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【SSW11:STORY】ありのままの自分で、シンガーとして、誰かの道しるべになりたい・&CITY

ピアノ弾き語りシンガーソングライターの&CITY(アンドシティ)は、幼少期から音楽の道を志すも一度は諦め、就職・上京・転職・結婚など人生経験を積んできた。現代女性のリアルを生きてきた彼女が、シンガーとして伝えたいメッセージとは。

奄美大島で開花した音楽的素養

鹿児島県出身の&CITYがピアノを弾くようになったのは、3歳のころだ。

「幼稚園にピアノの先生が来てくれて、お迎えを待つ間、レッスンを受けていたんです」。

延長保育のような感覚で始めたピアノだったが、いつの間にかのめりこみ、卒園後も同じ先生の教室へ通い続けた。

「スズキ・メソードというオリジナルの教科書にそって基礎を学びました。たとえば『きらきら星』を6パターン弾くとか、アレンジを変えながら同じ曲を何度も練習していましたね」。

ピアノだけではなく、幅広く『音』への感受性が鋭い子どもだった。

「物心ついたころから、CMを丸暗記するのが得意でした。歌はもちろん、登場人物のセリフやサウンドロゴまで全部コピーしていたんです。今でも10年前、20年前のCMを再現できますよ。歌うのも普通に好きで、家族や親戚の前でよく披露していました」。

そんな彼女の才能が大きく花開いたのは、奄美大島の地だった。

「父の仕事の都合で、鹿児島県内で転勤を繰り返していました。奄美へ引っ越したのは、私が8歳のときでした」。

自然と音楽が根付いている生活に、衝撃をうけたと言う。

「奄美では、ことあるごとに祭りをして、歌って踊るのが日常なんです。農作物が育つように祈る歌とか、奄美がアメリカから返還された歴史と太陽がのぼるイメージを重ねた歌とか。なにより、みんな歌うことに抵抗がありません。『下手だから歌いたくない』って人はいないし、近所に住んでいる普通のおじさんが上手かったし、誰もがシンガーという環境でした」。

それは、音楽の起源を感じる世界だった。

「小学校では三味線を習うだけでなく、貸し出してもらえるから、みんな弾けるようになります。お祭りのときは、当然のように太鼓を叩く順番が回ってくるので、誰に教わるでもなく、見よう見まねで覚えました。音楽には『誰かに伝える』っていうのもあるけど、『一緒に歌って演奏して気持ちを盛り上げる』っていうのもあるんだな、と、体感しました」。

ピアノは先生を変えて習い続け、コンクールにも出場。相変わらず歌うことも好きで、ときにはプロデューサーごっこをして遊んでいた。

「簡単な曲を作って、妹たちに歌い踊らせていました。親を喜ばせるのが楽しかったんですよね」。

小学校3年生からはバスケットボール部に所属。

「奄美は野生児が多くて、みんな木登りや釣りができるんです。そういう子たちと仲良くなりたくて、自分も体を動かせるようになろうとしました」。

賑やかで活発な子ども時代を過ごした&CITY。しかし中学校2年生になり、再び鹿児島市内へ引っ越すと同時に、思春期へ突入。内気な少女へ変貌した。

「周りにどう思われるかが怖くなったんですよね。急に口数が減ったので、親はびっくりしたようです」。

寡黙になった彼女は、音楽やアートを通じて自己表現を行うようになる。

「なんとなく曲を作ってピアノを弾く、自分の思いをピアノに乗せるということを始めました。親が『それは何の曲?自分で作ったの?』と声をかけてくれて、嬉しくて、コミュニケーションとして発展していきましたね」。

高校では最初、ハンドボール部に所属したが、怪我により書道部へ転部。普通の習字にくわえて、創作というジャンルに熱中した。

「ワープロで打たれた三行くらいの文章を、どんな風に書くかを考えるんです。たとえば魚についての詩を、魚っぽい形に書くとか」。

絵を描くことも好きだった。

「友達から紙を一枚渡されて、『自由に絵を描いてほしい』と頼まれることがよくありました。飛びぬけて上手かったとは思いませんが、万人受けしやすい画風だったのかもしれません。担任の先生や親にも、絵の方向に進むと思われていたみたいです」

実際、多方面に興味を持っていた&CITYは、卒業後の進路に迷ってしまう。

「美術科への進学を視野に入れて勉強しつつ、音楽科にも関心があったので、声楽とピアノを高3まで習いました。でも最終的に、妹が二人いることも考えて、地元の国立大学で家庭科の教員免許をとることに決めました。家庭科は、生活していくうえで絶対必要だし」。

堅実な選択は、将来を見据えてのことでもあった。

「親に『いつかは芸能関係の仕事がやりたい』と伝えたら、『国立大学に行くぐらいの根性を見せてくれたら認める』と言われたんです。勉強は苦手で、最初の模試ではE判定でしたが、がんばりました」。

入学後は教員免許取得のため勉学に勤しみ、テニスサークルにも所属するなど、大学生活を謳歌した。

一方で、「シンガーになりたい」という思いも着実に育っていった。鹿児島県内のボイストレーニングスクールに通い、夏休みにはエイベックス主催の短期合宿に参加。幾つかのオーディションに挑戦した。

だが大学3年生のとき、教育実習のさなかに悲劇が起こる。

「毎日、校庭で、体育祭の指導をしていたんです。そのころは桜島が噴火し続けていて、火山灰が凄くて、喉が痛くて。気づいたら声が出なくなっていました。病院に行くと、お医者さんから『しばらく声を出してはいけない。一生歌えなくなる』と言われました」。

医師の指示により、あえなく音楽活動をストップ。シンガーを目指す気持ちも途切れてしまった。「心のどこかで、『また再開するだろうな』とも思っていましたが」。

さらに両親の転勤が決定。中学生の妹の面倒をみなければならないという事情もあり、大学卒業後は鹿児島県内の中学校に就職した。

一度は音楽への道を諦めた彼女だったが、「教師として働くうちに『やっぱり東京へ行って歌をやろう』って心が固まったんですよね」と振り返る。

「私は家庭科を教えていたんですけど、子どもから『家庭科』について相談されることは、ほとんどありませんでした。彼らが抱えている悩みって『やりたいことがみつからない』というような個人的な話が多いんです。

そんな生徒たちに対して自分なりに答えていくなかで、『私がやりたいことは、家庭科という科目を教えることじゃないな』って。誰かが悩んでいるとき、ちょっとでも気持ちが落ち着いたり、解決策を見出すきっかけになったり、道しるべになれる存在でありたいと思ったんです」。

かつて火山灰で痛めた喉も、2年の療養を経て完治していた。

退職の際には、体育館を借り切って弾き語りライブを開催。

「教頭先生まで見に来てくれました。子どもたちは泣きながら聞いてくれたり、お返しに逆サプライズをしてくれたりして、感動しました」。

当時の生徒たちとは、今でも交流があるという。

上京・転職・結婚を経て、&CITYとして活動開始

満を持して上京した&CITYだったが、すぐに音楽活動を始めることはできなかった。「東京という街を知ることと、はじめての一人暮らしで、いっぱいいっぱいでした」。

やりたいことがふくらみ、美術系の専門学校にも通いだした。

「1年目は歯科助手のバイト、2年目には広告系の会社に就職しつつ、アートを勉強しました。平日は仕事をして、休日は学校、みたいな」。

学んだことを生かして仕事に励んだ結果、27歳で課長職に任じられるまでになった。

「『東京でOLをやってる自分』に酔い始めて、楽しくなって、バリバリ働いていました。でも課長になったとき、『本当にこれでいいの?音楽は?』という気持ちも湧き上がって。一念発起して、インディーズレーベルのオーディションを受けました」。

オーディションの結果は、見事合格。2016年、『シイナ』名義でCD『goodmorning』をリリースした。

しかし、彼女は満足感を得られなかった。

「レーベルから提供された曲に、自分で歌詞を書いたんですけど、しっくりこなかったんです。当時は自分の情報を全く出していませんでした。聴いてくれる人は、私のことが全然わからないから、どう聴いていいかわからなかったと思います。私自身、自分をさらけ出してないので、どう歌えばいいかわからなくて、空回ってしまいました」。

さらにプライベートでも、課長として部下を持ったことによる悩みや、人間関係のトラブルが重なった。「私はやっぱり音楽向いてないんだ、やめようかな、と思いました」。

半ば自棄になっていた彼女を引き留めたのは、当時の恋人だった。

「『ダメでしょ』って言われました。『同じことになるよ。今やめたって、また何年後かに音楽を始めるんでしょ』って。彼のおかげで、踏みとどまることができました」。

それから半年後、ふたりは結婚した。

「あの時、説得してくれたのもそうだし、私を一番応援してくれる人なんです。私の曲を好きって言ってくれるだけじゃなく、間違っている部分は『違う』って教えてくれる。だからこそ、結婚を決めました」。

「自分のやりたいことだけ突っ走っていても仕方ない」と思ったとも語る。

「だから『結婚する』『結婚式を挙げる』っていうのを全部すませて、もう一度やりたいことを整理したんです。私が今まで経験してきたこと、上京したときの心細さ、OLとしての経験などを等身大で出していこうと決めて、『&CITY』として再出発しました」。

聞きなれない響きのアーティスト名には、「過去を吸収してリスタートした、今の私」という意味が込められている。

「私の音楽は、鹿児島にいたときに始まりました。ピアノの先生や奄美大島のおじさん、家族や生徒たちやみんながいて、シンガーになりたいと思って曲を作って、『鹿児島=地元』から『東京=都会』に来た、『&CITY』が今の私という考えで名づけたんです」。

世間の尺度で測られる『生きづらさ』を減らしたい

19年6月に活動開始した&CITYは、友人のギタリストにサポート演奏を依頼したり、カラオケ音源を使用したりして、毎月1~2本のライブ出演を重ねた。

8月18日には渋谷アストロラボにて初のワンマンライブを敢行。「もともとせっかちで、やろうと思ったらすぐやっちゃうタイプなんです」。

11月には女性ユニット『shoes』を結成。ソロの時とは違う一面を見せ、新たなファン層を開拓していった。

20年はコロナ禍により、2月以降ライブをできない日々が続いた一方、6月1日にはSingle『PALETTE』を配信リリース。自粛期間を通じてピアノを練習し、ライブ再開後は弾き語りでのステージも行うようになった。

9月からは、動画配信サービス・mystaやSHOWROOMの公式ライバーとしても活動。「そもそも私は、喋るのが苦手だから、音楽で思いを届けてきた人間です。今もトークには自信がありませんが、配信を通じてライブに来てくれるようになったお客様もいます。自分の活動にプラスになるなら、と思ってがんばっています」。

かつては自分の声がコンプレックスだった。

「他のみんなは甲高くてかわいい声なのに、私は『ハスキーだね』って言われることが多くて、嫌だったんです。でも高校生のときに友達から「シイナの声が好きなんだよね」と言ってもらってからは、声を褒められるのが一番嬉しいです」。

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今後の目標を訊くと「鹿児島のラジオ番組を持ちたいですね。地元を出たからこそ分かる良さって絶対あるから、そういうのを伝えられたらいいな」。

さらに「『テーマ曲』に起用されたいです。ドラマのエンディングとか。その枠を勝ち取るためにも、業界の人に必要だと思ってもらえるようにならないと。今は毎月、地方のラジオ局などに何かしら応募しているんですよ。40歳になるころには、音楽一本で食べていけることを目指しています」。

リスペクトしているアーティストは、竹内まりやだ。「ああいうアーティストは今後出てこないんじゃないか、とさえ思っています。私も、あんな風に存在感を持って、メッセージを伝えられる人間になりたいです」。

他にも、憧れの人物として、天海祐希や井川遥など『カッコいい女性』の名を挙げる。「可愛さのなかにカッコよさもある人が、特に好きです」。

そういえばと言葉を切った彼女は「みんな髪型がワンレングスだから、私も伸ばしてみたことがあるんですが、親に『失敗作』と言われるくらい似合いませんでした」と苦笑した。

「私は強い女性に憧れていますが、自分の顔も声も喋り方もカッコいい系じゃなくて、周りからは『アイドル寄り』『可愛い系』って言われることが多いです。媚びを売ってるように見えてしまうこともあるようです。悔しいけど、変わりたいけど、これが私っていうのも間違いなくて、変われないんですよね」。

仕事や人間関係の中で、葛藤を重ねてきたと言う。

「私と同じようなもどかしさを感じてる人は、きっとたくさんいると思います。この思いや経験を歌にして、共感してもらえたらいいな。こんな私でも、仲良くしてくれたり、好きだと言ってくれる人がいるってことも伝えたいですね」。

特に、同年代の女性に届けていきたい思いがある。

「20歳を過ぎて、親戚の集まりのたびに『結婚は?』『子どもは?』って聞かれることが本当に苦痛でした。

まだまだやりたい仕事があって、満足できていなくて、頑張りたい自分がいたのを誰もわかってくれない気がしました。

友達も、誰かの妻や母になっていって、会話がすれ違うようになりました。

今、そうした状況にいる人、かつての私と同じ苦しみを抱えている人に『自分の人生をしっかり歩んでいるだけで素晴らしい。周りは、そんなあなたを必要としている』ってことを歌いたいです」。

自分の経歴をつまびらかにすることは『女性シンガーソングライター』として損をすることもあるかもしれない。だが「自分をさらけ出してこそ伝えたいメッセージを伝えられるし、共感してもらえる」と、公開に踏み切った。

「私は、自分のことは自分で幸せにできる人間でありたいです。友達も、夫も、一緒にいて楽しいから一緒にいます。結婚や子どもが人生のすべてではなく、自分が幸せになるための選択肢の一つだと思います。

きっと私は、結婚で学ぶものがあるから、それを選んだだけです。

女性に限らなくても、みんな周りのものさしに左右されないで、自分の生き方を誇れる自分でいてほしい。苦しいかもしれないけどがんばってほしい、ってことを、歌っていきたいと思います」。

『なりたい自分』や『求められる自分』とのギャップに苦しんできた彼女の歌は、きっと、誰かの心の支えになるだろう。

text:Momiji

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