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まだ鮨だけの関係

    日用品を買い終えた僕は、JR大阪駅から内回りで一分電車に揺られ、約束の時間ちょうどに福島駅に着いた。

 改札を出て、高架下に描かれた七福神を撮影していると、「着きましたか?」と碧さんからダイレクトメールが届く。駅を見遣るとすぐそこに彼女の姿があった。
「お久しぶりです」と挨拶も簡単に、閑散とした福島の飲食店街を抜け馴染みの鮨屋へと歩く。

 碧さんとは鮨友達だ。数ヶ月に一度、美味しいカウンター鮨を食べに行くだけの間柄であり、それ以上の関係になる見込みはまるでない。彼女は、「人生で思い通りにならなかったことが一度もないんです」と主張するほどにすべてを持ち合わせている。人間性も、見た目も、頭脳も、就職先も、家柄も、全てが完璧で、挫折したことがないらしい。それでも嫌味に感じないのは、本人の自覚無自覚に関係なく少なからぬ努力の結果だと僕は思う。そんな麗しい女子と、これから鮨屋に向かうのだ。

 ここ最近の気候は乱高下していて、つい二日前にはマフラーが必要だったのに、この日は薄手のコートだと汗ばむほどだった。春がすぐそこまで来ていることは、僕の鼻も訴えている。

 徒歩五分ほどで暖簾が見えた。
 木のぬくもりと高級感を併せ持つ店内は、鮨を食べる気分を高めてくれる。広々としたカウンターに案内され、祝いの席が幕を開けた。非日常の鮨には何かと理由を付けなければならならず、今回は祝御卒業を名目としている。

 まずは香るエールで乾杯。

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 握りの前に、菜の花とあさりの蒸し焼き、真鯛の刺身(三重)、歯鰹のタタキ(鹿児島)と順番にいただく。菜の花は特有の苦味もなく、甘味が引き立てられ柔らかく仕上がっている。タタキは藁の香りが香ばしい。これだけでも既に満足できる味わいだが、本番はこれからだ。

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 めっちゃ旨い。ダイヤが彫られたような細かい切り込みで、とろけるいか。

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 めっちゃ旨い。瑞々しく、翌朝は肌に潤いが戻りそう。一週間寝かせることで旨味が引き出されている。

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 めっちゃ旨い。握られた後に注射を打たれていたので、「新型コロナウィルスのワクチンですか」と訊ねると、「グルタミンです」と職人は言った。旨味に凝縮した旨味を打ち込み、至高の領域へと到達させている。

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 めっちゃ旨い。ここに来て、シャリがかなり小さいことに気付く。人差し指第二関節程度のシャリをネタが包み込んでいる。洗練されたバランス感。

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 めっちゃ旨い。たしかな存在感があるが、いつの間にか姿形はなくなりそこにはただ旨味だけが残った。

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 めっちゃ旨い。口に運ぶとまずは強烈な海苔の薫りが嗅覚を支配し、舌に触れるとほろりと崩れる鰻。

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 めっちゃ旨い。もはやカステラ。

 ここからは追加で。

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 中トロ
 めちゃくちゃハイパーウルトラ旨い。

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 白海老の黄身醤油
 感動のあまり碧さんと小躍りしてしまった。たけのこたけのこニョッキッキを十数年ぶりにやった。

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 雲丹
 時価だった。このお方がお会計をかなり底上げしたと思う。ただ、めちゃくちゃハイパーウルトラアルティメット旨い。

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 真鯛の揚げ出汁雲丹のせ
 人生で食べたありとあらゆる食べ物の中で三本の指に入る美味しさだった。食べ物で純粋に感動するという経験がまだできると分かって嬉しかった。これだから追加注文での挑戦はやめられない。

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 芽ねぎ
 握りの締めに相応しいと個人的に思う。美味しい鮨屋には必ず存在する影の王者。

 全体の締めは赤だしで。握りとともにいただく日本酒と白ワインも美味しい。ここはすべてが美味しい。途中で交換されたおしぼりにはヒノキの香りが染み込んでいて、鮨屋にいながらにして森林浴ができた。鮨屋はアミューズメントパーク。

 楽しく美味しい時間はあっという間に終わり、閉店とともに店を出た。緊急事態宣言下においては二軒目にもいけず、淀屋橋を目指して二人で歩いた。碧さんは、黒のワンピースに白くて薄手のダウンを重ね、首元にはふわふわのマフラーを巻いている。歩きながら、過去の恋愛について話した。

    スカイビル、大阪駅を抜けて、「喉乾きません?」とローソンの前で碧さんは言った。「喉が渇いたのでコーヒーを飲みましょう。負けた方の奢りで。じゃーんけーん」と、いきなり始まる。碧さんはチョキで僕はグー。「ホットかアイスどっちにしますか?」と言って彼女はPayPayで支払った。黒いストローを挿した。

 健全な鮨友達なのでラブホ街も気にせずひたすらに話した。女子の赤裸々トークを聞く機会はなかなかないので、架空の物語のようだった。しかし、あまりにもオープンで、他人事とは思えない部分もあったし、歯痒い感じがした。「それはそのままコラムになりそう」なんて言っていると、もう淀屋橋に着いていた。大阪の街明かりが淀川の水面をオレンジや緑に照らした。話し足りなかったので、あともう何駅分か歩くことにした。中央公会堂の近くでは相変わらずドラマの撮影をしていた。

 バラ園やリバーサイドカフェを通り過ぎると、いつの間にか碧さんのストローはなくなっていた。カップに直接口を着けて飲む姿を僕は横目で見た。ずっとこの時間が続けばいいのにと僕は内心願っていたけれど、時計は22時を回ろうとしていたし、橋の向こう側にはもうテレビ大阪と白く光る大阪城が見えていた。大阪城にレンズを向けてみたけれど、単焦点だから小さくしか写らなかった。

 線路沿いを歩きながら「もし大阪配属になったら一緒に住みましょう」と、ウソかホントか分からない表情で碧さんは言うので、僕はドキリとしつつも、「そうしましょう」と軽いノリで返した。アルコールはまだ抜けていないようだった。
 「でも、私は自分の時間も欲しいからなー」
 「じゃあ、その間は大阪城に散歩に行くようにするよ」
 「めっちゃよくできた彼氏やん」
と、妄想を膨らませた会話の中で浮かんでいた。

 まだ歩けそうだったけど、もう充分な気もして電車に乗った。車両の人はまばらで土曜日の夜らしからぬ空気だ。三月には片道切符で一人旅に行くらしく、「一緒に来てもいいんですよ」と言っていたので、タイミングが合えば流氷を見たいなと思った。

 この日は前以上に親しくなれた気がしていたら、「もっと知り合いましょう」と碧さんは微笑んで電車を降り、窓の外からこちらに手を振った。

    僕もしばらくして降りて、貰ったチョコレートを揺らしながらスキップで帰った。

    つづけ

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