【エッセイ】帰納的な学び方と演繹的な学び

人が物事を理解するのには、2種類の方法があるように思う。
ひとつは帰納的な学び方ともうひとつは演繹的な学び方だ。

帰納的な学び方とは、ある具体的な事象をいくつか学ぶことで、その各事象の共通点や類似点を整理し、一般化する方法である。(具体→抽象)

例えば、学校の勉強で言うと、河、汗、汁、液などひとつひとつの漢字を勉強していく場合、これらの漢字に共通して「さんずい」がついているのが分かる。なるほど、この「さんずい」がついている漢字は水に関係するものなのだなと理解する。こうして、「さんずい」=「水に関係するもの」という法則を具体から会得するようなものだ。

こちらの学び方は、特に意識せずとも普段の生活の中で行っているだろう。
また、自らが知識を持っていない領域について学ぶときにはこの学び方をとらざるを得ない場合も多い。

一方、演繹的な学び方とは、一般的な法則を知識として会得しておき、その法則を具体例に当てはめることで事例を知るという方法である。(抽象→具体)

先の漢字の例で言うと、「さんずい」=「水に関係するもの」という一般的な法則を初めに知識として知っておくようなイメージである。こうすることで、さんずいのついた漢字を習得する際に、意味を理解しながら、効率的に会得できる。

このように書くと、帰納的な学び方よりも演繹的な学び方の方が効率がよくて正しい学び方のように思えてくる。
しかし、それほど学びという物は単純なものではない。

帰納的な学び方と演繹的な学び方を混合していくことが大事である。

もし、演繹的な学び方のみで学びを深めていこうとすると、抽象的な一般法則を知ることが最終目標になってしまいがちになる。

普通学びというものは、一般論な法則を知るだけでは張りぼての中身にない知識になってしまう。具体的な利用ケースや事象を理解した上での一般論というものが血の通った知識なのである。

さらに言うと、そもそも元になる一般的な法則が見つかっていない場合もある。
そのような場合、ある程度自力で帰納的な学び方で一般法則を予測する必要がある。

それは、いくつか例を挙げて、その例に当てはまる法則を見つけ出す作業である。さらに言うと、それに加えて、自らが予測して作り上げた法則に別の新しい事象を適応し、正しいか検証を行うことが重要である。そして、さらにフィードバックする事で、予想を確かなものにアップデートをかけていくのだ。

こうして学んだ知識は、世界で唯一自分だけが持っている新たな生きた知識となる。
他の人も後々一般論として同じ知識を得ることができるかも知れないが、自分で見つけた、あるいは作った知識は、生きている、血が通っている、そして何より使える知識となる。

しかし、この方法は、多くの犠牲を伴う。
やり方も難しいし、正しいのか不安になるし、時間もかかる。失敗する事だってある。

それでも、この複合的な学び方は人生の中で絶対に挑戦すべきものだと思う。

それぐらい大きな価値のある知識になり得るだろう。

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