあまり耳鳴りがする。指先が震えているのが判る。押してはいけない、そう思えば思うほどそれに逆らいたくなる感情も大きくなる。
 ふと、昔に他人の家のインタフォンを押して逃げるという遊びをやっていたことを思い出した。あるときボタンを押して走って逃げようとしたら、ちょうどその家の人が帰ってくるところで、鉢合わせしてしまい怒られたことがあった。
 あのときは泣いてごまかしたものだが、さて、今回失敗したらそれで許してもらえるだろうか。先に泣く練習をしておくべきか。
 強烈な誘惑を振り切って電源ボタンを越えて、その先のレバーへ手を伸ばす。
 人差し指をその先端に当てて、下へ力を入れるが、動かない。これもかなり固くなっているようだ。
 もう少し力を入れるために、人差し指の第二関節をかけようとして、バランスを崩した。
 膝をつく。
 左手で身体を支える。
 右手は突き出されたまま、レバーを越えてしまった。
 思わず上を見る。
 センサーの大きな丸いレンズと目があった。
 勤勉な装置は己の役割をしっかりとわきまえており、こちらの窮状など全く意に介せず完全に正しい反応を示した。
 ドアがゆっくりと開いていった。
 
 動けなかった。次の行動を、最善の一手を打たなければならないのに、冷静な探偵はもうどこかへ行ってしまったようだ。
 中を覗き込むのは危険だろう。それぐらいはわかった。しかし、どうすればいいのか。
 やがてここにただ呆然としゃがみ込んでいることの危険性に気が付いた。もし中に人がいたら、扉が開いたのに誰も入ってこないことを不審に思って様子を見に来るかもしれない。
 わたしは半ば這うようにその場を離れ、睡眠室の方へ逃げた。
 1-Dの前から完全に死角になる場所までたどり着いたところで一息つく。そして考える。このまま隠れてしまってはまずい。中から誰かが出てくるかどうかを、見届けなければならない。もし、出てこなければ、中に誰もいないという可能性が大きくなるのだから。
 慌てて顔を出して通路の様子を窺う。
 少なくともいまは誰もいなかった。扉ももう閉まっているようだ。
 しばらく待っていたが、静かなものだった。
 あるいは既に見逃してしまったのかもしれない。
 命がけの行為を無駄にしてしまったのだろうか。
 倉庫内に人がいたとしたら、きっと今頃警戒しているに違いない。
 どうするか。
 また考えなければならない。
 答えは同じだ。
 状況が悪くなったかもしれないが、それでも同じことをやる必要があるだろう。
 また再び1-Dの扉の前に立つ。
 横から手を伸ばす。
 コントロールパネルのボタンに触れる。押してはいけない。その先のレバーに指をかけ、今度は確実に下げることができた。
 あっけないほど簡単だった。
 わたしはおそるおそる立ち上がり、赤外線装置を見上げながらドアの前の空間に手を伸ばした。いつでも逃げ出せる準備をしながら。
 ドアは今度こそ動かなかった。
 目立たないがドアの表面に、手をかけられる窪みが設けられていた。身体を押しつけ、体重を乗せるとゆっくりと動いた。
 五センチの隙間。
 念のためにしゃがみ込んで、隙間から中の様子を窺う。
 倉庫には明かりが付いていなかった。
 壁には倉庫の番号が1-Dと光っている。それだけだ。
 とても人が活動しているようには見えない。
 安堵の息をついた。
 立ち上がって、ドアを大きく開く。
 中へ入ろうとして、わたしの中のにわか探偵が突然よみがえってきた。
 この入り口の両脇、暗闇に息を潜めて『敵』が待ちかまえていないと、どうして言えるんだ?
 わたしは勢いよく中へ転がり込んだ。肩と背中を思い切り床にぶつけたが、すかさず部屋の奥の方へと闇雲に這っていき、コンテナに頭をぶつけながら、その側面へ回り込んだ。
 そして息を潜めた。
 そのつもりだったが、緊張と疲労でかなり呼吸が荒くなっていた。
 必死に部屋の様子を窺う。
 相変わらず静まりかえっている。
 結局、この部屋には誰もいないということだろうか。
 入り口へ、警戒しながら暗闇の中を戻る。いつ頭に銃口が突きつけられるのか恐れていた。その時の台詞はきっと「いろいろとごくろうさん」といったこちらの苦労を嘲笑するようなものになるだろう。わたしが敵ならきっとそう言う。ようやく壁にたどり着いて照明のスイッチを入れる。同時にしゃがみながら振り向いて一番手近なコンテナの方へ転がる。またしても背中をしたたかに打ち付けた。
 広い倉庫。灰色の壁と床。
 積み上げられた緑色の荷物。
 見慣れた光景だった。
 動くものはなにもなく、聞こえるのは空調の静かにうなる音とわたしのせわしない呼吸だけ。
 どうやら、本当に無人のようだった。
 まったくいろいろとごくろうさんだ。わたしの中の探偵はため息をついているだろう。気分を損ねて当分は出てきてくれないかもしれない。
 額が痛いと思って押さえると、痛みが増した。手のひらを見ると血が付いていた。
 
 電気は消しておいた。いきなり誰かがこの部屋に入ってきたときに備えてだ。重たいドアも少しの隙間を残して中途半端に閉めておいた。そこに指をかけて開ける方が楽だとわかったからだ。
 この部屋もしばらくは安全そうだが、ハイダとリュウの死体があったのは動かし難い事実だ。油断はまるでできない。
 目が暗がりに慣れるのを待って移動し始める。
 今度ばかりは注意深く進んだので、傷は増えなかった。
 あいにく、壁際の通信機はコンテナの陰になっており、そこから入り口の様子を見張ることはできなかった。ということは、通信機を見ている時に誰かが入ってきてもわたしの姿を見られずに済むということも言えるわけだ。
 コントロールモニタのスイッチを入れると、指示待ちの画面が表示される。正常に機能しているようだ。
 まず最初に船内カメラの映像を選択する。倉庫の内部に一つずつ。そして廊下に三つのカメラがある。とりあえず『自動反応モード』を選択する。
 このモードでは、カメラの視野で何かが動くと、自動的にその映像が表示されるのだ。
 『検索中』の文字の向こうで、めまぐるしく映像が切り替わる。
 その後で暗い画面になり、『現在対象物がありません。引き続き監視を続けます』と表示された。
 いつもは真っ先に操縦室が表示されるものだ。必ず誰かが通信機の前に座っており、わずかではあれ、動いているからだ。
 なんとなく先を見るのが億劫になってくるが、画面のメニューから直接操縦室の映像を呼び出す。
 見慣れた光景が映し出される。狭い空間に並ぶ椅子。計器類。主スクリーン。
 半ば予想してはいたがそこには誰も座っていなかった。
 わたしは小さくため息をついた。
 この船の大部分はコンピュータ任せで、一度発射されてしまえば、あとはほぼ自動操縦で目的地にたどり着く。
 特に、このエアロクラフトタイプは旧タイプの液体水素を使ったロケットとは違って、発着時の制御がとても楽なので、最新の機体では発射さえ全て自動化されていると聞く。
 それにしたって、いくら何でも航行中の操縦室に誰もいないということはあり得ない。担当者が、暇で眠っているにしろ、座席には座っていなければなるまい。
 いや、完全に無人ではなかった。
 一番右端にある、いつもならギリス船長が座っている椅子の、背もたれの向こう、横向きに頭らしきものがわずかに見えている。
 きっと、椅子に座っている人物はうなだれるように首をかしげ、力なく座っているのだろう。
 これが自動反応モードに引っ掛からなかった原因として、容易に思いつく可能性が一つある。
 こいつが一切身動きをしていないということだ。
 
 
 最悪の事態を想定しなければならないのか。
 外部通信のボタンを押そうとして、果たしてそれが可能なのだろうかという疑問がふと浮かぶ。この船に起こっている非常事態を考えれば、通信機が壊されていても、不思議ではない。
 これがもし通じないとなると……
 緊張しながら『呼び出し中』という文字の点滅を見つめる。
 画面が明るくなる。
『管制室への回線が接続されました』と見慣れた文字が表示される。
 思わず拳に力がはいる。うまく地球に繋がったようだ。
 見慣れた顔が映る。ギャザ・ホワイトだ。彼とは何度か飲んだことがある。奴の無愛想な表情がこれほど頼もしく見えたことはない。
 個人的な付き合いが深いわけではないが、管制管理部の人間の中では親しいほうだ。趣味はテニスということも知っている。非常に真面目で仕事の相棒としては申し分ない。密かに『変わり者の宇宙人』などと呼ばれている。変化に乏しい表情のためかロボットのようだとも言われている。もちろん、そんな精巧なロボットなど存在しない。それから、重要な情報としてかわいい妹がいると評判だった。彼の口からはそんな話が出たことはないが、まあ、それはわたしが先行きの極めて不透明な派遣のアストロノウツだから、と思うのは僻(ひが)みだろうか。
「ヴィーナス221だ」
 ホワイトが目を見開いたのが、やや不鮮明なモニタでもわかった。普段からあまり物事に動じない男にしては珍しい表情だ。
「おいおい、ロイドじゃないか。いったいなにやってんだ? どういうことだよ」
「緊急事態だ」
 通信のタイムラグもまだ数秒なので、会話もそれほど困難ではない。
「ちょっと待てよ。ああ、本当だ。確かに君も乗員名簿に記載されている。五人だと勘違いしていたよ。密航かと思ったぞ……で、そこはどこだ。操縦室じゃないな」
「ああ。倉庫だ。ちょっと操縦室に行けなくて困っているんだ」
「君は……この飛行計画によれば遅番だが。そうか。カプセルで寝ていたわけだな」
「ああ。さっき目が覚めたばかりだ。悪い夢を見ていたんだが、起きても悪夢の中だった。いまのところ僕以外の生存者がいるかどうかもわからない」
 ホワイトのやつ、今度は口を開いたままだ。
「Sの緊急事態だ」
 わたしはホワイトにいままでの経緯をざっと説明した。
 彼の表情が引き締まる。
「わかった。近辺のステーションから警備隊の出動を要請する。それから目的地のブランクーシには連絡したのか?」
「いや、まだそれどころじゃないんだ」
「こちらから説明しておこう」
「助かる」
「そういうことであれば、近くのステーションか有人基地があれば進路を変えた方がいいんじゃないか。君と荷物の安全を確保するためにも」
「そうだな」
「君は大丈夫なのか?」
「わからない。まだ船内を自由に回れないんだ。だから進路の変更をするにしても、しばらく時間がかかると思う」
「どうして?」
 思わず苦笑する。距離の隔たりを実感する。彼は地球にいて、地面の上の安全な職場で通信機の前に座っているのだ。
「いいか、こうなったのは自然現象じゃないんだ」
 喋りながら、なんとなくコンテナの一つに目をやっていた。入り口から漏れた光が当たって、内容物についての記述がかろうじて読みとれた。珈琲の粉らしい。冷凍乾燥したものではないぞ。いざとなったら、ここから頂戴するという手もあるわけだ。積み荷に手を出すのは御法度だが、非常時に自分の命を守るためには、船内のあらゆるものを利用することが許される。と航行規則にも書いてあった(と思う)。しかし、肝心のコンテナの鍵を持っているのは船長だ。再会できるだろうか。
 さて、珈琲の種類はなんだろうか。ちょっと暗くて読みとれない。まあ飲める機会が来るまでのお楽しみだ。
「誰かがわたしの寝ている間にこの凶行を……」
 わたしは口をつぐんだ。
 キリマンジャロ。
 コンテナのラベルが突然読めるようになった。
 わたしの中の探偵が警告を発する。突然視力がよくなったわけではない。
 光の当たる範囲が変わったということだ。
「おい、どうした。ロイド?」
 説明している暇はなさそうだ。
「また後で連絡する」
 それだけ告げると一方的に通信を切った。
 ドアが正面に見える場所へ駆け寄り、コンテナの陰に隠れて様子を窺う。ずいぶんと距離はある。
 暗い倉庫内に、廊下の光が一筋漏れてきている。じっと見ているとその隙間は、不規則に遮られ、まるで生き物のように長さを変える。
 扉の向こう、つまり廊下で誰かが動いているということだ。
 倉庫の扉が手動になっているので、とまどっているのか。
 わたしは考える。
 これは千載一遇の好機ではないだろうか。
 あの重い扉を開けるのは時間も体力もそれなりに消耗するはずだ。だとすれば相手が疲れ切って部屋に一歩を踏み入れたそのときこそ、こちらが不意を付くのに最適な瞬間になるのではないか。
 そのようなことを思いついた自分の冷静さに満足しながら、すかさず行動を開始した。
 闇の中を早足で扉を目指す。足音をたてないよう、転倒したりしないように、あくまで慎重に。約十メートルの距離を進みながら、扉の右か左かを考えた。
 侵入者は最初にどうするだろうか。
 おそらく、明かりのスイッチを探すだろう。
 それは向かって左側にある。
 だとすると、わたしは右側に隠れるべきだ。
 そのとき、ドアの隙間に見えていた影が姿を消した。
 立ち止まって様子を窺った。
 倉庫に入るのを諦めるとは思えなかった。この部屋のドアが手動になっていることだけでも十分に怪しいのだから、なんとしても中の様子を見ておく必要があるはずだ。
 次の瞬間、ドアがモータの音と共にあっけなく開き、その向こうに人型がシルエットとなって浮かび上がった。
 迂闊だった。ドアを手動で開けるよりスイッチを自動に戻す方が楽に決まっている。
 そして、懐中電灯の光がわたしを捕らえた。

第3回に続きます(4/1アップ予定です)


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