短編小説【秘密の友達】(4593文字 無料)

「目が一つで鼻がなくて鋭い牙を持ってて空を飛ぶものなーんだ」
 コンパの席で賢治の台詞を聞いた時、思わず奴の顔を見た。
「答えはお化けでしたーっ」
 大きな声の後に女の子達の笑い声が響く。馬鹿馬鹿しい。その前には上が洪水、下が大火事で答えはお風呂。子供の頃のくだらないことをいつまでも覚えていて、そんなネタで回りは大受けになる。結構なことだ。
 呆れた俺は何もない天井を見上げる。ため息を一つついて乱暴にビールを飲みほした。
 やはりこんなところに来るのではなかった。
 
 数日後。賢治が俺のアパートに電話をかけてきた。
 今から寄ってもいいかと訊ねるので、勝手にしろ、ただし相手はしないぞと答えると、両手に酒とつまみをぶら下げ、のこのこやって来やがった。
 酒はやめたんだと俺が言うと「ご冗談でしょう」と勝手に上がり込んで座り込み、ビールの缶を放ってきた。
 放物線を描いて胸元に飛んできたそいつを、思い切り振って投げ返すと、さすがにショックを受けたようだ。
「なんだよ、この前のコンパではすごく飲んでただろ」
「あれ以来やめた」
 そう答えると、ははーんと間の抜けた声を出しながら訳知り顔でうなずいたのでちょっと腹が立つ。無視して俺は本を読み続ける。
 一人でビールを飲み終えた賢治が、いきなり「妖精が見たいんだけど」と切り出してきた。
 思わず失笑する。
「もう泥酔してんのか」
 しかし奴は「そりゃこの前のお前さんだ」と首を振る。
 まったく、自分の迂闊さに対する怒りをどこへ持っていけばいいのか。
「さて、なんのことやら」
 と怪しい奴以外、口にしないような台詞で惚(とぼ)ける。
 賢治が二本目のビールの缶を開けながら「このあいだ、シャーロック・ホームズの話をしたのを覚えてるか」と訊いてくる。
 「ああ、何となくな」と答えたけど、記憶の隅っこにそのようなものがうっすらとあるような気がしないでもないというレベル。
「酒の席で、誰もが知っている名探偵の魅力を説明しながらミステリの素晴らしさを広めるのが、俺の得意技の一つだ」
 そうだ。独りで調子よくしゃべり続けている姿をふいにはっきりと思い出すことができた。
「女の子達が引いてなかったっけ」
「それも得意技の一つだ」
 思わず笑ってしまう。
「でな、作者のコナン・ドイルが晩年になって心霊現象や妖精なんかを信じるようになったのは嘆かわしいという話になっただろ。なったんだよ。俺が言うんだから間違いない。そのとき、べろんべろんに酔っぱらったお前が俺にしつこくからんだんだ。妖精を見たことがあるのかって。無論ないよと俺が答えると、お前はそりゃそうだろうって人を馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。まあ、俺が適当に取りなして場が盛り下がるのは避けた。というか、既に女の子達は俺の話を聞いていなかったけどな」
「哀れなミステリ伝道師だな」
「酔っ払って人に絡(から)む奴よりはマシだよ」
 残念だが、その通りか。
「お前の態度にも腹がたったけど、そんなのはいつものことだ。ただ俺はそのときのお前の表情が気になったんだ。もしかしてこいつは見たことがあるんじゃないかってな」
 俺の答えを待つ沈黙。
 知ったことかと思ったが、自分の愚行が招いた事態だ。しょうがないので「妖精なんてどこにも存在しません。従って見ることができません。証明終わり」と名探偵よろしく自信ありげに言ってみるも、奴は全然納得していない様子。俺に探偵としての素質はないらしい。
「そもそも、大学生にもなったいい大人が、どうしてそんなものを見たいなんて言い出すんだ?」
 と話の切り口を少し変える。奴はうーんと唸って腕を組み、ゆっくりと「そうだなあ」と言いながら天井を見る。俺はその視線を追った。
「なんかさあ、俺は昔から違う場所にいるような気がしてたんだ。本来いなければならないところはここじゃない。少なくともこの時代のこの場所じゃないような気がするんだ」
 思い詰めたようなその表情を見ていると「お前、もしかして馬鹿じゃねえの」と正直な感想もぶつけたくなるというもの。奴は肩をすくめた。
「そうなんだ。馬鹿馬鹿しいことなんだよ。こんな思いを抱くのもそれほど珍しいことじゃないんだろうな。だから繊細な若者にありがちな気の迷いと思ってもらって結構。それはそれでいいんだ。若いってことも繊細ってことも否定はしない」
「愚かってことも追加な。できれば額に書いておくといい。忘れないようにな」
「現実を受け止めてその中をたくましく歩いていく覚悟はできているつもりだ。ただな、どうしても考えてしまうんだ。なにか別の世界があって、そこに属している人達がいるんじゃないかと。俺は違ったとしても、俺の知らない材料でできた景色を見ている人達がいるんじゃないだろうかと。それが知りたい」
「知ってどうするんだ?」
「いや、それはわかんないけど」
 まあ、したり顔で何か言ったらぶっ飛ばしていたかもしれない。腕力に自信はないが。
 
 俺達はアパートを出て歩き始めた。「どこへ行くんだよ」という質問は黙殺。風は柔らかく日射しは穏やか。公園で子供が遊んでいる。ブランコの横で若い母親達がなにか楽しそうに話している。長閑な土曜日だ。
 公園の側(そば)に団地がある。五階建ての細長い棟が延々と続く。建物の間を歩いていると賢治が「こういうところって、なんか異質な感じがするよな。自分が招かれざる存在になったみたいだ」と呟く。そんなふうに思ったことがなかったのは俺が団地育ちだからか。こんなきれいな場所ではなかったが、同じ建物が並ぶ景色には安心を覚える。そこから離れて暮らすようになったときに感じた違和感や寂しさを思い出した。
 もうずっと前のことだ。
 敷地の奥で細い川にぶつかる。くたびれた緑色のフェンスが川に沿って延びている。
 泥の匂いに包まれながらしばらく歩いた。賢治は何も言わずについてくる。
 やがて、団地の薄暗い自転車置き場にたどり着いた。
 整然と並ぶ自転車とフェンスの間に、小さな女の子が一人で立っていた。手にした赤いボールを金網の格子にあてがっては「ここからは入れません」などと喋っている。
 俺は少し離れた場所からその少女を指差す。賢治はしばらく見ていたが、首を捻(ひね)った。
 俺達は団地を離れた。そのまま二十分ほど歩いて駅裏の商店街へ。最近になって近所に大きなスーパーが進出してきたため、すっかり人がいなくなってしまった通りだ。
 ざっと見ても四割ほどはシャッターが閉まったまま。流行らない店を並べて売っているように見えるな、と賢治に言おうかと思ったが、そのおもしろさを説明するのが面倒だったのでやめた。
 古い和菓子屋と文房具屋の間に四十センチほどの隙間があった。しゃべっている声が聞こえたので覗き込むと、五メートルほど先に十歳くらいの男の子が一人で座っていた。薄暗い中「橋はもうすぐ完成します」と小声で言いながら指で壁に何か描いている。こちらに気がつく様子はまったくない。俺達はそれをしばらく見てから商店街を離れた。
 駅の西側には派手な名前の小さなホテルがやたらと密集している場所がある。昼間はほとんど人がいない。夜がどうかは知らない。
 ある建物の裏側で中学生くらいの女の子がゴミ捨て場の低いブロック塀に腰掛けていた。黒い大きなゴミ袋を前にして何をするでもなく虚空を見ている。彼女は一瞬だけ俺達を見たが、表情を変えることもなく、またぼんやりとした表情になった。
 
 一時間ばかりの散歩を終えて俺達は定食屋に入った。必要以上に威勢のいいおっちゃんがやっている学生向けの小さな店だ。
 いつものメニューを注文して、水道直送の水を飲む。
 ついに賢治が口を開いた。
「で、そろそろ答えを教えてくれるのか? 今日のあれはどういう意味なんだ」
 俺は思わず苦笑した。答えを教えろときた。そういえばこの前、謎々を出していたなあ。
「お前、あの三人を見てどう思った?」
「うーん、子供ってのは一人でもなにか遊びを見つけるんだなって思ったよ。子供がぼんやりしているのはそれほど奇異ではないけど、少し大きくなるとそれも許されない。ただの怪しい奴になっちまうからな」
「それだけか」
「なんだよ。他になにかあったのか?」
「妖精が見えなかったか? 」
 そう言うと賢治はたいそう驚いた。予想通りの反応をしてくれるとおもしろい。
「え、どういうことだ。もしかして、あの子達の周りに妖精がいたのか?」
 俺はうなずいた。
 賢治は「そうだったのか」とつぶやいて首を振る。
 やれやれ、俺のこんな話を冗談とも思わないとは恐れ入った。
「ああ、やっぱり俺には見えなかったんだ。残念だが………だったら、お前には見えたんだな」
 その問いに、俺は首を振った。
「いや、俺にもなにも見えなかったよ。あの子達の様子から多分そうだろうな、と思っただけだ。妖精ではなく、妖精が見える人達をお前に見せた」
「なんじゃそりゃ」
 拍子抜けしたような表情になった。しょうがないので解説をしてやる。
「つまり、やっぱり妖精なんていないんだよ。少なくとも俺はそう思っている。ただ、居なくても見えることはある。自分で勝手に作り出すんだ。当人にだけは存在する何かを」
「……それってただの妄想ってことか」
「まあ、平たく言えばそうだ」
 賢治はしばらく考えているふうだった。こんな話で納得してくれるかどうか、ちょっと俺にもわからない。別にどう思われようと構わないが。
「なんでそんなふうになるんだ」
 知ったことかと言いたかったが、今後いろいろと訊ねられるのも面倒だったので、自分の考えていることを話すことにした。
「例えば自分自身の別の人格を作り出すのと同じだと思う」
 奴はまた黙り込んだ。
 そして、訊ねてきた。
「それは、いったいどれぐらいの歪みだろうか」
 その表現はちょっと気に入った。
「立ち上がること歩くこと。言葉を聞くこと、目を閉じること。果ては息をすることも。そういった些細なことが全部だ。少しずつ少しずつ積もってそれを作り出していくんだ。向かう先が闇なのか、あるいは光なのか、俺にはわからない」
「そうか」と賢治が小さく言う。
 ニラレバ定食が運ばれてきた。ここの濃い味付けが俺は大好きだ。
「なあ、そしたらな、もし一人ひとりにそれぞれ自分の妖精がいたとしてな、あの子供達がもし出会っても、お互いに相手の妖精は見えないわけだな」
「そりゃそうだ。ただの思いこみだからな」
「そしたら、やっぱりそれは、そんなものいないってことになるんだな。違う材料でできた世界を見ていても、それは決して他人と共有できないんだ」
「最初に俺が言った通りだろ。いないから見ることはできませんってな」
「じゃあ、もしかして……」
 彼は一瞬俺を見て、そして親指で鼻を掻いて黙り込んだ。潔(いさぎよ)いなあ。まあ、その先の台詞は結局無意味だしな。察しのいい賢治のことだ。俺の答えだって大体わかっているだろうし、その予想はきっと正しい。俺がこの件についてこれ以上言うことはない。二度と。
 俺達は黙ってニラレバ定食を食べた。
 そもそも、あのコンパの席でこいつがあんなことを言ったのが発端なんだけどなあ。
 目が一つで鼻がなくて鋭い牙を持ってて空を飛ぶもの。
 天井を見上げた。
 それにかなり近いものを俺は知っている。

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